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TOMIXより、1/80, 16.5mmゲージ70系発売の予告

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 8月24日(金)00時35分34秒
返信・引用
  皆さんこんばんは

TOMIXより、HOゲージ(厳密には日本スケールの1/80, 16.5mmゲージ)の70系の模型化が発表になりました。
 公式の発表は、先週末の鉄道模型コンベンションの場で行われ、「横須賀色セット」と「新潟色セット」の発売が予告されました。今のところ内容はこれだけで、どの製造ロットか、クハ76.モハ70型以外の形式は発売されるのか、はまだ不明です。予告の写真で掲載されているのは、横須賀色は横須賀線時代で、中間のサロはサロ85形、新潟色は6両編成で中間のサハはサハ87形、もう片方のクハはクハ75形になっており、先頭のクハ76はともに1次車の昭和34年更新後でした。
 KATOから、クモハ41、クハ55が模型化されており、最近再生産されているので、新潟及び中部山岳ローカルで見られた、片方クハ68の編成を作ることも可能です。

73系アコモ改造車の台枠について
すぎたまさん
 「国鉄電車形式図集 第1分冊・旧型編」によると72系の台枠は、72500台、79300台がそれぞれUF132A, 134で、72920, 79920台がそれぞれUF412, 413になっています。他の全金車を見ると、80系300番台はUF312~315と300番台の番号になっているのですが、何故か70系300番台はUF132A, 133と、それまでの車と同じ番号が付いています。
 アコモ改造車はどう記載されているかというと、72970台は「UF132A」、79600台は「UF134・413」となっており、クハ79920台の台枠のUF413が入っており、クハ79609がクハ79949を種車としていることを反映しています。クハ79609は後期改造車なので、「前半の3編成が作られた段階」では、アコモ車の台枠は「UG132・134」なのは正しいです。

 飯田線での流電ですが、窓の幅を揃える話としては、昭和40年代初頭の年末年始の臨時列車用に6両編成を仕立てた時に、両側がクモハ52001,002で、間に窓の狭い車(サハ48、クモハ42、クハ47100台等)を組み込んだ編成、両側がクモハ52003,004で、間に窓の広い車(サハ48034、サハ75100台等)を組み込んで窓の幅をそろえた編成を作ろうとした、という話が確か昭和58年のRP誌の飯田線特集にありました。一方で、狭窓と広窓の流電を連結したのは、流電のさよなら運転の時の編成が該当します。

記号についての余話
34036さん
 記号のうち、“適当”感の強い符号は貨車の荷重記号の「ムラサキ」ではないかと思います。荷重記号の由来については吉岡心平著「RM Pocket 16 プロフェッサー吉岡の私有貨車図鑑」P23にまず「ム」が定義されたことが記述されています。引用すると

記号「ム」は、昭和3年の大改番以前は馬を積載できる有蓋車を示す記号であったが、「ム」を付された有蓋車は大型であったことから、大型有蓋車のことを「ワム」と通称する習慣が生まれ、これが便利だったため、昭和3年の大改番ではこれを荷重記号として採用した。なお、当時の大型有蓋車には、少数ながら14トン車が存在したため、記号「ム」の範囲が14トンからとされたことはあまり知られていない。

とあります。「馬」が「ム」になったのは、歴史的仮名遣いで、馬は「ムマ」と標記したことに依ります。最初に「ム」が決定し、その後の「ラサキ」は、「ム」を頭文字にする頃の良い言葉を思いついた、という事情のようです。「キ」は荷重25トン以上の車を示しますが、昭和3年時点では「キ」に入る車は大物車以外ではごく少数で、タンク車ではオア27650形27650の1両だけでした。この車は昭和3年の改番で「タキ1」とはならず、「タキ1450」と飛んだ番号になっています。
なお、昭和3年改番以前の貨車の「オ」記号は「大型」を示す記号のようで、タンク車では他にオア27600形、27620形(昭和3年改番でタサ700形)がいるほか、長物車「オチ」がいて、ボギー車を別格とする考え方のようです。

私鉄の貨車でも由来がミステリアスなものがあって、地元の秩父鉄道の石灰石輸送車が「ヲキ」と、「ヲ」の符号が付いているのですが、この由来が今となっては不明です。「鉱石」を「コヲセキ」と発音した、あるいは英語の「ore」を「ヲアァ」と発音してそこから取ったのではないかという説が出ています。ただ、鉱石は歴史的仮名遣いでは「クワウセキ」と書くので、仮名遣いを無視して発音を優先したことになっています。
また、昨年写真を紹介した、熊本電鉄のアーチバ台車の由来である貨車の「ナ1形」は、長物車で、「ながもの」から符号「ナ」を取ったと考えられます。

18m級電車の置き換え情勢について
関東の私鉄の18m級電車の置き換えの情勢について、新たな動きが発表されています。
まず、東急池上線、多摩川線の7700形が養老鉄道に譲渡されることが先日の新聞で報道されました。7700形は、7000形として登場してからは60年になるのですが、1990年頃に機器を更新しており、機器については1000形と同程度の使用歴になっています。7700形に白羽の矢が立ったのは、元々3両の短編成で、無改造で導入できるからではないかと考えられます。
また、東京メトロ日比谷線乗り入れの東武20000系の転用工事の内容もRF誌で発表になりました。単純化すると、「TcMM’MM’MM’Tc’」から、先頭車と中央の電動車ユニットを抽出して「TcMM’Tc’」にするものなのですが、注目すべき点として「5扉車を3扉車に改造する」ことが発表されています。5扉車の入った編成は全て廃車にして、全3扉車の編成だけを転用すると考えていたので、5扉から3扉への改造は意外でした。ただ、ステンレス車を改造するので、外板の全貼り替えはかなりの手間になると考えられ、扉の部分は、日光線の205系イベント車のような扉があったことがはっきりわかる形態になるのではないかと考えらえます。
先日、金沢文庫の総合車両製作所に都営浅草線5300形が搬入されたこと報告しましたが、2両単位でトレーラーに載せられて運び出されています。また、昨日は先頭車が運び出されています。行き先は、改造ならば北野の京王重機、解体ならば北館林の津覇車両ではないかと思われます。
 
 

お礼

 投稿者:34036  投稿日:2018年 8月21日(火)19時19分4秒
返信・引用
  皆さん、こんばんは

すぎたまさん、

コメントをいただきありがとうございました。

 >どこが監督するにせよ、組織として理由を説明せずに記号を制定しますかね。そこの前提がおかしいように思うのですが。

 >基本的にはトップダウン的に「これこれこういう記号を制定したから、今後はこういう目的の車輌は××という記号を付けてね」と
  指示する人(もしくは組織)がいて、現場側はそれに従うのが当たり前なわけで、仮にそれが浸透しなければ、
  みんな好き好き勝手な記号で呼んでしまうでしょう。

まさに、これを担うのが「車輛称号規程」なわけですね。
実際車輛の記号については、制定された記号が現場に浸透し、原則的に問題なく運用されていると思います。
記号の由来などお構いなしに、ですね。


 >クとサについては、今のところ確定的な証拠文献は発見されていないようですが、必ずどこかに記述があるはずです。

明治44年1月の車輛称号規程で、客車の記号の制定についての条文は同規程第四條にありますが、
その文面は添付の資料のとおりで、記号の由来に関する説明はありません。
まあ、そうした説明は不用だし、少なくともこうした条文の中では記述されない類のものでしょう(と私は思います)。

すぎたまさんが言われるような「記述」というのは、あるとすれば、
例えば、法律の条文などでは、内容の解釈をめぐって必要に応じて注釈書、解説書なりが出される場合もあるでしょうから、
そうした書籍なり文書がそれに該当し、その中でならありえるのかもしれません。

しかし、その場合、すぎたまさんの考え方に従うならば、記号「ク」「サ」に拘らず、
「現場に浸透が図られるために」制定された記号全てに等しく、記号の由来が記されていなければならない道理と思います。

記号の由来の正当性が担保されるような書籍なり文書であるなら、少なくとも当局監修等のおスミ付でなければならず、
もしそうした書物なりが存在するとすれば、その存在が知られていないはずがない、のではないでしょうか。

一般論として、記号の制定に関しては、制定意図を代表しうるような適切な記号の選択が困難な場合もありえますよね。
その場合は、73おやぢさんも同じことを述べておられたと思いますが、
まだ使われていない文字をいくつか選んで、そのなかからエイ、ヤで決めるとか、
文字を書いた紙きれを箱に入れて、籤引きで決めるとか(半分冗談、半分真面目です)、
そういうケースも無きにしも非ずなのではないでしょうか。
こうした記号は、一度決めてしまえば、その理由など問わない類のものなのではないでしょうか(と私は考えます)。

話がそれるかもしれませんが、国鉄の称号規程のなかには、「旧形車」、とか「雑形車」とか出てきますが、
こうした「形」の使い方は、国語的には誤りと思っても、条文に
「「旧形車」とは、これこれこういう車輛を指す」、といった具合に「定義」されているので、理屈抜きに
「はい、わかりました」といって受け入れているわけです。

なお、本題とは関係のない話で恐縮ですが、
国鉄内では、「静岡形」とか「大阪形」といったように「形」を使う表現が普通にありますが、これは一種の「文化」ですかね?
「形式」も、普通の意味では「型式」が正しいでしょう。「形式」という述語はどのようにして登場してきたのでしょうかね。
添付した資料によれば、明治44年1月の車輛称号規程の条文の中では「型式」という言葉が使われています。一方で
車体標記の仕方などの指示達の中で表示されている「図」では、「形式」とされています。当初は両方が混在していたようです。




73おやぢさん

お返事ありがとうございました。

記号「ク」に係る話は、最初はほんの軽い気持ちで投稿したのですが、このような展開になるとはおもいませんでした。
おかげさまで、いろいろ興味深いお話を伺うことができ、自分でも新たに考えるきっかけとなり大変勉強になりました。
ありがとうございました。

●「手帳」の件、見返していて誤りに気付きました。
ピク誌ではなくて、ファン誌でした。お詫びして訂正いたいます。大変失礼いたしました。

 誤 RP09-05 p.132-133
 正 RF(No.577) 09-05 p.132-133 「鉄道車両知識の小箱」

●「マニヤの称号規程」について
明治44年1月の称号規程の説明の下りの中で次の一文があります。

 「旧番号中ニデなる記号は、明治43年3月8日に当時のロハをニデに(荷物室付)に改造されたもので、
 この改正ではデニとすべきが当然であるが、当時の考えでは、ある意味では電車は別格で、
 等級もつけないで番号は当時の二等並みという扱いであった。」

この中の「この改正ではデニとすべきが当然であるが、」の部分です。著者はどうしてそれが当然である、と考えたのでしょうかね。
後段の話ともつながらないように思います。
この点は私の中では明治44年1月の称号規程のコンセプトをも含めて、以前からいろいろ考えさせられている問題です。

●戦後の運転と工作の間の確執の存在については、下記山之内秀一郎氏の寄稿文の中でも触れられています。
RF(No.562) 08-02 p.85-89 「209系誕生秘話 新しい電車のコンセプト」

 「とくに運転局と車両局は長年の間、国鉄部内でも仲が悪いので有名だった。実態は低次元の権限争いだったのだが、それだけに根が深い。云々」の下りがあります。

この部分がというわけではありませんが、申し訳ないですが全体として読んでいてイライラ感の募る一文ではあります。あくまで私の感想としてですが。

 

飯田線における52形電車の問題

 投稿者:すぎたま  投稿日:2018年 8月21日(火)17時44分18秒
返信・引用
  みなさんこんにちは。

73おやぢさんの記述で、ふと気になったのですが、飯田線におけるクモハ52形の運用、確かに広窓車はそれらだけで、狭窓車はそれだけで編成されている写真が多いように思えます。
しかし、片側狭窓、片側広窓の編成もあるにはありましたし(宮沢模型のHOモデルもそうなっています)、どだい、52001と52002はMT-30または40になっていて、142Kw車であるのに、52003-52005はMT-15モーター(本来は16のはずだが、原口さんがレポされたように、循環修理されたのか、MT-15装備の車輌ばかりだった(?))でおおよそ110Kw車(1500V換算)のはず。
ということは、性能は揃っていなかったわけで、広窓・狭窓の運用分けは、外観だけでは無いようにも思えますが、真相はどうだったのか…。
もっとも、クモハ52003-005が、どうしてMT-30化されなかったのか。「合いの子」車は、53形化されて配置されているのに、まさかモーターを西武に譲渡しすぎたわけでもありますまい(笑)から、そこからして謎なんですけどね。

原口さん
クハ79920番台は、キーストン構造台枠ですか?。ナハ10の試作車では、キーストン構造に軽量化穴まで開けた横梁などが、鉄道ジャーナル誌で観察出来ますが、電車でキーストンになったのは101系からではなかったですかね?。私も確実な資料が無いので、わからないのですが…。
72970番台の仙石線向けは、まず3編成が作られ、さらに2編成増備の形になっています。少なくとも3編成が作られた時に書かれた解説書(国鉄車両設計事務所編)によると、台枠はUF132、134使用になっており、クハ79949がそれに該当するのかどうか、本車だけキーストン構造なのかどうかが、今のところわかりませんね。本車はのちにクハ103-3001に改造されていますが、見た目の違いはわかりませんし、クハ79609時代の画像を見ても、車体すそなどに特段の違いは見られないように思えます。

いまだ解明されない旧国の多数の謎とでもいいましょうか。
失礼いたします。

http://princesscomet.net/

 

軽量客車の台枠

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 8月19日(日)23時49分57秒
返信・引用
  鋼体化客車の台枠と併せ、軽量客車(オハネ12 29)の台枠も観察しました。

まず、台枠の前に床板が注目で、オハユニ61 107では木張りなのに対して、オハネ12 29はキーストンプレートになっています。台枠もかなり様子が異なり、オハユニ61 107のゴツイ構造とは対照的な、ほっそりした横梁で、スハ43系辺りとは異なっています。この構造は旧型国電末期の全金車の一群にも継承されているはずで、それまでの旧型国電とはかなり様子の異なった床下だったはずです。72系アコモ更新車のうち、クハ79609だけは全金車(クハ79949)が種車だったため、台枠はこのタイプで、他の車とは一線を画していたはずです。

写真中央は、当初の目的でもあるSL碓氷号で、磯部駅付近で迎え撃ちました。夏の高気圧が交替して、湿度が低く、山がよく見えたので、上毛三山、浅間山を入れた写真を撮影してみました。写真はその中から、榛名山を背にしたSL碓氷号です。
碓氷峠鉄道文化むらからは、熊ノ平信号場まで歩きました。写真はその帰りに、丸山変電所付近を並走した「峠の湯」から碓氷峠鉄道文化むらへ降りる列車で、写真を撮影した場所を含む、66.7‰区間は歩く速度で降りていたのですが、丸山変電所を通過してからはスピードアップして降りていきました。
 

鋼体化客車の台枠とTR11台車

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 8月19日(日)23時27分11秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんばんは

18日(土)は、信越本線(高崎―横川間)で「SL碓氷号」を運転したのに合わせて、SL碓氷号の撮影をするとともに、久しぶりに「碓氷峠鉄道文化むら」を訪問しました。
 以前、オシ17 2055の台枠を観察して、「3軸ボギー台車に対応した台枠に、どのように2軸ボギーのTR53台車を適合させたのか」を報告しましたが、今回はオハユニ61 107の「鋼体化客車の台枠」に注目しました。
 まず、横幅なのですが、モハ50系電車の鋼体化の時は、種車のデハ63100形が車体幅2600mmで、これを2800mmに拡大したため、側梁を「元の梁をそのままにして外側に梁を新設」「元の梁を取り外して、横梁を延長して、外側に梁を移設」といった方法で車体幅を拡大する方法が取られたのですが、オハ61系の場合は、元のナハ22000系が既に横幅2800mmを採用していたため、幅の拡大をする必要はなく、横梁はそのまま使われています。ただ、中央から外へ向けてテーパーが取られた、見慣れた形態の横梁ではなく、高さは同じで、外側で角を取ったような、形態になっておりこのため、外側から見ると側貼りの存在がよくわかります(写真上)。
 台枠の前後方向の継ぎ足し部分ですが、「よくわからなかった」というのが実情でした。オハユニ61形は鋼体化のなかでもかなり後の工事なので、溶接の仕上げが向上したのか、見かけ上は接合位置がわかりませんでした。写真中央は連結器部分で、17m車から20m車になったため、オーバーハングが伸ばされたので、端梁およびデッキ部の構造全体が外側へ移動したはずです。おそらく、写真の辺りで、外側へ延ばす工事が行われたのではないかと思われるのですが、よくわかりませんでした。
 写真下は、TR11台車の「球山形鋼」の構造がよくわかるように写真を撮影したものです。TR11台車の解説としてよくあるのが、「造船用の部材であった球山形鋼の使用」で、「球山形鋼の製造中止」に伴って新型台車の導入の必要に迫られたことが台車の歴史でよく取り上げられるのですが、「何故球山形鋼の製造が中止になったのか」の記述は見たことがありません。また、造船分野から球山形鋼の生産中止に触れた資料も見つかっていないので、「製造の方から見た事情」が不明です。ちなみに、鋼材の製造については、八幡製鉄所の資料室に資料の保管があるそうで、明治44年の製品目録にI型鋼や溝形鋼といった現在でも標準の断面の鋼材の他、「球山形鋼」「球I型鋼」「球鋼板」といった製品の記述があるそうです。明治末期から、大正、昭和初期にかけて、世界情勢の変化による景気の変動はありますが、一貫して鉄鋼の製造量は伸びているはずで、その過程で少量多品種製造から、大量少品種製造へ方針の変更があって、製品の集約が行われ、おそらく球山形鋼は製造時の過程数が多かったことが考えられ、整理の対象になったと考えられます。ちなみに、現在製造されている鋼材は、JFEスチールのカタログが見つかり、「球平形鋼」がありました。意味は、平形鋼の一端を丸く整形したものですが、溝形鋼(チャンネル材)を中央でから竹割にしたものに近いです。また、JIS等の現在の鋼材の規格を見ると、「球山形鋼」は規格としては存在しており、寸法の一覧表がありました。
 20日(日)に職場の図書室で造船の歴史の本を調べてみたのですが、鋼材の規格に関する記述は見つからず、球山形鋼を造船の方で必要としなくなった事情は確認できませんでした。代わりに、鋲接、溶接に関する技術の進歩の記述は見つかり、溶接については「溶接棒の品質」がカギになったこと、初期の全溶接船(昭和7年竣工の海軍の敷設艦「八重山」)では、溶接部分の品質のばらつきが大きかったことが記述されていました。鋲接は、船の場合、16mm, 28mm系の鋲が使われていましたが、戦艦「武蔵」では40mm径の鋲が使われました。戦艦「武蔵」への40mm径の鋲の採用と生産、鋲の打ち込みについては、吉村昭著「戦艦武蔵」に詳細な記述があります。
 敷設艦「八重山」は、昭和5年8月2日起工、昭和6年10月15日進水、昭和7年8月31日竣工なのですが、同時期の鉄道車両でも溶接の採用がエポックになっています。電車では昭和5年のモハ31058(後のクモハ11222)で溶接を取り入れた車体が試作され、昭和6年の車から溶接が本格的に採用されて、リベットが大幅に減少しています。また、貨車でも昭和6年に登場したタム500形で全溶接のタンク体が採用されました。RM140号の「私有貨車セミナー」P75に昭和8年新潟鉄工製のタム20506(タム506を43-10改正に伴う65km/h制限で改番)の写真が掲載されています。昭和6年汽車支店製の、「最初の溶接タンク体」を採用した、タム20501の写真も掲載されているのですが、マンホールの固定方式、安全弁の形態が戦後に一般的になった方式になっているため、昭和20年代中頃から後半にタンク体を全交換する更新工事を受けた可能性が大です。タンク車ではしばらく溶接タンク体とリベット止めタンク体が共存したのですが、昭和10年ごろに溶接に全面的に置き換わっています。
 

記号の由来を現場に説明しないのか

 投稿者:すぎたま  投稿日:2018年 8月19日(日)07時16分20秒
返信・引用
  34036さん

> 「当たり前のこと」だから残されないのではなく、もともとが残される類のものではない

 これって、言っていることが、前段と後段で同じではないですか?
「もともとが残される類のものではない」から、つまり「「当たり前のこと」だから残されない」のではないかと思うのですが。常識的に考えて、「当たり前だから」理由が「残されない」んじゃないですかね?。

総論として、工作局だか、運転局だか組織のことは私なんぞはわかりませんが、どこが監督するにせよ、組織として理由を説明せずに記号を制定しますかね。そこの前提がおかしいように思うのですが。
モハがマハになってしまった例なんかもありましたが、あれはおそらく現場の呼び方がいつの間にか共通認識になってしまった例かと思えますが、基本的にはトップダウン的に「これこれこういう記号を制定したから、今後はこういう目的の車輌は××という記号を付けてね」と指示する人(もしくは組織)がいて、現場側はそれに従うのが当たり前なわけで、仮にそれが浸透しなければ、みんな好き好き勝手な記号で呼んでしまうでしょう。
なので、必ずクにしても、サにしても、誰か決めて浸透させようとした人がいるはずで、理由もその人が考えたものがあるはずです。ただ、記号はそれが現場や届け出先などで共通認識になっていれば、モハであろうとマハであろうと、「由来」の部分は忘れ去られてしまっても問題ないわけです。だから年代が下るとわからなくなってしまう。それで由来を尋ねられた人が、なんとなく自分が思っていた由来として、駆動のクみたいな、謎な自説を答えてしまい、今度はそれがスタンダードであるかのように伝達していってしまうのでしょう。
クとサについては、今のところ確定的な証拠文献は発見されていないようですが、必ずどこかに記述があるはずです(それが残存しているかはわからないが)。トデを制定したのですから、必ず現場に説明し、その時に由来も説明しているはずです。
唐突に、「モーター無し車を『ぺ』にするから」とだけ言われて、「何で『ぺ』なんだ?」と思わない人はいないと思うのです。実際は「ク」ですけどね。

失礼いたします。

http://princesscomet.net/

 

たぶん最後のお返事です

 投稿者:73おやぢ  投稿日:2018年 8月18日(土)18時45分58秒
返信・引用
  みなさん、こんばんは。
34036さん、お返事ありがとうございます。
私の材料は出つくしましたので、たぶん本件最後のお答えになると思います。

Ⅰ 手帳の件
最初は短絡的に「43年1月号が反映したのでは」と思いましたが、手帳は暦年区切りでしょうから、編集や印刷は42年秋ごろであり、タイミング的に電車誌の記事は無関係のようですね。そうすると、次なる候補としては昭和33~34年あたりに電気車研究会が発行した「鉄道用語辞典」(未見のため発行時期や書名などは不詳)にさかのぼるかもしれません。これには”くっつき説”が記載されているそうです。ついでながら昭和33年には国鉄自身が立派な「鉄道辞典」を編纂していますが、これには全く記載がありません。

Ⅲ-② 工作と運転の確執
なんでも管理したがる工作系と、使い勝手重視の運転系の確執は、ほぼ34036さんのおっしゃるとおりです。両者の立場に関しては、流電の飯田線転入時の逸話を思い出しました。本件に合致した内容ではありませんが、少なくとも運転局側の考え方を知ることはできます。

飯田線転入後の狭窓車と広窓車の混用を心配した工作局の某氏が運転局を訪ね、
「モハ52形は狭窓車同士、広窓車同士で編成を組むように、現場を指導してくれんか」
と依頼(もちろん私的に)したそうで、運転局はこれに対して、
「モハ52形各車は性能と設備が同じだから、一体にプールして効率的に使うべきである」と突っぱねたそうです。柔軟な運用と予備車削減こそ重要と考える運転局の姿勢がよくわかります。実際は晩年まで狭窓車と広窓車は上手に使い分けられたようで、結果は問題なかったようですが。

話は少々脱線しますが、工作局の”流電愛”には格別のものがあったようで、興味深い改番が見られます。すでにご存じの方には、いまさらの話で申し訳ありません。
流電系付随車改クハ47形は改造日付順のため当初の車号は広窓-広窓-狭窓の順でしたが、後の再改番で狭窓-広窓-広窓とひっくり返され、多くの国電愛好家は結果に安堵しているはずです。
また、流電系サハ48形は本来ひとくくりの連番でしたが、3扉化にさいして出自や便所の有無で細かな番台分けとする、非常にマニアックな改番がなされました。これなど、運転側にすれば「迷惑千万な改番」かもしれません。最終的に全車受け入れた岡山にしても、この番台分けはチンプンカンプンだったことでしょう。

“くっつき説”は運転側か
運転側の視点とする根拠は?ということであれば、当然ながら物的根拠はありません。ただ、工作と運転、いったい何をする人たちの集団かといえば、工作は車両を「つくる人」および「管理する人」、運転は車両を「使う人」であり、くっつくのもさしはさむのも、使い方の一形態と考えたからです。もうひとつは、電車の進歩発展の過程で、編成増強の要請を受けて単車が2両となり、3・4両…と成長していきますが、例えば3両編成なら単純に「電車」を3両つなげればよいという問題ではなく、完全装備の「電車」より格落ちの車種を混ぜることで性能やコストを勘案したバランスが求められるはずです。このあたりを考えるのが運転の仕事であり、運転や営業(大正期における発言力は恐らく無いと思う。戦後であれば十分にあり)による「こうした列車を走らせたい」「こうした車種がほしい」という要請に応じて、工作が最善の車両を提供するのが国鉄時代まで一貫して続いた基本的な流れと考えます。
もしここで、くっつけると言い出したのは、本当は工作側だよと証明されれば、私が指摘したハードルは無意味であり、”くっつき説”に対する障害はなくなります。

松縄氏のキャリアは存じませんが、明治~大正にかけての組織図に興味深い関係があります。
まず、明治40年の帝国鉄道庁設置時、運転課と工作課はどちらも運輸部に所属しており、塚田論文にあった買収直後の車両番号付与の紛糾は身内の兄弟喧嘩であり、さればこそ運輸部内で調整が働いて苦し紛れの折衷案をひねり出した可能性はありそうです。
これが大正2年の組織図では工作系が分離独立して技術部工作課となり、運輸部は運輸局(旅客・貨物・運転主任)となっています。この時点で運輸局内に運転課の文字が見当たらないのですが、大正9年の図では運輸局内に運転課が存在することから、大正2年の段階でも同様(運転主任なるものが運転課と同等の可能性?)と思われ、以後は国鉄までずっと別系統です。部と局の違いは所帯の規模でしょうし、技術部に上部組織はなく、鉄道院総裁の下に技術部と運輸局が並列記載ですから、名称をもってただちに局は部より格が上で力が強いとはならないと思います。運転屋にすれば「おれたちが本流」「出分かれ(工作系)が何を言うか」的な自負はあるかもしれませんが、これが力関係にそのまま影響したかどうかは証明のしようがありません。組織が完全に分離しているので、少なくとも大正2年以降、称号の管掌は技術部工作課とするのが妥当と思われます。

34036さんが”くっつき説”を荒唐無稽と感じられたことがあったとは、人それぞれで面白いです。私は学生のときに知人から”くっつき説”を教えられ(たぶん彼の根拠は43年1月号でしょう)て洗脳(?)されたため、後年に電車誌で”具備説”に遭遇したときは大いに戸惑いました。「最終目的のクに誘導するため、日常生活でほとんど使わない具備という単語を持ち出したのか」とすら思ったものです。その後、若干の曲折を経て今日に至っているのですが。

いずれにせよ、前回、落としどころとして提示したくだりが、現状における最終的な認識です。あとは皆さんのご判断で、検討なり考察を進めていただければよろしいかと存じます。
 

番号体系:貨車の場合

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 8月13日(月)11時43分7秒
返信・引用 編集済
  皆さんおはようございます
34036さん、コメントありがとうございます

投稿の訂正、削除の仕方ですが、この画面を下の方に進めていくと、一番下の左隅に4つのスイッチがあり、その中に「自分の投稿の編集・削除」のスイッチがあります。ここをクリックすると、自分が投稿した記事が新しい投稿から順に表示され、「削除」「修正」のスイッチが有るので、これをクリックして記事の追加、修正、削除ができます。
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貨車の明治44年改番について
 電車で「デ」の符号が設定された、明治44年の改番ですが、鉄道国有法によって、複数の鉄道の車両が一堂に会したため、ナンバリングのシステムを一本化する必要に迫られたことによるものです。その中で、「貨車」の改番について手許に資料があったので紹介したいと思います。
 貨車の場合は、絶対数が他の車種と比べて桁レベルで多いこと、鉄道国有法で合同したすべての会社に関係者がいることで、電車とは正反対の事情がありました。貨車の明治44年の改番による番号システムは、例えばRM Library 8「3軸貨車の誕生と終焉」P8に記述がありますが、RM誌で長く連載していた「私有貨車セミナー」でも記述がありました。引用すると

 鉄道国有化までの番号体系は、会社毎に異なっていた。鉄道作業局や日本鉄道は、車種ごとに記号を定め、番号も各々1から付番していたが、山陽鉄道や関西鉄道は車種記号を定めず、貨車全体を一連番号で処理していた。
 明治44年の大改番は、明治40年の鉄道国有法で私鉄から引き継いだ貨車を整理するために実施された。この改番では、「有蓋ノ貨車」「無蓋ノ貨車」「石炭車」の三種に大別し、各々1から連続番号で付番した。このように特異な体系を採用したのは、山陽鉄道出身者の圧力によるものと言われているが、テワ1257形の1499以降は26000になるなど、形式の見通しが悪いこと、飛び番号が多発するなどの欠陥があり、結果的には失敗であった。

とのことです。
先日のお話の

>工作案:各車種類別に附番する
>運転案:全部通し番号とする

が、貨車の場合、「出身鉄道会社ごとの違い」として表面化したことになります。
 複雑化した貨車の番号を再整理するため、これも電車と同時の昭和3年に改番が実施され、貨車の車種の細分化と車種ごとのナンバリング、「ムラサキ」の荷重記号の設定など、現在に続く番号体系になりました。

 ここで、貨車の符号の由来を見ると手っ取り早いところではWikipediaに記述がありますが、その中でも引用文献として取り上げられている「学研の図鑑 機関車・電車」が手許にあります(まだ蒸気機関車が現役だった1973年版)。豚積車の符号「ウ」であることについて、家畜車の細分化の際に、元々は家畜の代表である「牛」の意味合いで符号「ウ」が設定され、その中で、豚輸送用に2段積の家畜輸送車を「家畜車」として「カ」を設定したところ、在来の家畜車の方が絶対数が多いので、記号書き換えを省力化するため、在来の家畜車を「カ」で残置して、豚積車を「ウ」にした、とあります。「ウ」は豚の鳴き声「ブゥー」から取ったとの説は誤り、と記述されているのですが、注として、「児童書には便宜上記述されている場合がある」とあり、例として「学研の図鑑、機関車・電車」が紹介されていて、手持ちの「学研の図鑑 機関車・電車」でも確認できました。
 また、有蓋車の「ワ」についても異説が紹介されていました。「Wagon」では、英語では「貨車全般」を指し、狭義では「無蓋車」の意味になってしまうため、現在でも貨物車の意味でよく使われる「Van」、現在では「バン」「ヴァン」と標記されるが、「ワン」「ワ"ン」と標記してそこから取ったのではないか、との説が併記されていました。
 実は、「バン」「ワゴン」も、先に触れた「自動車由来」の感じがしました。「バン」は自動車では「箱型の貨物自動車」を指す用語で、「ワゴン」も「ステーションワゴン」等、貨物を輸送する自動車としてよく使われる言葉です。有蓋車を「代表的な貨車」と考える(無蓋車は石炭、鉱石、木材等どちらかというと「産業向け貨車」のイメージがあるのに対し、有蓋車は米、袋詰め貨物など、庶民向けのイメージがある)と、「代表的な貨車」の意味で、「Wagon」の言葉を使い、ここから符号「ワ」をとった、と考えることもできます。
 また、由来となった言葉は、「英語由来」が「日本語由来」に先行しているように感じました。有蓋車の「wagon」あるいは「van」、無蓋車の「truck」、長物車の「timber(「材木」の意味で、元々は「材木車」として設定)」等、は明治期にさかのぼる歴史の古い貨車です。これに対して、タンク車の明治44年改番の符号は当時は石油輸送車しかなかったこともあって、「油漕車」の「あぶら」から「ア」の符号が定められ、後に硫酸を輸送する車両が登場した時に、「硫酸漕車」が設定されて「りゅうさん」から「リ」の符号が定められました。さらに、二硫化炭素(合成繊維の原料として使用)専用車が登場した時、当時の化学工業の進展によって、様々な化成品が輸送されることが予想され、それぞれの化成品ごとに形式を定めるのはあまりに煩雑になることが予想されたため、昭和3年の改番で液体貨物を輸送する貨車を「タンク車」として定義し、併せて専用種別を併記するように定められました。

 鉄側有蓋車の「ス」については、有蓋車の鋼製化と関係があることが、RM誌の「私有貨車セミナー」と並行して連載された「国鉄貨車セミナー」に記述されていました。有蓋車は元々は木造国電と同じ、木体でしたが、大正14年に最初の鋼製の有蓋車ワ45000(M44)が登場しました。しかし、側板を単に鋼板に置き換えただけだったので、太陽熱の輻射で車内温度が上昇し、貨物が変質するという欠点が表面化したため、その後の鋼製有蓋車は内張りを貼って輻射熱を遮るようになりました。そして、昭和3年の改番で、内張りの無いワ45000(M44)形を区別する必要が出て、「鉄製有蓋車:テ」が先行して存在したため、改めて「鉄側有蓋車:ス」が定められました。このため、国鉄貨車としては、「ス」は多分に暫定的なものだったのですが、防水上有利(木張り、木製の床は水を吸い、水を切るのが難しいのに対して、鋼板ならば水を切ることができ、密閉度の高い設計もできることによる)ため、水を嫌う袋詰めセメントの輸送用としては便利な構造なので、セメント輸送の多い私鉄では「鉄製有蓋車」とともに近代的な「鉄側有蓋車」が製造されました。写真上は、私鉄の鉄側有蓋車の1つの秩父鉄道スム4000形、中央は同じく私鉄の鉄製有蓋車の秩父鉄道テキ100形、下は袋詰めセメント輸送用車の最終型として、国鉄ワキ5000形と設計を共通化した秩父鉄道ワキ800形(いずれも今年5月19日の秩父鉄道広瀬川原検車区公開イベントの時に撮影)です。

(8/15追記)金沢文庫便り
 金沢文庫の総合車両製作所に、都営浅草線5500系の5本目の編成が出場待機しており、また、これと交代するかのように、都営浅草線5300形の運用離脱した編成の2本目が金沢文庫に送り込まれていました。
 また、5月に上田電鉄の元東急7200系の最期の編成が引退しましたが、今日の等々力陸上競技場でのJ1川崎フロンターレ―サガン鳥栖戦でのイベントの一環として、東急グループの協賛で上田の7200系が陸送され、展示されました。
 

訂正

 投稿者:34036  投稿日:2018年 8月12日(日)23時07分35秒
返信・引用
  申し訳ありません。何かの間違いで2回同じ文面で投稿してしまいました。
削除の仕方がよく分かりません。悪しからずご了承のほどお願いいたします。
 

お返事

 投稿者:34036  投稿日:2018年 8月12日(日)23時02分20秒
返信・引用
  皆さん、こんばんは

73おやぢさん

「具備」説の御紹介ありがとうございました。
この説は全く知りませんでした。御教示いただきありがとうございました。

こうした説のウソホントについては、そもそもが完全証明は不可能なものです。この点についてはコンセンサスができていると思います。
私が最初にこの話題を挙げたのは、「くっつき」説を証明することではなく、「駆動車」説を否定することに重きを置いていた積りです。

「駆動車」については、私がこれまで得ていた知識に照らして、いかにもとってつけたような説であるし、納得させ得るような根拠が全く示されていません。ただそれを指摘するやいなや、必然的、相対的に「くっつき」説の合理的根拠も問われる形になるので、私の知る範囲で、「くっつき」説はこのように合理性、蓋然性が提示できますよ、を提示するのが趣旨でした。


繰り返しになりますが、記号「ク」が制定される過程で、登場時には運転台の設備はあっても、「制御車」の概念はなく、「附随車=トレーラー」としての見方しかなかった。「トレーラー電車」に対して与えられていた記号「トデ」の一文字化として「ク」が考えれらた筈である。したがって「ク」は何らかの形で「附随車=トレーラー」のシンボルとしてある筈である。
諸説ある中で、それらの真贋を判定するうえでは、上記のような歴史的過程を重視すべきであろう。この点でもコンセンサスが得られていると理解しています。


そのうえで、
Ⅰ せっかくの機会ですから、集められるデータは集積しておく意味はあろうと思われるので提示します。
先に「某車輛メーカーの手帳に記載」と紹介したものです。出典をみつけました。
汽車会社 1968年版手帳の後半部に資料として掲載されているそうです。

RP09-05 p.132-133 「鉄道車両知識の小箱」
次のように提示されています。
 ク 制御車 くつついて走るのク
 サ 附随車 さし狭んで走るのサ (ママ)

ご指摘のとおり、きちんと考証がなされたうえで掲載されているものとは思えません。


Ⅱ「具備」という言葉について
明治44年1月の車輛称号規程の文言の中には下記のように「具備」という単語が登場します。
<原文は例えば「鉄道法規類抄 工作編」などでみることができます。>
(引用)
合造車ニハ其ノ用途ニ相当スル文字ヲ併合シテ之ヲ用ウ
一、二、三等車、郵便車又ハ 其合造車中制動機附ノモノニシテ 車掌室ノ有無ニ関セズ
単ニ手用制動機ノミヲ具備スルモノハ 「フ」ヲ 其記号ノ最上位ニ冠シ 其名称ヲ 「何々車手用制動機附」ト称シ
又 手用制動機ト「ヴンヴルヴ」ヲ具備スルモノハ 「フ」ヲ 其記号ノ末尾ニ附シ 「何々緩急車」ト称ス
(引用終)

この手の文章の中では、「何々を有する」、「何々を備えている」の意味あいで、かなり普通に使われる用語ではあったようです。


Ⅲ「運転案」に偏っている
①「国鉄電車発達史」Ⅰ創業時代 [3]車両 p.25
(引用)
<明治44年1月の称号規程によって甲武鉄道引継車に対して形式称号が与えられた経緯の説明の中で>
形式称号は小電鉄会社の車両と同様に単純な番号が付けられ、1号から28号までが買収車両、29号から32号までが明治42年製車両となっていた。当時は鉄道国有法によって多数の私鉄が国有化されたが、車種の統一も容易でなく形式称号の規則もまとまらず、車種別番号にするか通し番号にするかの論争が繰り返されていたのである。(引用終)

②「マニヤの称号規程」
<明治44年1月の称号規程が制定されるいきさつから書き起こされています>
(引用)
この番号整理にさいして、国鉄80年に当り国鉄で発行された、国鉄の回顧、先輩の体験談の中で松縄信太さんが当時の事情を次のように話されておられる。
明治40年から買収された鉄道会社の事業が、だんだん一緒になってきて、そのじぶん、私が客貨車の仕事をやっていたが、当時客貨車の番号整理が最初に起こった問題である。番号の整理について、運転の案と工作の案に、意見の相違があった。工作案は、どうしても各車種類別に番号をつける。運転案は全部通し番号とするというので、1年くらいああでもない、こうでもないといった結果運転案が通った。 この間に立って、ずいぶん困った
とはなされています。(引用終)


ご覧になっていると思いますが、両文献に、明治44年1月の称号規程の制定に際しての車輛称号付与の在り方をめぐって、運転と工作の間の確執の存在が語られています。

工作案:各車種類別に附番する
運転案:全部通し番号とする

工作サイドにとってみれば、修車もあり、部品の調達も含めて、車両形式別に管理したい。番号が入り組んでいたりしたら、識別上不便この上ない。運転サイドにとってみれば、極端に言えば、同一目的に使用できれば車両の構造的な違いなど関係なく、両数の把握さえできればよい、番号が区分けされているとかえって面倒だ。といったようなことでしょうか?

で、上記文献によれば「運転案」が通ったということのようです。しかし、実際に与えられた車輛の記号番号は、かなり折衷的なもののようにも感じられます。たとえば、「三等車 ハ」に該当する車種には、1001番以降形式が変わるごとに番号を開けて附番するというようなことはせず、連番となっていますが、特に管理のしやすい?優等客車などは実質的に番号区分がされています。

このような附番体系を指して「運転案」が通ったというのですが、もし「工作案」が通っていれば、もっと形式別な区分けが徹底的に行われたのかもしれません。少なくとも明治44年1月の称号規程制定当時は運転サイドが優勢だったということですが、次のような事例を考えると少なくとも昭和の初期までは運転サイドが優勢だったように思われます。

それは大正から昭和初期の電車の改番をめぐっては、とにかく生じた欠番を、出自や製造年代等に頓着なく埋番するのが特徴だからです。
昭和3年の大改正以降でも例えばクハ15形には、いろいろな出自の車両が含まれますが、クハ5形と分ける案が直前で廃案になった経緯があるにせよ、番号の付け方が全く頓着されていないわけです。全くかけ離れた車号のものが同一形式図であらわされたりします。工作案的であれば、いうなれば戦後のように100番代、200番代的な区分けが当然だったのでは、と思われます。

ところで、73おやぢさんは、「くっつき」説は運転サイド案とのお考えのようですが、
「ク」も「サ」も同一系統の考え方であるとは思いますが、どうしてそうお考えなのかが分かりません。

松縄信太氏を「国立国会図書館デジタルコレクション」で検索すると、鉄道技師工学士であって、
①運転取扱心得解説(鉄道時報局, 1925)
②車輛一班(南郊社, 1922)
といった書籍がヒットします。①は運転畑的、②は工作畑的内容です。「客貨車の番号整理」の仕事も含めて両方に関与するような立場におおられたということでしょうか。



原口さん

>当時の電車の関係者の間で、記号の由来が「自明であった」とすると、宮崎先生の指摘する「当たり前のこと」で、記録が残っていないことはむしろ「当然のこと」と言えます。

車輛称号規程の本旨からいって、記号の由来についてまで公開する類のものではないので、証明しうるような形で文書が残っていることの方が稀であって、もともと記号の由来は「自明ではない」が、むしろ「当然のこと」なのではないでしょうか。

勿論、今回のケースに限っていえば、当時記号「ク」の由来が「自明であった」可能性を否定はできませんが、「当たり前のこと」だから残されないのではなく、もともとが残される類のものではない、のであって、こうしたケースを論じるに際しては、当時の電車の関係者の間で、
「記号の由来が「自明であった」がゆえに文書に残されていなかった。そのために時代が下るとともにその辺りが分からなくなった」
のような仮定を置くのは不適切ではないでしょうか。

こうした説のウソホントが問題になるのは、「くっついて行く」の類が、荒唐無稽な説のように思われるところに本質があるのだと思います。私自身も初めてこの説に接したときはそのように感じました。

例えば、貨車に記号の由来について例えばつぎのような説明がされています。
 有蓋車   ワ Wagon
 鉄側有蓋車 ス Steal

これらだって、実は、記号制定に携わった関係者自らの証言がある訳ではないでしょう。ところが、これらの真贋についてはおそらくだれも問題にしないでしょう。それは十分に蓋然性が感じられるからではないでしょうか。

昭和28年の改正の際、職用車の中から配給車が分離されて、記号「ル」が制定されましたが、その理由は「配るのル」と説明されています。これは制定に携わった方が自らそう説明されているわけで、議論の余地がないものです。
ところがもし、そうした根拠が明確に示されないまま、単なるウワサのような形として「配る」説が流布されているとしたらどうでしょう。

「配るのル」といわれても、「なになにするのル」は動詞を意味する語尾であって、なんら「配給」あるいはそれに代わる意味あいを示すシンボルとはなりえないわけですから、「この説は本当だろうか」といった疑問が起こり、いろいろな憶説が生まれたとしてもおかしくはなかったのではないでしょうか?
 

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