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青梅鉄道公園のクモハ40054の観察報告(その3)CS5主制御器の取り付け

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月 2日(日)00時07分17秒
返信・引用
  CS5主制御器(写真上)も重量級の物品なので、頑丈な取り付けられ方をしています。
写真中央は向かって右側、、写真下は中央の取り付け部分です。主制御器の上側の枕木方向に取り付けのための支持金具が取り付けられ、これをかなりゴツイ絶縁ワッシャー?を介して台枠に直結する支持金具にボルト止めされています。
この台枠に直結する金具なのですが、側梁の裾に高さが合っています。
 
 

青梅鉄道公園のクモハ40054の観察報告(その2)主抵抗器の取り付け

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月 1日(土)23時55分28秒
返信・引用
  抵抗器は、碍子を介して台に取り付けられ(写真上)、それがさらに台枠に取り付けられるわけですが、抵抗器はかなりの重量物ゆえ、まず両側はかなり頑丈な構造で台枠に結合していました(写真中央)また、表に見える形態から、両側だけで支持されていると思っていたのですが、それだけでは大重量を受け止めきれないためか、中間でも支持の足が出ています(写真下)中間の足は2つで、抵抗器の枠を3等分する位置に付いています。この中間の足は、さらに側梁と中梁を渡す金具に結合され、車体に固定されています。この「側梁と中梁を渡す金具」は以下に占める他の床下機器の結合でも使われています。
写真上の抵抗器を見ると、青文字で何か書いているのがわかると思います。どうも碍子を作ったメーカーの社紋のようで、この車だけでも結構いろいろな社紋がありました、また「1978」と製造年と思われる数字が書き込まれたものもあり、以前クモハ40054の「謎」として話題になった日光線運用置き換えによる廃車と車籍復活に関係するものの可能性(国府津電車区配置に伴う再整備時に新品に交換した?)ことが考えられます。
 

青梅鉄道公園のクモハ40054の観察報告(その1)主抵抗器の細部

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月 1日(土)23時38分32秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんばんは

これまで皆さんに教えて頂いた事柄から、旧型国電の特にメカニカル事柄について、まだまだ知らないこと、および誤認していることが多いと感じ、身近に細部を観察できる保存車両として、青梅鉄道公園のクモハ40054を観察することを思い立ち、今日青梅鉄道公園を訪問しました。主に床下機器の車体への取り付け方を中心として情報を集めてきたので、報告したいと思います。

最初に、主抵抗器について報告したいと思います。
抵抗器については、バリエーションがモデル8「大糸線 旧型国電等 模型製作参考資料集B」P74で紹介されていますが、クモハ40054は、この中では「小6半1」の、MT15系列装備の車両としては標準的なものです(写真上)。しかし、車体下にもぐってみると、半分サイズの抵抗器の後ろに大型抵抗器が1つあることに気づきました(写真中央)。半分サイズの抵抗器は、隣り合う抵抗器(MT15系列では、「小6大1半1」の並びの「大」の抵抗器)とともに役目が異なっていて、この抵抗器が内側に回っていると考えられます。半分サイズの抵抗器が後ろに回っている例は、63型由来の車にしばしば見られます。
写真下は、抵抗器を下から見たところで、奥に内側に回った抵抗器(大)が見えます。

クモハ54002の写真について
34036さん・73おやぢさん
 私もクモハ54002の写真を探したのですが、「旧型国電車両台帳」P100の写真と、「旧型国電50年(1)」P134の写真は同じものです。他に更新前の省電の写真が多く掲載されている書籍として交通新聞社「国電車両写真集 写真と車歴でみる1950年代を走った国鉄車両」があるのですが、クモハ54002の写真は有りませんでした(54形は、001, 005の空気側の写真が掲載)。また、RM Libraryで最近「1950年代の戦前型国電」と銘打って上、中、下巻が発売(No. 223~225)され、クモハ54形は下巻の収録なのですが、写真は他の偶数番号車も含めて空気側でした。
 

お返事

 投稿者:34036  投稿日:2018年 8月29日(水)20時52分46秒
返信・引用
  皆さん、こんばんは

73おやぢさん コメント並びに追記ありがとうございます。

54002の件、
実は原形あるいは更新前の電気側を、確実に判定できる写真にはお目にかかれておりません。
判断の根拠は、下記の外は更新後の写真でしかありません。

ご呈示の「旧型国電車両台帳」、
実は今世紀の変わり目前後の10数年間、全くテツから遠ざかっていた時期がありまして、
旧国ファンのバイブルと云われながらも、入手をしそびれております。

私が参考にした写真は、JTBキャンブックス「旧型国電50年Ⅰ」p.134に掲載されている54002です。
山側からとらえた未更新の姿ですが、同じく床下が日陰となりつぶれていて、確実な判定はできません。
(もしかしたらご呈示いただいたのと同じ写真かもしれません。)

43系4扉化車や関西型モハ51など、吹田工場で更新工事を受けた車両が、
原則的に、もとの床下機器配置を保持している、という「一般側」に照らして、
本車にもこれが適用できそう、との判断でしかありません。
(ただし、実際にはほとんどの参照写真が更新後のものではあるのですが)

ただ、本「一般側」に例外は見当たらなさそう、を前提に、
上記写真からは、運転台寄りには抵抗器群はなさそう、との判断を下しておりました。

なお、参考にはなりませんが、下記文献に山側からとらえた54002(未電装)が掲載されています。
場所は吹田工場で、メーカーから回送されてきたときのもののようです。

RJ No.126 (77-08) <特集●旧型国電は生きている> p.28


54006、54008の更新前の山側写真も見つけておりません。
実は、さらには関西向けモハ60偶数車(後の54104~112 ev など)についても、
更新前の山側が判定できる確実な写真はみておりません。

ただ、これら車両の更新後については、発表されている写真から、
何れも抵抗器群は凡て連結面寄りに設置されていると思います。

一方で、43系4扉化車や関西型モハ51で、抵抗器群が移設されている例は、
あるのかもしれませんが見つけていません。
54002が抵抗器を移設した可能性は否定できませんが、
その後に続く偶数車全車が奇数車と鏡対称であったものが、更新時に抵抗器群を後方に移設した、
というのも考えにくいのではないかと考えております。



レールファンNo.139-140の記事紹介、ありがとうございました。

2016年5月15日のこの場へのご投稿「城東線・片町線の向きについて」で

「昭和39年ごろに発行された鉄道友の会機関誌「RAILFAN」に国電の方向に関する連載記事があり」、として
モハ40の戦後の方転について、この文献を引いて紹介されていたのは知っておりましたが、
空気圧縮機と空気溜の位置関係のことにも言及があったのですね。

モハ40だけでなく、モハ42そしてモハ30も同様の状況なのですが、
前者は両運転台車、後者はモハ40の中間電動車化ということで
夫々関連性があるのですが、両方が合理的に説明できる理屈が思い浮かびません。
 

追記です

 投稿者:73おやぢ  投稿日:2018年 8月27日(月)20時36分3秒
返信・引用
  みなさん、こんばんは。
34036さん。

先日のご投稿(覚え書き)を拝見していたところ、1点確認したいことが生じましたので、お知らせしたいと存じます。

私も関西式の電気機器配置が奇数と偶数で鏡対称であるのは承知していましたが、51系の全てがそうだと思い込んでおり、54形は考えたことがありませんでした。

そこで確かめるべく、「旧型国電車両台帳」の100ページにある更新前の54002を見たら、車体中央にある主制御器の右(前位)側、シャドウでつぶれていますが、なにやら”小さな箱が並んでいる感”があり、主抵抗器のようなのですが。なるほど飯田線時代の主抵抗器は後位にありますが、遮断器導入に関連して主抵抗器が移動しているということはないでしょうか。

54002は写真が日陰であり、54004はもともと奇数向けなので参考にならず、54006と54008の更新前の写真は発見できず…というわけで、もどかしいのですが、まずはお知らせまで。

 

現在の電車の台枠と床下機器の艤装:東京総合車両所夏休みフェア2018より

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 8月26日(日)21時28分24秒
返信・引用 編集済
  すぎたまさん、73おやぢさん、皆さんこんばんは

まずは、車両の電気機器等床下機器の艤装に関する情報をありがとうございます。まだまだ鉄道車両に関して知らないことが多いと感じた次第です。

25日(土)は、東京総合車両センター(大井工場)の公開イベントがありました。昨年は用務で別のところに出かけており、2年ぶりの訪問になります。
 今年も車体の吊り上げイベントがあり、今年はクハE216-2022が使用されました(写真上)。床下を下から見ることができるので、今回も台車の取り付け部位を中心に観察しました(写真中央)。現在東京総合車両センターに入場する車はE231系以降の車がメイン(209系のうち、房総ローカルの車は大宮入場など)で、209系で確立された構造が継承されている形になっており、最近の大井工場公開イベントでは、209系以降の車が連続して吊り上げイベントに使われており、デジタルカメラを使うようになってからは、2007年のイベントで203系100番台が使われているのが209系より前の車が使われた唯一の機会でした。
 今年のイベントでは、車体を構内移動トレーラーに載せて建屋の外へ引き出すところまでが行われました(写真下)。
 古い車の床下の写真は、大井工場のイベントで、工場の歴史を紹介する写真としてその中で車両の検査の様子を示す写真として紹介されており、以前のイベントで昭和30年頃のモハ80形の吊り上げの写真が紹介されていました。RM Libraryでクモハ73形の吊り上げ写真が紹介されており、工場の公開イベント内での歴史の紹介の写真は、古い車両のメカニカル的にも注目すべきものが多いと思います。
 また、大宮工場は、地理的に近いので、大井工場よりは訪問回数が多いのですが、吊り上げイベントはJR貨物の方の担当で、吊り上げられるのは一貫して機関車(EF64やEF65)です。首都圏の103系の入場は確か2000年頃に大井工場から大宮工場に変わったので、吊り上げイベントで103系の床下を観察する機会は1990年代までの大井工場の公開イベントのレポートの調査が近道かと思いました。

造船と鉄道車両製造との関連について
 鉄道車両製造の初期は川崎重工(川崎造船)での蒸気機関車製造の開始等、造船会社の技術協力が大きな位置を占めていました。他、藤永田造船所などが造船所名の車両メーカーとして知られています。造船の技術の動向が鉄道へ大きな影響を与えた例としては、先に示したTR11台車と球山形鋼で、TR11へ使用する球山形鋼が製造中止になった経緯は、製鉄、造船の資料を継続して探してはいるのですが、まだ見つかっていません。モハ30形の台車がTR14(DT10)からTR22(DT11)に変わったのは昭和3年度からですが、このころに技術的なエポックがあったという情報は確認できていません。現在は横浜の山下埠頭に係留されている氷川丸が、ちょうどこの時期の建造で、氷川丸内の展示資料の他、これも横浜にある、日本郵船資料館でも資料を見ることができます。
 造船の過程は、コメントの「船体―機関取り付け―進水」の流れは、大型船では造船ドック建造の時の流れで、私の訪問したところでは住友重工横須賀造船所、三菱重工下関造船所で建造を見ました。これとは別に「船台」で建造する時は「船体―進水―機関取り付け」の流れになり、現在では三菱重工長崎造船所が該当します。この表現では、車輌メーカーで工事をするのは「船体建造」までで、走行関係の物品の取り付けは準備段階から国鉄工場が携わる、と上記の「船台」での建造に近い感覚(「進水」までがメーカー持ち)と、私の方では考えていました。その後提示の資料から、車両メーカーではもう少し先まで工事が行われており、部品取り付けのための準備工事までは車両メーカー側の工事とわかりました。
 

機器配置は難問です

 投稿者:73おやぢ  投稿日:2018年 8月26日(日)18時55分32秒
返信・引用
  みなさん、こんばんは。
34036さん

●機器配置にふれた文献
商業誌では全く記憶がありません。唯一思い当たるのは鉄道友の会の会報「RAILFAN」の連載記事「国電入門 方向転換」のうち、№129・130(昭和39年9・10月発行)に記述があります。129では戦前の関東と関西の流儀の違い、43形の電気機器の鏡対称、戦後の関東型の例が示されています。ただし、当然ながら「なぜ、そうなったのか」の記述はありません。130はモハ40の解説となっていて、戦後の更新後の形態についての一文が興味深いです。
引用
クモハ40として生き残った17両は、奇数に向きを変えた結果、床下配置は左右そのままなのですが、おかしなことが発生しています。戦前形のどの電動車を見ても、空気溜は後位(3・4側)なのですが、更新後のクモハ40に限って前側(1位側)に移されているのです。
以上
と指摘しています。やはり理由は示されていませんが。

●吊り金具はだれが取り付けるのか
川崎重工業の兵庫工場90年史に、電装前の写真が何枚か掲載されており、特にモハ32001の海側の写真は鮮明で、後位に空気溜が既設されているほか、車側の中央に電動空気圧縮機の吊り金具(ブラケット)、その後方(車体中心)に制御空気溜の吊り輪が確認できます。これらから、車両会社を出場する時点で電気機器類の吊り金具は配置されていると考えられます。このほか、出典は忘れましたが、クハ76形の全金車、すなわち両渡り車の奇数番号車は、偶数転向時を想定して電動発電機やバッテリーの吊り金具を新製時から用意していたといいますから、この点も車両会社装備を補強できると考えます。
納入先の変更がいつだったのかは知りえませんが、常識的には手戻りをある程度吸収できるタイミングだったのでしょうか。もちろん、最悪はモユニ81形のような可能性も否定できませんが。

●モユニ81形について
戦後はモハ63形の段階で関西式の床下機器配置を取り入れており、モユニ81形をはじめとする湘南電車の一党が関西式なのは自然な流れと思います。
偶数向きであるのは、東海道線各駅の荷扱い設備(テルハなど)が下り方にあるためで、編成の下り方先頭に連結せざるを得ないからです。客車の場合は昭和4年制定の「旅客列車編成心得」により、荷物車や郵便車の連結基準駅は神戸とすべしと規定されています。電車は適用外ですが、地上設備がそうなっている以上、従わざるを得ません。
そこで、下り方先頭を機器が完備した第一運転台にしたわけですね。ちなみに中央線の基準は新宿なのでクモニ83形などの第一運転台は115系側となり、後ろパンタが交流機関車のようで、ペシャンコ屋根とともになんとも迫力に欠けていたのを思い出します。
 

横レス気味ですが

 投稿者:すぎたま  投稿日:2018年 8月26日(日)14時36分55秒
返信・引用 編集済
  34036さん、原口さん、みなさんこんにちは。

>34036さん
空制部品は、今のように陸送や航送が簡単に可能な時代でも無かったのでしょうし、貨物列車への連結回送が一般的で(つまり甲種輸送の形)だったので、最初から取り付けておかないとブレーキがききませんから、これは鋼体完成とともに取り付けられていたはずではないでしょうか。
そこから電装品のぎ装が行われるわけですが、機器配置には、今ほど機器が多かったわけでも無いので、割と自由度は高かったのでは無いかと考えます。
戦災復旧客車などでは、竣工届けも配置もされないうちから、現車が完成するとすぐに運用に入れるなどということが行われていた時代であり(つまり無車籍か)、今からすれば考えられないことでも、当時は普通に行われていたのかもしれません。
つまり、ぎ装の機器位置変更でも、いちいち届け出や図面の変更は行われていたのかもしれませんが、それらは例の形式記号の由来同様、文献に残らないような形になってしまう(混乱もあって)可能性も、今の時代になれば否定出来ないような気がします。
最近の電車では、台枠が決まった形状で、そこに機器吊りを付けていくのではなく、機器に合わせて台枠の方をバランスを考慮しながら組むような時代で、根太に当たるものもあるような無いような形状なので、更新時の機器交換なども容易ではないようです。
それらの事情を考えると、当時は今では考えられない「しきたり」があったのではないか、と考えますがいかがでしょうか。

>原口さん
言いにくいのですが、その戦艦に例えるのやめませんか。私のような「戦争嫌い」からすると、違和感が強くて、よくお書きになっている意味がわかりません。
鉄道車輌も兵器とされた時代もありましたが、基本的に日本では鉄道車輌と兵器である戦艦の間に、強い接点はありません。戦災復旧客車や、戦前の一部の車輌は確かに造船所で作られたり、終戦で仕事を失った軍需企業に復旧工事を依頼したりということはありましたが、戦艦の製作法が、鉄道車輌へ直接的な影響を及ぼしたことって、そんなにあったのでしょうか。
私ら戦艦の基本構造について、全く知識が無い身としては、「船は船体を作って、船外機を付けて、さあ進水」という流れしか思いつきません。もっと複雑な工程があるんじゃないかとは思いますが、鉄道を専門研究分野とする身としては、昔はともかく、戦艦の基本工程まではわかりません。
戦艦は人を殺す道具。鉄道車輌は人の生活を守る道具です。
それらご考慮いただければ。

別件。あとになってすみません。クハ79609の台枠形式について、記述ありがとうございました。やはり本車のみ台枠形式は違っているのですね。そうなると、更新後の外観揃い具合や、床下機器配置の様子から見て、やはり72系全金車の台枠は、キーストン構造では無いような気がしますが…。もしかして「キーストン構造の台枠利用」試験車!?。それならそれで何かすごい気も…。
クハ103-3001、誰か台枠の見える写真撮っていないですかね(笑)。

武蔵野線用にたくさん増備されていたら(モハ721971~とか、751~とか、1001~とか(笑))、920番台からの改造車も、もっと登場したでしょうね。

失礼いたします。

http://princesscomet.net/

 

艤装・船の場合、クモハ73、モハ72000台の床下機器配置のグラフィック

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 8月26日(日)13時29分21秒
返信・引用
  34036さん、皆さんこんにちは

 先の書き込みで、「車体が「単なる箱」として落成」と書いたのは、実は当時の造船の方の工事の進め方が頭にありました。
 朝日ソノラマ文庫・堀元美著「造船士官の回想(上・下)」で、昭和初頭から終戦までの海軍工廠を中心とした造船技術について記述されているのですが、ここで、航空母艦「蒼龍」(昭和12年12月29日竣工)の建造時の記述として

「今日では商船でも軍艦でも、艤装工事は建造と同時にはじまるが、昔はそうではなかった。
 進水までは船殻工事一点張りで、艤装工事は進水前にやってしまわないと困る艦底のバルブ類や、係留装置ぐらいなもので、進水したばかりの艦はまったく鉄でできた箱のようなものだ。甲板の昇降口や、隔壁の戸口でさえも、全く切り開いていないものもあるという有り様である。
 そして艦内の諸室は、鋼鉄の箱のような様子をしている。その室内の諸装置については各部の設計係が、それぞれ自部の担当の物件について、例えば造船部では通風関係と家具類と窓の図面を、造機部は天井を通り抜ける蒸気管の図面を、電気部では電線とモーターの図面を別々に出図してくる。
 各部に位置出し班という腕利きの工員グループがいて、その図面を見て、室の壁の裸の鋼板の上へ室内の諸装置の位置がわかるようにマーキングを施す。位置出しがだいたい終わったところで、各部の担当部員が現場に集まって「現場立会」ということをやって、それぞれの受け持ちの装置が適切に装備されるように、また室全体として使いやすい、住みやすいものにまとまるように、いわば相談ずくで決定していくのである。」

とあります(上巻P185~186)。艤装では「艤装委員長」が置かれるのですが、窓を開ける場所など、船舶の機能に直接影響を与えないところでは、艤装委員長の意向が反映されることも多く、「同型艦でも窓配置が違う」という、後に個々の船の区別をするためにキーワードになるようなことが起こりえます。

これが、船殻工事と並行して艤装も行うようになったのは、開戦後で、商船では「戦時標準船」と呼ばれるカテゴリーの船の建造からです。「造船士官の回想」でも記述があり、「二等輸送艦」と呼ばれる艦を作るときの実物大モックアップを作る時のエピソードとして

「実物大の模型を木材のバラ打ち構造で作る。ちょうど安普請のモルタル壁の下地のバラ打ちみたいなものだが、要所要所にはきちんとしたスミ入れがしてあり、構造材料の鋼材の継手や、電線、諸管の穴あけ位置は正確に出ている。管の形状を定める型取りも、通風トランクの型も、全て模型によって実物大にできるので、各工場は本館がまだ船台上に乗ってもいない頃から、艦内装置の工作をどんどん進めることができる。」

とあり(下巻P145)、部材の段階で艤装のための穴あけ等の工事を行い、加工済みの部材を組み立てていくという、上記の「蒼龍」建造時の艤装の進め方から見るとコペルニクス的展開が起こり、造船に携わる人も意識の変革に迫られた、との記述があります。

 私の方では、メーカーでの工事は、上記の「蒼龍」に例えると、進水までの「船殻工事だけを行った状態」で国鉄工場へ送り出される、と思っていたのですが、34036さん提示の資料によると、実際にはメーカーでは、「船殻工事から、艤装工事の現場立会を行って、機器の取り付けレイアウトを決定し、穴あけ工事をした状態」で送り出される、という感じでしょうか。

 モハ60056ですが、「関西タイプの急行札挿し」と「関東タイプの床下機器配置」が同居するための条件としては、上記の「蒼龍」に例えると、1つの可能性として「鋼体工事時は関西投入の予定だったが、鋼体工事を終えて艤装工事に入るところで関東投入に変更になり、関東レイアウトで艤装をレイアウトした」ことが考えられます。また、車体の送り出しの段階で関西から関東へ変更になったことも考えられ、この場合は、クモユニ81と同じように、「大井工場で全部の金具を付け直した」ことも考えられます。モハ60055~064が関西から関東へ変更された可能性のある車ですが、「関東から関西へ変更された時の工事の進行状況の違い」によって細部に変化が出た可能性が有ります。これも船の話ですが、「友鶴事件(昭和9年3月12日)」「第四艦隊事件(昭和10年9月25日)」といった造船史上の大きなエポックとなる事件を挟んで船体工事の方針が大きく変わっており、これらの事件が起こった間に建造された船では、同型艦でも、工事のどの段階で工法の変化が起きたのかがバラバラで、「同型艦」とひとくくりにされてはいても、船体構造的にはかなり異なる、という例が発生しています(駆逐艦「初春」級など)。

クモハ73、モハ72形の床下機器配置ですが、グラフィックを作ってみました。上がクモハ73、下がモハ72です。モハ72の床下機器の奇数車の抵抗器片寄り車と中央車では番号にはあまり関連が無いようです。
 

お返事

 投稿者:34036  投稿日:2018年 8月26日(日)10時59分26秒
返信・引用
  原口さん

コメントありがとうございました。

おっしゃっていることの意味を取り違えているかもしれませんが、
確かに、戦前は、メーカーが製作した車両を、省工場が電装していましたが、
機器のレイアウト配置までは、工場の裁量で自由に変えられるような類のものではないと思います。

下記の文献が参考になるのではないかと思いますのでご紹介します。


●RJ No.125 (77-07) p.146-150 「車両(くるま)とともに30年 大井工場OBの思い出ばなし―⑦」 田邊幸夫

「’湘南形’郵便荷物電動車 モユニ81形の新製」で下記エピソードが紹介されています。

 「なお本車を語るとき、その製作時に予期しないミスのあったことが思い出される。
それは1号車の鋼体ができあがり砂吹きもおえてサビ止めし、船でいえば進水式が終わり、
これからもろもろの内装、艤装に入ろうというときのことであった。
第二電車職場に移されて台枠に配管の卦書を始めたころ、電車の前と後ろが上回りの車体と、
機器取付金具のついた台枠下面とが、反対向きになっていることが判明した。
さあ大変、関係者一同は青くなった。鋼体組立の鉄工職場では現図場でも検討しており、
助役、指導係、そして検査職場もOKして出したもので、「今ごろになって何事であろう」
――それはまったく信じられないことであった。
さっそく、図面の検討をしたところ、当時、車体の図面と艤装の図面は設計の部門が違い、その手法を異にしていたことが判明した。
すなわち、艤装の機器配置図は、向かって左方が後位になっており、左右の端にそれぞれ東京方と神戸方の断わりはしてあったが、
車掌室のある行位を右方にとった車体の図とでは180°違いの、まったくの逆向きになっていた。
それは前から踏襲されていたはずと思うが、電車の仕事にしばらくご無沙汰していたため、こうした失態を演じたものである。
すなわち第1号車は、この手直しに少なからず手もどりが生じたわけで、
電動車のことでもあり床下にびっしりついたもろもろの吊り金具を、ガス切断をした後に熔接をしてつけ替えるのであるが、...」


ここでは最後の一文の意味するところが重要だと思います。
上記は戦後の話ではありますが、このエピソードからもわかる通り、機器のレイアウトについては、そう簡単に変更の効くものではないのではないでしょうか。
下記文献などからも推定できると思いますが、取付用の吊り金具などの設置まではメーカーがおこなっているのではないでしょうか。
実際省工場納入前の未電装の写真をみても空気ダメなどの空制品は、既設の上納入しており、したがって、電気機器の取り付け位置も自由度はないはずでは?。


●RP No.435 (84-08) <特集>国電80年Ⅰ p.42-43 「太平洋戦争突入―戦時下の国電」 根本茂

汽車会社で落成し関西へ送られる直前のモハ60095(未電装)の写真が掲載されており、キャプションに次のようにあります。

「昭和16年度第2次のモハ60095
汽車会社(東京)で完成した関西配属(幕板部に急行札差 妻の電気連結栓受が12心2個)のため 吹田工場へ発送寸前の姿である
前灯や尾灯には灯火管制の被いがついている
戦前の国電は車両会社で車体、台車を製作 配線配管まで施工するが 電機品のぎ装は鉄道工場で行うことになっており、
現在の如く車両会社ですべて行うようになったのは戦後のモハ63からである」

写真はジャンパ部分が不鮮明で確認が難しいですが、奇数向き車で海側②④サイドからの撮影。後方に空気溜タンク等が設置されているのが確認できます。


●電車のアルバム(交友社) p.56

「中央線用の新形式 モハ51」 (写真所蔵 JNR)

キャプションに次のようにあります。

「この写真は11年度末に日本車両 支店製の モハ51026の電装前の姿である。
(戦前は、新製電車の電装をすべて省の工場で行っていた)。」

「未電装」ですが、空気溜タンク等などの空制機器は装着ずみであることが分かります。


●モユニ81追記
モユニ81は、両運ながら、下り寄りが第1エンドの設定、つまり偶数向。しかしながら、電気機器は山側で、戦前の関東車のしきたりを破る設計でした。
「世紀の湘南電車」の先頭車として、どうしても下り寄りを「前」にしたかったのでしょうか?
電気機器の山側配置については、湘南電車の電動車は総て中間車モハ80で、電気機器、空制機器が夫々必然的に同一側に並ぶことになりましたが、
長大編成では、保守上電気機器、空制機器をそれぞれ編成で一方にそろえると好都合というのが分ったことから、
モユニ81も山側に電気機器が来るようにしたのではないかと考えます。
ただ、下り寄りを第1エンドとしたために、従来とは異なる設定となり、誤解を生む原因になったのではないでしょうか。
なお、荷郵電の第1エンドが下り寄りの設定は、クモユニ74以降にも受け継がれていますね。

 

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