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番号体系:貨車の場合

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 8月13日(月)11時43分7秒
返信・引用 編集済
  皆さんおはようございます
34036さん、コメントありがとうございます

投稿の訂正、削除の仕方ですが、この画面を下の方に進めていくと、一番下の左隅に4つのスイッチがあり、その中に「自分の投稿の編集・削除」のスイッチがあります。ここをクリックすると、自分が投稿した記事が新しい投稿から順に表示され、「削除」「修正」のスイッチが有るので、これをクリックして記事の追加、修正、削除ができます。
注意点としては、記事の投稿が「ブラウザ」に保存されるので、別のブラウザからは修正できない(Google Chlome上で投稿した記事は、Internet Explorerで修正することができない等)ことと、同じブラウザでも、アップデートや、設定変更をすると、投稿履歴が削除されることがある点です。

貨車の明治44年改番について
 電車で「デ」の符号が設定された、明治44年の改番ですが、鉄道国有法によって、複数の鉄道の車両が一堂に会したため、ナンバリングのシステムを一本化する必要に迫られたことによるものです。その中で、「貨車」の改番について手許に資料があったので紹介したいと思います。
 貨車の場合は、絶対数が他の車種と比べて桁レベルで多いこと、鉄道国有法で合同したすべての会社に関係者がいることで、電車とは正反対の事情がありました。貨車の明治44年の改番による番号システムは、例えばRM Library 8「3軸貨車の誕生と終焉」P8に記述がありますが、RM誌で長く連載していた「私有貨車セミナー」でも記述がありました。引用すると

 鉄道国有化までの番号体系は、会社毎に異なっていた。鉄道作業局や日本鉄道は、車種ごとに記号を定め、番号も各々1から付番していたが、山陽鉄道や関西鉄道は車種記号を定めず、貨車全体を一連番号で処理していた。
 明治44年の大改番は、明治40年の鉄道国有法で私鉄から引き継いだ貨車を整理するために実施された。この改番では、「有蓋ノ貨車」「無蓋ノ貨車」「石炭車」の三種に大別し、各々1から連続番号で付番した。このように特異な体系を採用したのは、山陽鉄道出身者の圧力によるものと言われているが、テワ1257形の1499以降は26000になるなど、形式の見通しが悪いこと、飛び番号が多発するなどの欠陥があり、結果的には失敗であった。

とのことです。
先日のお話の

>工作案:各車種類別に附番する
>運転案:全部通し番号とする

が、貨車の場合、「出身鉄道会社ごとの違い」として表面化したことになります。
 複雑化した貨車の番号を再整理するため、これも電車と同時の昭和3年に改番が実施され、貨車の車種の細分化と車種ごとのナンバリング、「ムラサキ」の荷重記号の設定など、現在に続く番号体系になりました。

 ここで、貨車の符号の由来を見ると手っ取り早いところではWikipediaに記述がありますが、その中でも引用文献として取り上げられている「学研の図鑑 機関車・電車」が手許にあります(まだ蒸気機関車が現役だった1973年版)。豚積車の符号「ウ」であることについて、家畜車の細分化の際に、元々は家畜の代表である「牛」の意味合いで符号「ウ」が設定され、その中で、豚輸送用に2段積の家畜輸送車を「家畜車」として「カ」を設定したところ、在来の家畜車の方が絶対数が多いので、記号書き換えを省力化するため、在来の家畜車を「カ」で残置して、豚積車を「ウ」にした、とあります。「ウ」は豚の鳴き声「ブゥー」から取ったとの説は誤り、と記述されているのですが、注として、「児童書には便宜上記述されている場合がある」とあり、例として「学研の図鑑、機関車・電車」が紹介されていて、手持ちの「学研の図鑑 機関車・電車」でも確認できました。
 また、有蓋車の「ワ」についても異説が紹介されていました。「Wagon」では、英語では「貨車全般」を指し、狭義では「無蓋車」の意味になってしまうため、現在でも貨物車の意味でよく使われる「Van」、現在では「バン」「ヴァン」と標記されるが、「ワン」「ワ"ン」と標記してそこから取ったのではないか、との説が併記されていました。
 実は、「バン」「ワゴン」も、先に触れた「自動車由来」の感じがしました。「バン」は自動車では「箱型の貨物自動車」を指す用語で、「ワゴン」も「ステーションワゴン」等、貨物を輸送する自動車としてよく使われる言葉です。有蓋車を「代表的な貨車」と考える(無蓋車は石炭、鉱石、木材等どちらかというと「産業向け貨車」のイメージがあるのに対し、有蓋車は米、袋詰め貨物など、庶民向けのイメージがある)と、「代表的な貨車」の意味で、「Wagon」の言葉を使い、ここから符号「ワ」をとった、と考えることもできます。
 また、由来となった言葉は、「英語由来」が「日本語由来」に先行しているように感じました。有蓋車の「wagon」あるいは「van」、無蓋車の「truck」、長物車の「timber(「材木」の意味で、元々は「材木車」として設定)」等、は明治期にさかのぼる歴史の古い貨車です。これに対して、タンク車の明治44年改番の符号は当時は石油輸送車しかなかったこともあって、「油漕車」の「あぶら」から「ア」の符号が定められ、後に硫酸を輸送する車両が登場した時に、「硫酸漕車」が設定されて「りゅうさん」から「リ」の符号が定められました。さらに、二硫化炭素(合成繊維の原料として使用)専用車が登場した時、当時の化学工業の進展によって、様々な化成品が輸送されることが予想され、それぞれの化成品ごとに形式を定めるのはあまりに煩雑になることが予想されたため、昭和3年の改番で液体貨物を輸送する貨車を「タンク車」として定義し、併せて専用種別を併記するように定められました。

 鉄側有蓋車の「ス」については、有蓋車の鋼製化と関係があることが、RM誌の「私有貨車セミナー」と並行して連載された「国鉄貨車セミナー」に記述されていました。有蓋車は元々は木造国電と同じ、木体でしたが、大正14年に最初の鋼製の有蓋車ワ45000(M44)が登場しました。しかし、側板を単に鋼板に置き換えただけだったので、太陽熱の輻射で車内温度が上昇し、貨物が変質するという欠点が表面化したため、その後の鋼製有蓋車は内張りを貼って輻射熱を遮るようになりました。そして、昭和3年の改番で、内張りの無いワ45000(M44)形を区別する必要が出て、「鉄製有蓋車:テ」が先行して存在したため、改めて「鉄側有蓋車:ス」が定められました。このため、国鉄貨車としては、「ス」は多分に暫定的なものだったのですが、防水上有利(木張り、木製の床は水を吸い、水を切るのが難しいのに対して、鋼板ならば水を切ることができ、密閉度の高い設計もできることによる)ため、水を嫌う袋詰めセメントの輸送用としては便利な構造なので、セメント輸送の多い私鉄では「鉄製有蓋車」とともに近代的な「鉄側有蓋車」が製造されました。写真上は、私鉄の鉄側有蓋車の1つの秩父鉄道スム4000形、中央は同じく私鉄の鉄製有蓋車の秩父鉄道テキ100形、下は袋詰めセメント輸送用車の最終型として、国鉄ワキ5000形と設計を共通化した秩父鉄道ワキ800形(いずれも今年5月19日の秩父鉄道広瀬川原検車区公開イベントの時に撮影)です。

(8/15追記)金沢文庫便り
 金沢文庫の総合車両製作所に、都営浅草線5500系の5本目の編成が出場待機しており、また、これと交代するかのように、都営浅草線5300形の運用離脱した編成の2本目が金沢文庫に送り込まれていました。
 また、5月に上田電鉄の元東急7200系の最期の編成が引退しましたが、今日の等々力陸上競技場でのJ1川崎フロンターレ―サガン鳥栖戦でのイベントの一環として、東急グループの協賛で上田の7200系が陸送され、展示されました。
 
 

訂正

 投稿者:34036  投稿日:2018年 8月12日(日)23時07分35秒
返信・引用
  申し訳ありません。何かの間違いで2回同じ文面で投稿してしまいました。
削除の仕方がよく分かりません。悪しからずご了承のほどお願いいたします。
 

お返事

 投稿者:34036  投稿日:2018年 8月12日(日)23時02分20秒
返信・引用
  皆さん、こんばんは

73おやぢさん

「具備」説の御紹介ありがとうございました。
この説は全く知りませんでした。御教示いただきありがとうございました。

こうした説のウソホントについては、そもそもが完全証明は不可能なものです。この点についてはコンセンサスができていると思います。
私が最初にこの話題を挙げたのは、「くっつき」説を証明することではなく、「駆動車」説を否定することに重きを置いていた積りです。

「駆動車」については、私がこれまで得ていた知識に照らして、いかにもとってつけたような説であるし、納得させ得るような根拠が全く示されていません。ただそれを指摘するやいなや、必然的、相対的に「くっつき」説の合理的根拠も問われる形になるので、私の知る範囲で、「くっつき」説はこのように合理性、蓋然性が提示できますよ、を提示するのが趣旨でした。


繰り返しになりますが、記号「ク」が制定される過程で、登場時には運転台の設備はあっても、「制御車」の概念はなく、「附随車=トレーラー」としての見方しかなかった。「トレーラー電車」に対して与えられていた記号「トデ」の一文字化として「ク」が考えれらた筈である。したがって「ク」は何らかの形で「附随車=トレーラー」のシンボルとしてある筈である。
諸説ある中で、それらの真贋を判定するうえでは、上記のような歴史的過程を重視すべきであろう。この点でもコンセンサスが得られていると理解しています。


そのうえで、
Ⅰ せっかくの機会ですから、集められるデータは集積しておく意味はあろうと思われるので提示します。
先に「某車輛メーカーの手帳に記載」と紹介したものです。出典をみつけました。
汽車会社 1968年版手帳の後半部に資料として掲載されているそうです。

RP09-05 p.132-133 「鉄道車両知識の小箱」
次のように提示されています。
 ク 制御車 くつついて走るのク
 サ 附随車 さし狭んで走るのサ (ママ)

ご指摘のとおり、きちんと考証がなされたうえで掲載されているものとは思えません。


Ⅱ「具備」という言葉について
明治44年1月の車輛称号規程の文言の中には下記のように「具備」という単語が登場します。
<原文は例えば「鉄道法規類抄 工作編」などでみることができます。>
(引用)
合造車ニハ其ノ用途ニ相当スル文字ヲ併合シテ之ヲ用ウ
一、二、三等車、郵便車又ハ 其合造車中制動機附ノモノニシテ 車掌室ノ有無ニ関セズ
単ニ手用制動機ノミヲ具備スルモノハ 「フ」ヲ 其記号ノ最上位ニ冠シ 其名称ヲ 「何々車手用制動機附」ト称シ
又 手用制動機ト「ヴンヴルヴ」ヲ具備スルモノハ 「フ」ヲ 其記号ノ末尾ニ附シ 「何々緩急車」ト称ス
(引用終)

この手の文章の中では、「何々を有する」、「何々を備えている」の意味あいで、かなり普通に使われる用語ではあったようです。


Ⅲ「運転案」に偏っている
①「国鉄電車発達史」Ⅰ創業時代 [3]車両 p.25
(引用)
<明治44年1月の称号規程によって甲武鉄道引継車に対して形式称号が与えられた経緯の説明の中で>
形式称号は小電鉄会社の車両と同様に単純な番号が付けられ、1号から28号までが買収車両、29号から32号までが明治42年製車両となっていた。当時は鉄道国有法によって多数の私鉄が国有化されたが、車種の統一も容易でなく形式称号の規則もまとまらず、車種別番号にするか通し番号にするかの論争が繰り返されていたのである。(引用終)

②「マニヤの称号規程」
<明治44年1月の称号規程が制定されるいきさつから書き起こされています>
(引用)
この番号整理にさいして、国鉄80年に当り国鉄で発行された、国鉄の回顧、先輩の体験談の中で松縄信太さんが当時の事情を次のように話されておられる。
明治40年から買収された鉄道会社の事業が、だんだん一緒になってきて、そのじぶん、私が客貨車の仕事をやっていたが、当時客貨車の番号整理が最初に起こった問題である。番号の整理について、運転の案と工作の案に、意見の相違があった。工作案は、どうしても各車種類別に番号をつける。運転案は全部通し番号とするというので、1年くらいああでもない、こうでもないといった結果運転案が通った。 この間に立って、ずいぶん困った
とはなされています。(引用終)


ご覧になっていると思いますが、両文献に、明治44年1月の称号規程の制定に際しての車輛称号付与の在り方をめぐって、運転と工作の間の確執の存在が語られています。

工作案:各車種類別に附番する
運転案:全部通し番号とする

工作サイドにとってみれば、修車もあり、部品の調達も含めて、車両形式別に管理したい。番号が入り組んでいたりしたら、識別上不便この上ない。運転サイドにとってみれば、極端に言えば、同一目的に使用できれば車両の構造的な違いなど関係なく、両数の把握さえできればよい、番号が区分けされているとかえって面倒だ。といったようなことでしょうか?

で、上記文献によれば「運転案」が通ったということのようです。しかし、実際に与えられた車輛の記号番号は、かなり折衷的なもののようにも感じられます。たとえば、「三等車 ハ」に該当する車種には、1001番以降形式が変わるごとに番号を開けて附番するというようなことはせず、連番となっていますが、特に管理のしやすい?優等客車などは実質的に番号区分がされています。

このような附番体系を指して「運転案」が通ったというのですが、もし「工作案」が通っていれば、もっと形式別な区分けが徹底的に行われたのかもしれません。少なくとも明治44年1月の称号規程制定当時は運転サイドが優勢だったということですが、次のような事例を考えると少なくとも昭和の初期までは運転サイドが優勢だったように思われます。

それは大正から昭和初期の電車の改番をめぐっては、とにかく生じた欠番を、出自や製造年代等に頓着なく埋番するのが特徴だからです。
昭和3年の大改正以降でも例えばクハ15形には、いろいろな出自の車両が含まれますが、クハ5形と分ける案が直前で廃案になった経緯があるにせよ、番号の付け方が全く頓着されていないわけです。全くかけ離れた車号のものが同一形式図であらわされたりします。工作案的であれば、いうなれば戦後のように100番代、200番代的な区分けが当然だったのでは、と思われます。

ところで、73おやぢさんは、「くっつき」説は運転サイド案とのお考えのようですが、
「ク」も「サ」も同一系統の考え方であるとは思いますが、どうしてそうお考えなのかが分かりません。

松縄信太氏を「国立国会図書館デジタルコレクション」で検索すると、鉄道技師工学士であって、
①運転取扱心得解説(鉄道時報局, 1925)
②車輛一班(南郊社, 1922)
といった書籍がヒットします。①は運転畑的、②は工作畑的内容です。「客貨車の番号整理」の仕事も含めて両方に関与するような立場におおられたということでしょうか。



原口さん

>当時の電車の関係者の間で、記号の由来が「自明であった」とすると、宮崎先生の指摘する「当たり前のこと」で、記録が残っていないことはむしろ「当然のこと」と言えます。

車輛称号規程の本旨からいって、記号の由来についてまで公開する類のものではないので、証明しうるような形で文書が残っていることの方が稀であって、もともと記号の由来は「自明ではない」が、むしろ「当然のこと」なのではないでしょうか。

勿論、今回のケースに限っていえば、当時記号「ク」の由来が「自明であった」可能性を否定はできませんが、「当たり前のこと」だから残されないのではなく、もともとが残される類のものではない、のであって、こうしたケースを論じるに際しては、当時の電車の関係者の間で、
「記号の由来が「自明であった」がゆえに文書に残されていなかった。そのために時代が下るとともにその辺りが分からなくなった」
のような仮定を置くのは不適切ではないでしょうか。

こうした説のウソホントが問題になるのは、「くっついて行く」の類が、荒唐無稽な説のように思われるところに本質があるのだと思います。私自身も初めてこの説に接したときはそのように感じました。

例えば、貨車に記号の由来について例えばつぎのような説明がされています。
 有蓋車   ワ Wagon
 鉄側有蓋車 ス Steal

これらだって、実は、記号制定に携わった関係者自らの証言がある訳ではないでしょう。ところが、これらの真贋についてはおそらくだれも問題にしないでしょう。それは十分に蓋然性が感じられるからではないでしょうか。

昭和28年の改正の際、職用車の中から配給車が分離されて、記号「ル」が制定されましたが、その理由は「配るのル」と説明されています。これは制定に携わった方が自らそう説明されているわけで、議論の余地がないものです。
ところがもし、そうした根拠が明確に示されないまま、単なるウワサのような形として「配る」説が流布されているとしたらどうでしょう。

「配るのル」といわれても、「なになにするのル」は動詞を意味する語尾であって、なんら「配給」あるいはそれに代わる意味あいを示すシンボルとはなりえないわけですから、「この説は本当だろうか」といった疑問が起こり、いろいろな憶説が生まれたとしてもおかしくはなかったのではないでしょうか?
 

お返事

 投稿者:34036  投稿日:2018年 8月12日(日)22時54分24秒
返信・引用
  皆さん、こんばんは

73おやぢさん

「具備」説の御紹介ありがとうございました。
この説は全く知りませんでした。御教示いただきありがとうございました。

こうした説のウソホントについては、そもそもが完全証明は不可能なものです。この点についてはコンセンサスができていると思います。
私が最初にこの話題を挙げたのは、「くっつき」説を証明することではなく、「駆動車」説を否定することに重きを置いていた積りです。

「駆動車」については、私がこれまで得ていた知識に照らして、いかにもとってつけたような説であるし、納得させ得るような根拠が全く示されていません。ただそれを指摘するやいなや、必然的、相対的に「くっつき」説の合理的根拠も問われる形になるので、私の知る範囲で、「くっつき」説はこのように合理性、蓋然性が提示できますよ、を提示するのが趣旨でした。


繰り返しになりますが、記号「ク」が制定される過程で、登場時には運転台の設備はあっても、「制御車」の概念はなく、「附随車=トレーラー」としての見方しかなかった。「トレーラー電車」に対して与えられていた記号「トデ」の一文字化として「ク」が考えれらた筈である。したがって「ク」は何らかの形で「附随車=トレーラー」のシンボルとしてある筈である。
諸説ある中で、それらの真贋を判定するうえでは、上記のような歴史的過程を重視すべきであろう。この点でもコンセンサスが得られていると理解しています。


そのうえで、
Ⅰ せっかくの機会ですから、集められるデータは集積しておく意味はあろうと思われるので提示します。
先に「某車輛メーカーの手帳に記載」と紹介したものです。出典をみつけました。
汽車会社 1968年版手帳の後半部に資料として掲載されているそうです。

RP09-05 p.132-133 「鉄道車両知識の小箱」
次のように提示されています。
 ク 制御車 くつついて走るのク
 サ 附随車 さし狭んで走るのサ (ママ)

ご指摘のとおり、きちんと考証がなされたうえで掲載されているものとは思えません。


Ⅱ「具備」という言葉について
明治44年1月の車輛称号規程の文言の中には下記のように「具備」という単語が登場します。
<原文は例えば「鉄道法規類抄 工作編」などでみることができます。>
(引用)
合造車ニハ其ノ用途ニ相当スル文字ヲ併合シテ之ヲ用ウ
一、二、三等車、郵便車又ハ 其合造車中制動機附ノモノニシテ 車掌室ノ有無ニ関セズ
単ニ手用制動機ノミヲ具備スルモノハ 「フ」ヲ 其記号ノ最上位ニ冠シ 其名称ヲ 「何々車手用制動機附」ト称シ
又 手用制動機ト「ヴンヴルヴ」ヲ具備スルモノハ 「フ」ヲ 其記号ノ末尾ニ附シ 「何々緩急車」ト称ス
(引用終)

この手の文章の中では、「何々を有する」、「何々を備えている」の意味あいで、かなり普通に使われる用語ではあったようです。


Ⅲ「運転案」に偏っている
①「国鉄電車発達史」Ⅰ創業時代 [3]車両 p.25
(引用)
<明治44年1月の称号規程によって甲武鉄道引継車に対して形式称号が与えられた経緯の説明の中で>
形式称号は小電鉄会社の車両と同様に単純な番号が付けられ、1号から28号までが買収車両、29号から32号までが明治42年製車両となっていた。当時は鉄道国有法によって多数の私鉄が国有化されたが、車種の統一も容易でなく形式称号の規則もまとまらず、車種別番号にするか通し番号にするかの論争が繰り返されていたのである。(引用終)

②「マニヤの称号規程」
<明治44年1月の称号規程が制定されるいきさつから書き起こされています>
(引用)
この番号整理にさいして、国鉄80年に当り国鉄で発行された、国鉄の回顧、先輩の体験談の中で松縄信太さんが当時の事情を次のように話されておられる。
明治40年から買収された鉄道会社の事業が、だんだん一緒になってきて、そのじぶん、私が客貨車の仕事をやっていたが、当時客貨車の番号整理が最初に起こった問題である。番号の整理について、運転の案と工作の案に、意見の相違があった。工作案は、どうしても各車種類別に番号をつける。運転案は全部通し番号とするというので、1年くらいああでもない、こうでもないといった結果運転案が通った。 この間に立って、ずいぶん困った
とはなされています。(引用終)


ご覧になっていると思いますが、両文献に、明治44年1月の称号規程の制定に際しての車輛称号付与の在り方をめぐって、運転と工作の間の確執の存在が語られています。

工作案:各車種類別に附番する
運転案:全部通し番号とする

工作サイドにとってみれば、修車もあり、部品の調達も含めて、車両形式別に管理したい。番号が入り組んでいたりしたら、識別上不便この上ない。運転サイドにとってみれば、極端に言えば、同一目的に使用できれば車両の構造的な違いなど関係なく、両数の把握さえできればよい、番号が区分けされているとかえって面倒だ。といったようなことでしょうか?

で、上記文献によれば「運転案」が通ったということのようです。しかし、実際に与えられた車輛の記号番号は、かなり折衷的なもののようにも感じられます。たとえば、「三等車 ハ」に該当する車種には、1001番以降形式が変わるごとに番号を開けて附番するというようなことはせず、連番となっていますが、特に管理のしやすい?優等客車などは実質的に番号区分がされています。

このような附番体系を指して「運転案」が通ったというのですが、もし「工作案」が通っていれば、もっと形式別な区分けが徹底的に行われたのかもしれません。少なくとも明治44年1月の称号規程制定当時は運転サイドが優勢だったということですが、次のような事例を考えると少なくとも昭和の初期までは運転サイドが優勢だったように思われます。

それは大正から昭和初期の電車の改番をめぐっては、とにかく生じた欠番を、出自や製造年代等に頓着なく埋番するのが特徴だからです。
昭和3年の大改正以降でも例えばクハ15形には、いろいろな出自の車両が含まれますが、クハ5形と分ける案が直前で廃案になった経緯があるにせよ、番号の付け方が全く頓着されていないわけです。全くかけ離れた車号のものが同一形式図であらわされたりします。工作案的であれば、いうなれば戦後のように100番代、200番代的な区分けが当然だったのでは、と思われます。

ところで、73おやぢさんは、「くっつき」説は運転サイド案とのお考えのようですが、
「ク」も「サ」も同一系統の考え方であるとは思いますが、どうしてそうお考えなのかが分かりません。

松縄信太氏を「国立国会図書館デジタルコレクション」で検索すると、鉄道技師工学士であって、
①運転取扱心得解説(鉄道時報局, 1925)
②車輛一班(南郊社, 1922)
といった書籍がヒットします。①は運転畑的、②は工作畑的内容です。「客貨車の番号整理」の仕事も含めて両方に関与するような立場におおられたということでしょうか。



原口さん

>当時の電車の関係者の間で、記号の由来が「自明であった」とすると、宮崎先生の指摘する「当たり前のこと」で、記録が残っていないことはむしろ「当然のこと」と言えます。

車輛称号規程の本旨からいって、記号の由来についてまで公開する類のものではないので、証明しうるような形で文書が残っていることの方が稀であって、もともと記号の由来は「自明ではない」が、むしろ「当然のこと」なのではないでしょうか。

勿論、今回のケースに限っていえば、当時記号「ク」の由来が「自明であった」可能性を否定はできませんが、「当たり前のこと」だから残されないのではなく、もともとが残される類のものではない、のであって、こうしたケースを論じるに際しては、当時の電車の関係者の間で、
「記号の由来が「自明であった」がゆえに文書に残されていなかった。そのために時代が下るとともにその辺りが分からなくなった」
のような仮定を置くのは不適切ではないでしょうか。

こうした説のウソホントが問題になるのは、「くっついて行く」の類が、荒唐無稽な説のように思われるところに本質があるのだと思います。私自身も初めてこの説に接したときはそのように感じました。

例えば、貨車に記号の由来について例えばつぎのような説明がされています。
 有蓋車   ワ Wagon
 鉄側有蓋車 ス Steal

これらだって、実は、記号制定に携わった関係者自らの証言がある訳ではないでしょう。ところが、これらの真贋についてはおそらくだれも問題にしないでしょう。それは十分に蓋然性が感じられるからではないでしょうか。

昭和28年の改正の際、職用車の中から配給車が分離されて、記号「ル」が制定されましたが、その理由は「配るのル」と説明されています。これは制定に携わった方が自らそう説明されているわけで、議論の余地がないものです。
ところがもし、そうした根拠が明確に示されないまま、単なるウワサのような形として「配る」説が流布されているとしたらどうでしょう。

「配るのル」といわれても、「なになにするのル」は動詞を意味する語尾であって、なんら「配給」あるいはそれに代わる意味あいを示すシンボルとはなりえないわけですから、「この説は本当だろうか」といった疑問が起こり、いろいろな憶説が生まれたとしてもおかしくはなかったのではないでしょうか?
 

「当たり前のこと」を記録することのむずかしさ

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 8月11日(土)21時54分39秒
返信・引用
  すぎたまさん・73おやぢさん・34036さん・皆さんこんばんは

電車の記号「ク」「サ」の由来について、複数の説が提示されたわけですが、これらの説は全て、「ある程度時を経た『現在』から車両の符号が設定された時代(大正初期)の事情を推測して、考察している」ことが共通点だと考えられます。
 ここで、以前この場でも紹介した、中国史の研究で有名だった、宮崎市定先生(1901-1995)の言葉を改めて紹介したいと思います。宮崎先生は、歴史の研究における大きな問題として、

「ある時代における「当たり前」なことは、「当たり前」であるがゆえに、わざわざ記録に残すことは行われず、時代が下って社会が変化すると、「当たり前」であることも変わるために、当時「当たり前」だったことが何なのかわからなくなる」

ことを指摘しました。
電車の記号「ク」「サ」の由来の記述が残っていないことを、73おやぢさんが指摘しましたが、記号が定められた大正初期、当時の電車の関係者の間で、記号の由来が「自明であった」とすると、宮崎先生の指摘する「当たり前のこと」で、記録が残っていないことはむしろ「当然のこと」と言えます。そして、時代が下って電車が発展し、昭和3年の改番が行われる頃には、電車をめぐる環境が大きく変化し、当時「当然であったこと」も変化し、その中で大正初期に「当然であったこと」が忘れられていったため、「ク」「サ」がどうしてこの記号になったのか、知るすべがなくなったと考えられます。ここに取り上げられた「ク」「サ」の由来の説は、いずれも昭和戦後になってからのもので、「ク」「サ」の符号が設定された大正初期は50年近くか、それ以上昔のことで、電車をめぐる環境だけでなく、社会全てが大きく変化しており、説が提示された「現在」から符号が設定された「過去」の情況を推測するにはあまりに情報が少ない状況で、「現在」を参考にせざるを得ないことが、これまで設定された説の全てに認められる欠点ではないかと思います。

 ここで、「50年近く昔」と表現しましたが、現在から見た、「50年近く昔」である、昭和40年代の事情がよくわからなくなっている例を紹介したいと思います。

(1)昭和40年代の鉄道関係の記事を見ると、「かつ大貨物」あるいは「闊大貨物」という言葉が見られます。この言葉は、「大物車」で輸送する大型貨物をさす言葉で、現在では「特大貨物」と表現されるものです。「かつ大貨物」の言葉が見られるのは昭和40年代までで、昭和50年代に入ると「特大貨物」にほぼ言葉が入れ替わります。昭和40年代は、大物車で輸送する貨物を「かつ大貨物」と標記するのが普通であったのが、昭和50年代に入ると、「普通であること」が変化し、「特大貨物」の表現が使われるとともに、「かつ大貨物」の表現が忘れ去られたと考えられます。

(2)蒸気機関車の「石炭の焚き方」が、昭和40年代までの蒸気機関車現役時と、最近のイベント運転とでは変わっています。蒸気機関車の現役時は、煙をあまり上げない「淡煙焚火」が奨励されていましたが、現在同じ方法で石炭を焚くと、煙が薄くなりすぎるそうです。これは、蒸気機関車の現役時は、石狩炭や筑豊炭といった国産の石炭が使われていたのが、昭和40年代から50年代にかけて国内の炭鉱は相次いで閉山し、石炭が輸入(主にオーストラリア)に切り替わりました。現在の蒸気機関車の復活運転では、輸入炭を主に使うことになるのですが、輸入炭は国内炭に比べて格段に品質が良いため、普通に蒸気機関車に使うと、「煙が全然出ない」ことになります。このため、以前に大井川鉄道の記事で見たものでは、「輸入炭と太平洋炭鉱の国内炭を半々で混ぜている」とともに、「煙を出すような焚き方」をしているとのことです。まさに、昭和40年代までの「煙を抑える焚き方」が現在は通用しなくなっていることは、宮崎先生の指摘する「社会の変化」に匹敵する変化で、蒸気機関車の「常識」も変化していることになります。
 蒸気機関車については、アニメ「銀河鉄道999」のC62の「起動」の表現の変化にも現れており、昭和50年代前半のアニメ版(1978年~81年)、映画版(ゴダイゴの主題歌のもの、1979年)、さよなら銀河鉄道999(1981年)、エターナルファンタジー(THE ALFEEが主題歌のもの、1998年)の間で、起動時の動輪の空転の様子が異なることが指摘されています。最初のものは、蒸気機関車の現物を見ることのできたメンバーがいて、現物の取材をしたアニメの表現ができたのに対し、時代が下ると共に蒸気機関車を見たことの無い世代に交替し、資料が乏しくなったため、表現が変わったと考えられます。

外国語と日本語との間の「齟齬」について
 日本語と外国語との間で同じ「言葉」が示すものが「異なる」例があります

(1)以前、ロープウェーを「ケーブルカー」と表現する例があるという記述がWikipediaにあり、実例として、北極圏の犬ぞりによる冒険で有名な、植村直巳(1942-1984)が、著書「青春を山に賭けて」(文春文庫)1967年から1969年にかけて滞在したフランスのシャモニーのロープウェーを「ケーブル」と標記していることを指摘しましたが、同じシャモニーのロープウェーを「ケーブル」と標記している例を見つけました。
 1970年代から90年代の間、活躍した、「暗殺者(原題:The Bourne Identity)」(新潮文庫)等の陰謀小説で有名な、ロバート・ラドラム(Robert Ludrum)が1984年に発表した、「戻ってきた将軍たち(原題:The Aquitaine Progrerssion」(新潮文庫)という作品があります。この中で、2人の人物がシャモニーのロープウェーの駅で落ち合うのですが、この乗り物が「ケーブル」あるいは「ケーブルカー」と表現されています。シャモニーには、ロープウェーだけがあって、日本で言う「ケーブルカー」は無いのですが、「戻ってきた将軍たち」を訳した、山本光伸氏は、ラドラムが「Cable」と表現した乗り物を「ケーブルカー」と訳してしまったことが考えられます。

(2)「レッドオクトーバーを追え(原題:The Hunt for Red October)」「パトリオット・ゲーム(原題:Patriot Games)」(ともに文春文庫)等の作品等で知られる、トム・クランシー(Tom Clancy)の作品に「大戦勃発(原題:The Bear and The Dragon)」(2000年、新潮文庫)があります。このなかで、戦車等を搭載して輸送する貨車について「ロシアの鉄道会社には早期車両を運ぶためにわざわざ作られた無蓋無側貨車(フラットカー)がいくらでもあるようだ」との表現があります。日本鉄道では、戦車等の軍用車両を搭載するのは「長物車」で、現在でも自衛隊の北海道での演習のための特別列車が運転されているのが有名ですが、日本の鉄道車両の符号を知っていれば、「flat car」は「長物車」と訳されたはずです。しかし、「The Bear and the Dragon」を訳した田村源二氏は、「flat car」に「無蓋無側貨車」の訳語を当て、さらに「フラットカー」とルビを振っています。日本の鉄道を踏まえれば、「flat car」は「長物車」と訳すことが常識なのでしょうが、「戦車を輸送」することから、「長物車」の言葉を当てることを田村氏は躊躇したことが考えられ、「無蓋無側貨車」の言葉に「フラットカー」とルビを振ることで、「戦車輸送車」であることを表現したと考えられます。
 

反意語を記号にしますかね

 投稿者:すぎたま  投稿日:2018年 8月 7日(火)19時49分12秒
返信・引用
  73おやぢさん、みなさんこんばんは。

「具備するからク」ならわかりますが、「具備しないからク」というのは、いくら何でも無理があろうかと。
くっつけるのク、についての「状況証拠」は揃っていると思えるので、ここで異説が出てくるのには、ちょっと疑問を感じずには居られませんね。
NHKのリサーチ力は、「当時は」絶大で、そこにいい加減な運転系の慣習で回答するとは思えませんし。
最近、私事の関連で、民放TV局から問い合わせがありますが、それはそれはいー加減です。しかし、NHKはやせても枯れても天下のNHK。最近でこそ、会長がいい加減な答弁をしてひんしゅく買っていたりした時もありましたが、当時のそれとは別組織と考えていいと思います。
NHKが取材で、D51の定数一杯をわざわざ室蘭本線で引かせるために、セキ車をわざと滞貨させ、53輌けん引させたのは、当時内々には有名な話です。
私はNHKの回し者ではありませんが(笑)、他も含めていくつもの状況証拠の力は絶大かと思います。

ただ、「クォントロール」はあり得ないにしても、当時の時代背景からすれば、英語やドイツ語の影響はないのか(「トデ」も「トレーラー電車」の略でしょうし)というのは、再考してみる価値がありそうな気もします。

http://princesscomet.net/

 

お返事へのお返事です

 投稿者:73おやぢ  投稿日:2018年 8月 7日(火)17時32分57秒
返信・引用
  みなさん、こんばんは。
34036さん

ご提示の電車誌は昭和43年1月号です。著者は三鷹電車区の職員にして熱心な電車研究家でした。本社運転局で電車の履歴などに疑問が生じたときなどは電話連絡で呼び出され、持参した弁慶の勧進帳まがいの巻物を机上に広げると、電車の履歴がびっしり書き込んであったそうで、伝説となっています。
そうした著者ですから、根拠なしに書くとは思えませんが、裏付けに関しては不明です。まあ、称号規程改正会議の議事録でも発掘されないかぎり、密室の会話は永遠に不明ですが。

ところで、”くっつき説”とは異なる説をご存知でしょうか。電車誌の創刊号(昭和30年10月号)に「電車記号誕生のいわれ」と題した知識コラムがあり、これはこれで興味深いです。

引用
ク…制御車の記号でモーターを具備しないと云う意味で「具備」の「ク」を用いた。コントロール装置を備えるので、コントロールの「C」の変語「ク」が想像できるが、そうした意味はない。
サ…付随車の記号で、電動機、コントロール装置以外に、更に何も装備しないと云う意味で「更に」の「サ」を用いた。
以上。

とあります。耳慣れぬ(使い慣れぬというべきか)「具備」の文言が引っ掛かかるのと、”くっつき説”ほどのストーリー性は感じられませんが、こちらは車両の機能や構造の違いが消去法で論じられ、達の文言とも乖離していません。
また、「ク」の後段、クォントロールのくだりは注目です。「ク」登場時に(用語の有無はともかく)制御車という概念はなく、俗っぽい言い方をすれば「不完全なる電車」と位置付けられていた認識を言い当てているからです。
惜しむらくは執筆者の記載がないことですが、話の展開から工作系の人のような感じがします。電車誌は戦前に発行されていた「ECL(電気車の意)」誌の復刊との位置付けですから、過去の同誌にあった記事から持ってきたのかもしれません。

これに関連して思い出したのは、昭和22年に発行された「わかりやすい電車工学」という、電車従業員向けのハンドブックです。著者の若島正三氏は下十条や蒲田の区長を歴任した、電車界のエキスパートです。ちなみに本書に「駆動」は一言半句も登場しません(笑)。それはともかく、記号の由来はありませんが、電車の種類の紹介に興味深い表現があります。

引用
電車は設計上、次の三つに分類することができる。
電動車…主電動機を具備し、原動力車となり、かつ運転台を有する電車。
制御車…主電動機は持っていないが運転台を有する電車、これは電動車に連結してこれを制御し得るものである。
付随車…主電動機も運転台も持っていない電車、電動車に付随してのみ運転し得る。
以上

第一の注目は、もちろん「具備」です。日常的な使用頻度がそう高くないはずの語句に遭遇したのは偶然で片づけるわけにはいかず、何らかの因縁がありそうです。
第二の注目は、電動車を基本とする消去法で話が構成されており、電車創刊号の”具備説”と骨格が似ています。達の文言ともぶれがありません。

当初、”具備説”は信頼に足るものかどうか迷いましたが、少なくとも門前払いはせず、真贋を検討すべき水準にあると考えます。
次に、この種の問題で考慮すべき視点について、ふれてみます。

●称号規程は誰のものか
“くっつき説”は電車の進歩発展の過程を結果的にうまく表現している点が、マニアを含む部外者を納得させる力になっているようです。しかしながら、全て運転系の視点であることが、唯一最大の問題点と指摘することができます。

大正期に運転系と工作系の力関係がどうであったのか、また称号規程は誰の管掌なのか、改正が合議であれば主導権はどちらにあったのか知りませんが、戦後の事例から考えれば、管掌と主導権は工作系でしょう。そうすると、「ク」と「サ」の2回とも、運転系の主張を工作系が受け入れたことになるわけで、普通に考えれば不自然です。同じ組織内の別部局が一枚岩でないのは、避けて通れぬ組織病であり、後年の国鉄運転局と工作局の関係もそうでした。

●語呂や語感による伝達の難易度
この項は個人的想像ですから、聞き流していただいて結構です。見出しは適当な表現が見つかりませんでしたが、要は「電話連絡で容易に相手に伝わるかどうか」ということです。昭和40年代までの鉄道電話はおもちゃのような代物で、聞き取れないこともしばしばでした。電車の記号は(結果的に)3種しかなく、記号で何か(客貨車でいうところの積み荷や室内設備)を表現せねばならない積極的な理由はありませんから、実務者にとっては由来や理由付けなどはどうでもよく、業務を円滑に遂行できるかどうかのほうが、はるかに重要です。

そうすると理由付けに拘泥することなく、客貨車で既に使用済みの記号を勘案しつつ、語呂のいい組み合わせを順に探していくという超合理的な方法をとった可能性はゼロではないと考えます。当然、それを証明するすべは全くないわけですが、「もともと公式の理由付けはなかった」のであれば、電車関係の教科書や参考書に全く言及がないという、きわめて不思議な現象は霧消します。さらに副次的効果(?)として、公式発表がない以上、立ち場を異にする人が、自分達に都合のいい解釈を後付けするという流れも、自然な成り行きとして考えられます。おっと、この項はあくまでも想像であり、おまけです。

結局、本件はどうするかといえば、
諸説あり、一例(自信があれば「有力な説」とするもよし)をあげれば”くっつき説”がある…(以下は具体的な内容を解説)…が、確たる裏付けは不明である。

あたりが、落としどころではないでしょうか。そうすると、確証がないことにはふれず断定調で言い切る(実見していませんが、おそらく某手帳はそうではないでしょうか)のは、ちょっとなぁと感じます。

私には密室の会話をこれ以上追及する情熱は持ち合わせておらず、その一方、持っていた材料は全部出したので、これ以上お話を続けることはできません。
「わからないということが、よくわかった」というところで、締めさせていただきます。


 

返)木製車の闇

 投稿者:34036  投稿日:2018年 8月 5日(日)16時52分1秒
返信・引用
  こんにちは、連投になりますがお許しください。

最初に、直前の拙稿で

>2.鉄道会社の手帳にそのような説明がされている

と記しましたが、「鉄道会社の手帳」ではなく 「某車両メーカーの手帳」でした。
お詫びして訂正いたします。



73おやぢさん
>木製車の闇 (8/3)

国鉄電車発達史にも説明がありますが、
大正中期製の電車は中央・山手用:50馬力、京浜線用:105馬力で、

 50馬力 デハ23400 →(デハ23450)→ デハ23500(後電装解除してクハ15)
105馬力 デハ33400 →        → デハ33500(後のモハ1)

のように進化していきますが、両線用とも、車体自体はほぼ同規格で作られたんですね。
(但し後者は台車が大型で、前者輪径864mm、軸距2184mmに対して後者914mm、2438mm)

デハ23450形は両数も6両のみで少なく、デハ23500形に移る試作なものと解説されています。
デハ23500形とデハ33500形から一大変化があり、デッキ風というか車端に入り口があるタイプをやめ、
側扉も910mmから1100mmへ。
(デハ63100形初期車でなぜ昔に戻って914mmが採用されたのかはよくわからないようですね)
で、このデハ23500形とデハ33500形から、前面に貫通扉、それも非常に狭い430mm、を設置したのですね。

で、これに関して「木製国電略史[Ⅳ]」に次のような解説がありました。

Ⅳ-9 デハ23500形 の項
<前略>但しこの運転室は現在の概念とはやや異っていて、後方の仕切りのない部分はH棒式で運転士は相変わらず中央にいて狭い貫通扉ごしに運転していたのである。この中央運転席は後クハ15時代にも未改造車があったので、器具が二分されていて運転しにくいと不評を受けたこともあった。<後略>

とあります。デハ33500形の項にはこうした説明がないのですが、おそらく同じだったのではないでしょうか。
前面両側の窓は、もっと外側に振ればいいように感じますが、異様に中央よりなのは、
430mmという非常に狭い貫通扉とともに、こうした運転台位置の事情によるのかもしれません。
しかしそれでは何で貫通扉が必要なのか? についてはわからないですね。


なお、上にあげた「864mm」の数字はデハ23500の形式図 EC0302 では「866mm」となっています。デハ23400の形式図 EC0370 などでは864mmで、864mmが正しいのではないかと思います。


すぎたま様

前にモハ10型初期車の側扉寸法の910mmの数字の出どころは? の質問を挙げておられましたが(6/23)、
これはジャスト3フィート(3'00'')=914mmからきているんですね。
ちなみに864mm =2フィート10インチ(2'10'')。
これらはのちにメートル法の採用に伴って、切の良い 910mm、860mmに移行しました。
国鉄電車発達史 Ⅰ 創業期 9 標準型車両 p.36 に「メートル法採用による車体主要部分寸法の変更例」が出ています。
 

お返事

 投稿者:34036  投稿日:2018年 8月 4日(土)15時23分14秒
返信・引用
  皆さん こんにちは

すぎたまさん、73おやぢさん、前納さん、1380さん、原口さん
拙文「電車の記号「ク」」に対するご返答、コメントありがとうございます。

皆さんの御意見、コメントに対して、思う所を追記しようと考えていたところ
原口さんから歴史的な経緯について、かなり詳細な説明がありました。

私としては、原口さんが記さた説明に基本的に同意するものです。

要は、記号「ク」が登場したときはまだ「制御車」の概念はなく、運転設備はあっても「附随車」つまりトレーラーとしての概念しかなかった。
「ク」は「トデ」の一文字化のために考えられたものであり、したがって「トレーラー電車」を意味するものであったはずである。
その意味で「くっついて行く」は妥当性がある、と思っています。
「サ」は「クっついて行く」に対しては「はサまれていく」だし、
「クっつける」であればそれに対応して「サしこむ」となるのかなと考えます。

ただ、いくつか気になる個所もありまして、考えるところを以下記したいと思います。
長文御勘弁ください。


記号「ク」、そして「サ」の由来については、車両称号規程に、その由来まで記す類のものではないので
本当に正しいのかどうかについては、記号の制定に携わった方々による解説であるとか、後日談であるとか、
またそれが担保されるような証拠が示されない限り証明はできないわけですが、

すくなくとも「駆動車」説はガセであり、「くっついて」、「くっつける」などのバリエーションはあるものの
そちらの説の妥当性は、いくつか資料を提示できると考えています。以下「くっつき」説と呼ぶことにします。

私は現物をみてませんが、まず次のような例があります。
1.鉄道辞典にそのように記されている
2.鉄道会社の手帳にそのような説明がされている

3.
随分古い話ですが、過去RP誌上で、弓削進氏による「二百万人の電車」という随筆がありますが、
次のように記しています。
(リメーク版をアーカイブセレクションNo.26 国電の記録 1950~60 p.30 で見ることができます。)

▽▽▽以下引用▽▽▽

ところで、大正3年に電車の主要電装品を省略したものが現われた時、これをトデと称した。
トデとはトレラーデンシャの略称で、客車的電車の意味であろう。
他人の褌で角力とるシステムのこの車種は後日に至って
クッツケて走るとか、付随車に運転台のみクッツケたとかいわれるようになった。

△△△以上引用終△△△


これなどは、「くっつき」説を前提としたものでしょう。
ただ、「くっつく」のいわれについては上記によると、
電動車に「くっついて行く」と、附随車に運転台を「くっつける」の両方が言われていたことがわかります。
同じ「くっつき」説でも両者では全く意味が違いますね。後者は「附随車」の意味から外れることになるので
「制御車」を制定した際の説明ならわかりますが、そうではないわけで、妥当性を欠くように感じます。

4.
昔、神田にあった鉄道博物館の図書室で 交友社の「電車誌」を閲覧していて見つけたものです。
コピーだけとって、発行年月号を書き留めるのを忘れてわからないのですが、
次のような記事があるのでご紹介します。
<原口さんの「「旧型国電車両台帳」P422以降の記述」の説明と重なるところが多いです。>

マニアの称号規程 塚田幾太郎
交友社「電車誌」年月号数不明
<ただし末尾に「名古屋地下鉄10周年記念開催」の案内文の掲載があり
昭和42年11月15日で満10周年を迎えたが、...とあるので、昭和42年末期~43年初旬号と思われます>


▽▽▽以下引用▽▽▽


大正3年6月に国鉄最初の付随車が製造されたため、
大正3年4月7日達332号で「トデ」なる記号が追加された。
このトデの由来は英語の「トレーラー」よりきている。


電車の両数も年年増備され、その後記号が増えてくるので
今までのような扱方では不便になったので
電車に便利なように車両称号規程が次のとおり一部改正された。


◎大正3年8月29日 達第794号で
明治44年1月達第20号で「電車」「付随車」の記号デ、トデの記号が削られ
電動機を有する電車は記号デを、電動機を有せざる電車は記号クを付けることに、
電車には、手用制動機付または緩急車の名称を付けないよう、
そして記号の前に換算両数は電車は、列車にて回送する以外は、
常時は電車同志で編成運用されるので、常時必要がないためである。
記号の「ク」は「デ」にくっついていくと、いう意味である。
この時の記号形式の対照は次のとおりである。(対照表省略)


大正6年9月1日 達第83号で
「電動機」を有せざる電車は記号「ク」の次に
「制御機を有する」ものに適用す もしくは「サ」は「制御機を有せざるものに適用す」を加う。
このため次のとおり記号改番された。
 新 サロハ 6190~6199
 旧 クロハ 6190~6199
 新 サハ  6410
 旧 クハ  6410

この改正でできた「サ」は、デハとデハの間、またはデハとクハの間にさしこむという意味である。
この記号の追加は将来付随車の必要を見越したものと考えられる。

△△△以上引用終△△△


①~④の引用数字は説明の都合上書き加えました。

上に引用されている
①大正3年4月7日付 達332号
③大正3年8月29日付 達第794号
の両達は、実際に原文にどのように記されているのか是非知りたいところなのですが、
残念ながらいずれも原文に接する機会を得ておりません。

③の個所は小文字で書かれており、原達文書からそのままの引用のように書かれているのですが、
文面からは達文書をもとにした著者の解説のように思われます。
そのままの引用なら
「記号の「ク」は「デ」にくっついていく」が達示文書に書かれていることになりますが、
そうではないでしょう。一方で
「記号の「ク」は「デ」にくっついていくと、いう意味である。」と断定調に記されています。

なお、
「明治44年1月達第20号で「電車」「付随車」の記号デ、トデの記号が削られ
電動機を有する電車は記号デを、電動機を有せざる電車は記号クを付けることに、」

とありますが、大元となる車両称号規程 明治44年1月16日付 達第20号 の時点では
「電車」と「付随車」の区別がなかったものを、
①にあるように大正3年4月7日達332号で、新たに「付随車」を新設して
それに対して「トデ」の記号を付す趣旨で変更されていたが、これをさらに変更して
「電動機を有せざる電車は記号クを付けることに」した、の意味でしょう。

ここで、著者は「付随車」という用語を使っていますが、これは
電動機を有する車に対して与えられている「電車」に対応する名称で、
正しくは「付随車」ではなくて、「附随電車」のはずです。

是非達示の原文にどのように記されているのかを確認したいところです。
大正3年当時の客車形式図に電車関係の形式図も含まれていますが、それら形式図の標題の
車両名称は デハ⇒三等電車、クロハ⇒二三等附随電車 などとなっています。
(この時点では「電動車」という用語はまだありません)

④の大正6年9月1日 達第83号で
「電動機」を有せざる電車であってかつ「制御機を有する」ものが 「ク」
「電動機」を有せざる電車であってかつ「制御機を有せざるもの」ものが 「サ」
とされたが、このとき夫々の名称として
「制御電車」と「附随電車」が定義されているはずなんですが、その説明がありません。
ただ、このとき「電車」を取ってしまって、「制御車」、「附随車」とした可能性はあります。

昭和3年の改正直前の正式名称は、クハ⇒三等制御車、サロ⇒二等附随車 などで
デハは相変わらず 三等電車 ですが、昭和3年の改正で 電動機を有する車は「電動車」と
新規に名称を起こし、記号も「デ」から「モ」に変わり、モハ⇒三等電動車 となったわけです。

原口さんによると、「旧型国電車両台帳」P422以降の記述には
「附随客車」として説明されているようですが、正しくは「附随電車」の筈です。
また「制御機(器)」の意味は、電動車に搭載されている「制御器」のことではなく
要は「運転台」の意味ですね。


なお、「駆動車」説を挙げているものとして、新たに次のものを見つけました。

Wiki 制御車
https://ja.wikipedia.org/wiki/制御車

「制御車の種類と記号」の項

「日本においては、制御付随車は「ク」と称されることが多い。これはかつて制御車のことを、「駆動車」と呼んでいたことによる。」

△△△以上引用

ただし、出典は示されていません。


こうした解説は、電車(列車)を、
電動車、制御車、附随車を一つのシステムの中での役割として、
かつ海外での「システム」との違いを比べるような近代的な捉え方でみていると感じます。

勿論間違いではないですが、「駆動」という言葉は、自動車系の人の感覚か?との説がありましたが、
鉄道でも、WN駆動とか、カルダン駆動といったようにないわけではないですが、
どうもシステムエンジニア系の見方から出てきているように、私には感じられます。

旧来の日本独特に発達してきた電車システムの中での、附随車、制御車の意味あいに
「駆動車」ということばをあてはめるという感覚。

たとえが適切かどうかわかりませんが、
西洋言語の文法構造を解析する中で出てきた品詞や、その他用語を、
日本語の文法を説明するのにあてはめようとする結果、ちょっと無理が生じる、
なんかそのような印象を受けるんですね。

「駆動車」とうのは
旧型電車愛好家が感じる捉え方とは少し違う見方から出てくるのかな、と感じています。
 

「制御車」「付随車」の誕生と用語の変遷について

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 8月 4日(土)09時21分32秒
返信・引用 編集済
  皆さんおはようございます

電車の「制御車」と「付随車」の記号に関連して、国電で最初の「制御車」と「付随車」について調べてみました。
 付随車に関しては、「甲武鉄道」の時代に既にMTM運転が行われており、機能的にも「付随車」が存在した(旧型国電車両台帳 院電編 P4の写真など)のですが、この車輌については「普通の二軸客車を転用した」という記述がある以外は詳細が不明です。
 制御車については、四輪電車の末期に院電増備に伴う機器転用で付随車化、制御車化が行われたとの記述がありますが、どの車が改造されたか不明瞭なようで、「旧型国電車両台帳 院電編」の履歴簿でも、どの車が改造されたかの記載はなされていません。また、これとは別に全部が制御車の新形式もあるのですが、「デ989形」と記号の区別は行われていません。
 この時期の符号の付け方は「旧型国電車両台帳」P422以降に記述があり、「デ」の記号は明治44年の車輌称号規定より始まることが記述されています。この後、大正3年4月7日の通達で、「附随客車」として「トデ」の記号を定められており、これは6400形(ナトデ6400号車、大正3年6月22日落成)登場のために記号設定の必要が出たためとのことです。この時、文章記述は「附随客車」となっているのですが、制御装置が付いており、現在の言葉では「制御車」に相当するものです。
 「ナトデ6400号車」だった期間は極めて短く、大正3年8月29日の通達で、電車の記号体系が大きく変わる変化が起こりました。重量を示す「ホ」「ナ」等の記号が削除され、同時に客車を含めて客室のグレードを示す「イ」「ロ」「ハ」が加わりました。この時に「電動機を有せざる電車は記号「ク」を付ける」ことが定められました。6400形の2号車はこの通達(発表よりも前に”内示”された時か)後に落成したため、「クハ6401号車」として落成(大正3年8月4日落成)しています。
 「制御車」と「付随車」が分離されたのは、大正6年9月1日の通達で、「電動機を有せざる電車は記号「ク」」の後ろに(制御器を有するものに適用す)の注記が追加され、その次に「「サ」(制御器を有せざるものに適用す)」がさらにくわえられました。これにより、「付随車」だった「クロハ6190~99」が「サロハ」、「クハ6410、6420~23」が「サハ」に変更されました。
 この変化を見ると、用語としては、「付随車」のほうが先に誕生しているのですが、その理由は「モーターが無い」ことによるもので、制御装置の有無は当時は考慮されてなく、その後制御装置のある「付随車」と制御装置の無い「付随車」に分化したために、区分のため、制御装置の無い付随車を分離した、という変化をたどっているのですが、符号では「ク」のほうが先に誕生し、「サ」が後から設定されたことになります。
 「ク」「サ」の記号の由来ですが、当時はモーターと制御装置の両方の有る車が「基本」であったことを考えるとしっくりくるのではないかと思います。「制御車」「付随車」ともに「電動車」にぶら下がって走るもので、最初に誕生した「ナトデ6400号車」の記号を定義するに当たって「電動車にくっついて走る車である」と解釈され、これを象徴する文字として「ク」が考え出されたのではないか、後に狭義の「付随車」が誕生した時、「1両の電動車にくっついて走る」ことができないもので、「2両の電動車の間に”さしはさむ”ことで初めて走ることができる車である」と解釈されて、これを象徴する文字として「サ」が考え出されたのではないか、と解釈できます。考えとしては、非常に日本語的、あるいは「仮名文字」的なものと思われます。
 「制御車」が「くっつく」とされたことですが、当時は制御車を先頭にして営業運転をすることがあまりなかったことも関係すると思われます。これは大正末期から昭和初頭の、国電が発展してからの話になるのですが、「制御車は増結運転の中間封入側の車として使うのが一般的で、営業運転で先頭には立たなかった」との記述を見たことがあり、制御機器の使い方はいわば「回送運転台」のような使い方をされていたようです。横須賀線のクハ47型が典型的で付属編成専用で、営業運転では常に中間に入っていました。このため、「制御車」を使って編成を「制御する」というイメージよりも、制御車は「電動車にくっついている」イメージの方が強かったと思われます。

 「ク」が「駆動する」との考えですが、電車が発展してからの考え方のように感じます。すなわち、前納さんが昭和40年代にこの記述があるとの報告をされていますが、「電車が大きく発展した時期」であることが注目されます。この時には電車の長大編成化によって、編成の構成が大きく変わっており、「電動車」は「中間電動車」が増加して、「制御電動車」を分離する必要が生じましたが、「制御車」の位置づけも大きく変わっており、戦前の省電の「電動車の付属物」との位置づけから、「編成全体をコントロールする存在」に位置づけが大きくアップしており、この見方から「ク」は「編成全体を制御する存在」としての意味があるのではないか、と考えられ、類似の用語から「駆動」が見つけ出された、と解釈できます。
 「駆動」の言葉の位置づけは73おやぢさんも考察されていますが、私としても「自動車」のイメージ(前輪駆動、後輪駆動の用語など)が強く、昭和40年代はモータリゼーションが進展した時期で、自動車関連の用語が一般化した頃でもあると思われるので、「クは駆動」の考えが発生した時期としてもぴったりと考えます。

「幅の狭い扉」について
73おやぢさんの「院電の前面扉」の幅のお話を見て、蒲原鉄道モハ11形の「誰も通れない乗務員扉」を思い出しました。蒲原鉄道モハ11,12はワンマン運転を始めるに当たって、乗降扉と前面窓の間の「隅柱の部分」に強引に乗務員扉が付けられたため、異様に幅が狭い(40㎝程度)ため「誰も通れない扉」と呼ばれていました。なお、現在保存されているモハ11は「誰も通れない扉」を撤去してこの部分は原型に復元されています。
 

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