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お返事

 投稿者:34036  投稿日:2018年 8月26日(日)10時59分26秒
返信・引用
  原口さん

コメントありがとうございました。

おっしゃっていることの意味を取り違えているかもしれませんが、
確かに、戦前は、メーカーが製作した車両を、省工場が電装していましたが、
機器のレイアウト配置までは、工場の裁量で自由に変えられるような類のものではないと思います。

下記の文献が参考になるのではないかと思いますのでご紹介します。


●RJ No.125 (77-07) p.146-150 「車両(くるま)とともに30年 大井工場OBの思い出ばなし―⑦」 田邊幸夫

「’湘南形’郵便荷物電動車 モユニ81形の新製」で下記エピソードが紹介されています。

 「なお本車を語るとき、その製作時に予期しないミスのあったことが思い出される。
それは1号車の鋼体ができあがり砂吹きもおえてサビ止めし、船でいえば進水式が終わり、
これからもろもろの内装、艤装に入ろうというときのことであった。
第二電車職場に移されて台枠に配管の卦書を始めたころ、電車の前と後ろが上回りの車体と、
機器取付金具のついた台枠下面とが、反対向きになっていることが判明した。
さあ大変、関係者一同は青くなった。鋼体組立の鉄工職場では現図場でも検討しており、
助役、指導係、そして検査職場もOKして出したもので、「今ごろになって何事であろう」
――それはまったく信じられないことであった。
さっそく、図面の検討をしたところ、当時、車体の図面と艤装の図面は設計の部門が違い、その手法を異にしていたことが判明した。
すなわち、艤装の機器配置図は、向かって左方が後位になっており、左右の端にそれぞれ東京方と神戸方の断わりはしてあったが、
車掌室のある行位を右方にとった車体の図とでは180°違いの、まったくの逆向きになっていた。
それは前から踏襲されていたはずと思うが、電車の仕事にしばらくご無沙汰していたため、こうした失態を演じたものである。
すなわち第1号車は、この手直しに少なからず手もどりが生じたわけで、
電動車のことでもあり床下にびっしりついたもろもろの吊り金具を、ガス切断をした後に熔接をしてつけ替えるのであるが、...」


ここでは最後の一文の意味するところが重要だと思います。
上記は戦後の話ではありますが、このエピソードからもわかる通り、機器のレイアウトについては、そう簡単に変更の効くものではないのではないでしょうか。
下記文献などからも推定できると思いますが、取付用の吊り金具などの設置まではメーカーがおこなっているのではないでしょうか。
実際省工場納入前の未電装の写真をみても空気ダメなどの空制品は、既設の上納入しており、したがって、電気機器の取り付け位置も自由度はないはずでは?。


●RP No.435 (84-08) <特集>国電80年Ⅰ p.42-43 「太平洋戦争突入―戦時下の国電」 根本茂

汽車会社で落成し関西へ送られる直前のモハ60095(未電装)の写真が掲載されており、キャプションに次のようにあります。

「昭和16年度第2次のモハ60095
汽車会社(東京)で完成した関西配属(幕板部に急行札差 妻の電気連結栓受が12心2個)のため 吹田工場へ発送寸前の姿である
前灯や尾灯には灯火管制の被いがついている
戦前の国電は車両会社で車体、台車を製作 配線配管まで施工するが 電機品のぎ装は鉄道工場で行うことになっており、
現在の如く車両会社ですべて行うようになったのは戦後のモハ63からである」

写真はジャンパ部分が不鮮明で確認が難しいですが、奇数向き車で海側②④サイドからの撮影。後方に空気溜タンク等が設置されているのが確認できます。


●電車のアルバム(交友社) p.56

「中央線用の新形式 モハ51」 (写真所蔵 JNR)

キャプションに次のようにあります。

「この写真は11年度末に日本車両 支店製の モハ51026の電装前の姿である。
(戦前は、新製電車の電装をすべて省の工場で行っていた)。」

「未電装」ですが、空気溜タンク等などの空制機器は装着ずみであることが分かります。


●モユニ81追記
モユニ81は、両運ながら、下り寄りが第1エンドの設定、つまり偶数向。しかしながら、電気機器は山側で、戦前の関東車のしきたりを破る設計でした。
「世紀の湘南電車」の先頭車として、どうしても下り寄りを「前」にしたかったのでしょうか?
電気機器の山側配置については、湘南電車の電動車は総て中間車モハ80で、電気機器、空制機器が夫々必然的に同一側に並ぶことになりましたが、
長大編成では、保守上電気機器、空制機器をそれぞれ編成で一方にそろえると好都合というのが分ったことから、
モユニ81も山側に電気機器が来るようにしたのではないかと考えます。
ただ、下り寄りを第1エンドとしたために、従来とは異なる設定となり、誤解を生む原因になったのではないでしょうか。
なお、荷郵電の第1エンドが下り寄りの設定は、クモユニ74以降にも受け継がれていますね。

 
 

戦前型車両の電装およびクモハ73、モハ72形の床下機器配置について

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 8月26日(日)00時42分1秒
返信・引用
  34036さん、皆さんこんばんは

 戦前は電車の電装は国鉄工場で行われていました。この場合の「電装」はモーターに代表される走行機器に限らず、電灯や暖房等のサービス電源を含んでいます。「旧型国電車両台帳」P203に「電装は、電動車のみと思われがちだが、制御車、付随車はもちろん、客車、気動車等すべての旅客車で電装のない車両はない」と注が附されています。このため、車両は「単なる箱」の状態で各車両メーカーで落成し、国鉄工場に輸送されて、各々の工場で電装が行われています。従って、戦前では、メーカーでの車体製作中に関西から関東へ投入先が変わったとしても、電装工事は現在の大井工場で行われることには違いが無いので、床下機器には、関西から関東への投入先の変化は反映されないことになります。もし反映されるとしたら、一旦吹田工場へ送られ、電装工事を受けてから関東へ送られる、という普通の関東―関西間の転属と変わらない事態が考えられるのですが、以前も話題になった、昭和7年の城東線、西成線電化用のモハ40系列が、大井工場で電装されて淀川電車区へ送られた例以外は無いと思われます。また、確か戦前は関東―関西間で電車が転属したことは無かった(昭和24年頃の関東のモハ51形と関西のモハ42系列の交換が最初の事例か?)と考えられます。このため、モハ60056の「関西で使用の幕板の急行札挿し」と「関東型の偶数向きの床下機器配置」の同居は、車体製造の途中で投入方針の変更があった有力な証拠と考えられます。

 クモハ61005の特異性については以前に73おやぢさんが考察したことがあります。更新前のモハ61005(モハ40013)の写真が確認でき、その時は他の車と同じ形態(中央扉が後ろへ開く)だったことが確認できたとのことです。モハ61005の更新は豊川分工場で、車体はそのままで、全ての機器を点対象に配置しなおす、という工事が行われたらしいと考察されています。

 電気側の床下機器配置は、かなり昔(この場の発足前か前身の時代)に話題になったことがあります。対象となったのは元モハ63形のクモハ73形で、「抵抗器が偏った位置に取り付けられている車がいる」ことが注目されました。これについては、後に吹田工場で改造された車のうち、クモハ73020までが該当する(床下機器配置が違う旨が記述された資料が確認された)ことが確認されました。同様の例がモハ72形でも確認でき、芝生さんの写真では、モハ72063, 085, 103, 147, 165が左片寄り、モハ72004, 036, 042, 054, 062, 102, 142が右片寄り、モハ72030, 041, 117, 132, 145, 151が中央と確認できます(200番以降は中央で標準化か)。写真を見た印象として「左側」「右側」と書きましたが、偶数向きの車は右側すなわちパンタ側、奇数向きの車は左側、これもパンタ側で、どちら向きの車も前位に偏って抵抗器が付くか、中央に抵抗器が付くか、とも解釈できます。クモハ73形が吹田工場の特徴だったのに対して、モハ72形は全て大井工場なので、クモハ73形とモハ72形の抵抗器の特徴は独立して成立したようです。また、抵抗器と一緒に制御回路遮断器も移動しており、一般的には設置スイッチや電動発電機と一緒にレイアウトされていますが、抵抗器が偏っている車はいずれも抵抗器の台車側に制御回路遮断器が取り付けられています。
 

戦前型旧国の床下機器配置覚え書き

 投稿者:34036  投稿日:2018年 8月25日(土)22時07分49秒
返信・引用
  皆さん、こんばんは

原口さん ご教示ありがとうございます。


さて表題の件です。

戦前型旧国の床下機器配置(電気機器と空制機器のレイアウト)の問題はなかなか複雑です。
(ここでは一応60系までを対象に考えます。)
関東・関西での違い、偶数車・奇数車、戦後の更新に際してのレイアウト変更等、いろいろな要素が絡み合います。
関西では42系以降、関東車と異なって奇数車・偶数車とも海側空制機器で揃えるようにしたのはよく知られていますが、
途中から偶数車の電気機器の配列が、前後入れ替わったことは私の知る限りでは、指摘されているのを見たことがありません。
(もちろん私が知らないだけで、知る人ぞ知る、かもしれません)

かなりディープな話題でもあり、趣味誌では正面から取り上げるような話でもなさそうです。
自分なりに法則性を見出すべく、写真などを見比べているのですがよくわからない面も多々あります。
これまでに分かった範囲でまとめてみました。間違った解釈をしている面も多々あるのではと思っています。
お気づきの点があれば是非ご意見等お寄せいただければと思います。


◆最初に、

RPアーカイブスセレクション 37 「63・73形電車の時代 1950~1970」 p.30~に
「国鉄電車発達史 暗黒時代」のリメーク版が掲載され、p.31にモハ60056の写真が掲載されています。
準戦時型モハ60の写真ですが、オリジナル版の写真と差し替えられています。

で、実はこの写真は、「電車のアルバム(交友社)」p.72にも掲載されていて、キャプションに次のようにあります。

(引用)「(前略)はじめ大鉄配属の予定でつくられたが東鉄に変わったため、
出入口横の幕板部に急行札を入れるワクがついたまま使われていた。」(引用終)

一方で、雑誌「レイル誌 No.22(80-01)p.53-56」に、
「大阪省電補遺 その1 ”方向板(サボ)”」という大那庸之助氏の記事があり、次のように述べられています。

(引用)「(前略)なお、例外として昭和15年製モハ60のうち、川崎車輛製の10輌(60055~60064)は、
当初より東鉄配置予定車にもかかわらず、急行板差込枠がつけられていました。
しかし、7芯束線3本の補助回路受け、中央ドア上につけられた前サボ用のフックで、
大阪の省電ではないことがわかります。」(引用終)


両者の説明は相反するわけですが、この件はどこかで決定的な説明がされているでしょうか?

60055~60064は、実際に関東に配置され、奇数番号車は奇数向き、偶数番号車は偶数向きでつくられました。
写真の60056は偶数番号車ですが、ジャンパの在りようから番号通り偶数向きであることが確認できます。

そしてなによりも注目したいのは床下の機器配置です。

戦前の関東車は、奇数向き車を基準として山側:電気機器、海側:空制機器が標準で、
偶数向き車の床下機器配置は、奇数向き車をそのまま方転した形であり、従って
奇数車とは反対に、山側に空制機器、海側に電気機器が並ぶ、というものでした。
(引き通し線については、「奇数車・偶数車とも基本同一設計で作り、偶数車の車端部分で左右を入れ替える」のだと
考えていたのですが、詳細な設計図を見ると必ずしもそうではないようです)

一方で、42系以降の関西車は、奇数向きも偶数向きも海側に空制機器が来ます。(塩害を避けるためといわれます)
で、写真の60056は、運転台側、つまり海側②④サイドが見えていますが電気機器が並んでいます。
つまり戦前の関東仕様そのものです。

大那氏の記事で、これが関東車であることの理由として、「7芯束線3本の補助回路受け」が挙げられていますが、
仮に関西向けだったとしても、関東で使うとなれば当然これに交換されるはずなので、理由としては弱いのではないでしょうか。
先ずはこの床下機器配置のことが取り上げられてしかるべきではないでしょうか。

ちなみに同年度製の大鉄西成線向けの60029~60042は、こちらも奇数番号車は奇数向き、偶数番号車は偶数向きですが、
大鉄仕様であり、偶数車は海側が空制機器となっています。

「大鉄で使う計画だったのが東鉄に変更」といった計画の変更自体は、ありがちな話だと思います。
ただ、この手の話が実質的に意味を持つのは、計画が変更された時点で、設計、部品調達等の面で
タイムリミットを過ぎている場合のみではないでしょうか。
少なくともこのケースでは、仮に計画変更があったとしても、それは十分関東型設計で落成できる時間的余裕がある時点だった、
ということでしょう。


◆本題

関東の偶数向き電動車は、昭和28年以降、更新工事に際して床下機器の左右を入れ替え、
関西型のように、原則的に、山側:電気機器、海側:空制機器への統一が図られました。
(大井工場の委託先である日車支、汽車支、東急、そして豊川分工場実施分。吹田工場はこの手の工事をおこなわず)
上の60056も更新後は海側が空制機器になっているのが確かめられます。

さて、ここで注目したいのは電器側、空制側ともに、各機器の配列順です。
更新後の偶数車と奇数車を比べてみると、空制機器は鏡対称であるのに対し、
電気機器は偶数車、奇数車とも向かって見たときの配列順が同じになっています。

なんの事か分かり難いかもしれません。言い換えますと、
海側の空制機器に関しては、奇数車、偶数車とも機器の配列順序が前位から後位にむけて同じように並びます。

例えば、代表的な機器としてCPと空気溜の相対位置についてみると、
奇数車・偶数車ともCPが前位(運転台)側、空気溜が後位(連結面)側となっています。

ところが、山側の電気機器に関しては、向かって見たとき、たとえば左から右に向けての配列が同じになるように並びます。

例えば目立つ機器として抵抗器群に着目すると、
奇数車(向かって左側が運転台寄り、右側が連結面寄りとなる)では、運転台寄りに来るのに対し、
偶数車(向かって左側が連結面寄り、右側が運転台寄りとなる)では、連結面寄りに来ます。

電気機器は、移設する際、全体の配列順序を変えない方が都合がよい(あるいは変えられない)ということでしょうか?
(ただし、総ての機器について配列順序を詳細に比較したわけではありません。見立てが間違っているかもしれません。)


ところで、関西車は戦前から、42系以降偶数車は関東とは異なり海側空制、山側電器でしたが、
実は、当初は電気機器側の配列も奇数車と偶数車で鏡対称でした。
つまり、例えば抵抗器群は、奇数車、偶数車ともに運転台寄りに設置されていました。

しかし、途中から左右の並びを奇数車と同じにしたようです。
分界点は51形と54形のようです。54001は奇数向き、54002は偶数向きですが、51056までは旧来方式で、
54002以降の偶数向車では抵抗器群が後位(連結面)寄りに配置されています。

先に挙げた大鉄西成線向けの60029~60042のうちの偶数車(後の54104~54112(偶))もそうなっています。
戦後吹田工場で更新された車は、床下機器のレイアウト替えはされておらず、製造時の様式がそのまま残されており確認できます。

51形と54形の違いは電動機のみといわれますが、こうした差があったことになります。
MT30化が機器配置変更の理由なのでしょうか? (抵抗器容量には差があるでしょうけど)
既報であれば申し訳ありませんが、この辺りどこかで解説がされているでしょうか?


戦後関西から関東へ移籍したモハ43(モハ53)は関東仕様で更新を受けましたが、
偶数車の電気機器の反対サイド移設後の配列はもとのままではなく、例えば抵抗器群の設置位置は、
更新前は運転台寄りにあったのが、更新後は連結面寄りに移っているのが確かめられます。

つまり他の関東型偶数向き電動車と統一されたわけです。
たとえば RF(No.509) 03-09 「42系姉妹の一代記 その4」 更新前の43022(p.97)と更新後の51204(元43014 p.98)

なお、言うまでもないことですが、更新工事以降に方転した車輛は、方転に際しては、
このような大掛かりな機器のレイアウト替えなどは行われず、したがって機器配置自体は更新時のスタイルを保持しています。

例えば、横須賀線のモハ43、モハ53の奇数車は昭和30年代中頃偶数向きに方転し、
その後三扉化されて50形になったものがある(53003→50002、53005→50006但し鶴見事故廃車)ので
機器配置を調べる際はその辺りも勘案しなければなりません。
43804なども元は43025で、低屋根化前にすでに偶数向きに方転していた車です。これらの機器配置は更新時のままです。

先に記しましたが、吹田工場では更新に際して機器配置の入れ替えを一切やりませんでした。
そのため戦前の形態が保存されています。関西型モハ51偶数車の抵抗器の位置は運転台寄りのまま。
また、戦後関東から関西に移り、吹田で更新工事を受けた元中央用モハ51は全車偶数向車ですが、
海側が電気機器の戦前の関東スタイルがそのまま残っています。
またモハ31偶数車にはモハ43のオリジナルの特徴が残されていました。
(モハ42は42002、004、006の3両のみ偶数向き車で、床下も海側が空制となっていました。)


◆ところが、非常に不思議なのがモハ40・モハ42・モハ30です。

モハ40はもともと全車第1運転台が偶数側、つまり偶数向きですが、戦後更新時に方転しました(関西車を除く)。
戦前は海側に電気機器が来ていましたが、方転によってもとにもどるため、奇数車と変わらず
なんら機器配置に手をつける必要がないはずでした。
ところが、空制機器はどういうわけか、左右が逆転し、後位の③位から①位にむけてCP、空気溜の順になっているのです。

これはモハ42、そしてモハ40改のモハ30、モハ61004にも見られる特徴です。一体いかなる理由でこのようなことになったのでしょうか?
(なお61005は特異車です。見た目該当しますが、車体自体は方転しておらずパンタを前後付け替えたのでは?)

 

TOMIXより、1/80, 16.5mmゲージ70系発売の予告

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 8月24日(金)00時35分34秒
返信・引用
  皆さんこんばんは

TOMIXより、HOゲージ(厳密には日本スケールの1/80, 16.5mmゲージ)の70系の模型化が発表になりました。
 公式の発表は、先週末の鉄道模型コンベンションの場で行われ、「横須賀色セット」と「新潟色セット」の発売が予告されました。今のところ内容はこれだけで、どの製造ロットか、クハ76.モハ70型以外の形式は発売されるのか、はまだ不明です。予告の写真で掲載されているのは、横須賀色は横須賀線時代で、中間のサロはサロ85形、新潟色は6両編成で中間のサハはサハ87形、もう片方のクハはクハ75形になっており、先頭のクハ76はともに1次車の昭和34年更新後でした。
 KATOから、クモハ41、クハ55が模型化されており、最近再生産されているので、新潟及び中部山岳ローカルで見られた、片方クハ68の編成を作ることも可能です。

73系アコモ改造車の台枠について
すぎたまさん
 「国鉄電車形式図集 第1分冊・旧型編」によると72系の台枠は、72500台、79300台がそれぞれUF132A, 134で、72920, 79920台がそれぞれUF412, 413になっています。他の全金車を見ると、80系300番台はUF312~315と300番台の番号になっているのですが、何故か70系300番台はUF132A, 133と、それまでの車と同じ番号が付いています。
 アコモ改造車はどう記載されているかというと、72970台は「UF132A」、79600台は「UF134・413」となっており、クハ79920台の台枠のUF413が入っており、クハ79609がクハ79949を種車としていることを反映しています。クハ79609は後期改造車なので、「前半の3編成が作られた段階」では、アコモ車の台枠は「UG132・134」なのは正しいです。

 飯田線での流電ですが、窓の幅を揃える話としては、昭和40年代初頭の年末年始の臨時列車用に6両編成を仕立てた時に、両側がクモハ52001,002で、間に窓の狭い車(サハ48、クモハ42、クハ47100台等)を組み込んだ編成、両側がクモハ52003,004で、間に窓の広い車(サハ48034、サハ75100台等)を組み込んで窓の幅をそろえた編成を作ろうとした、という話が確か昭和58年のRP誌の飯田線特集にありました。一方で、狭窓と広窓の流電を連結したのは、流電のさよなら運転の時の編成が該当します。

記号についての余話
34036さん
 記号のうち、“適当”感の強い符号は貨車の荷重記号の「ムラサキ」ではないかと思います。荷重記号の由来については吉岡心平著「RM Pocket 16 プロフェッサー吉岡の私有貨車図鑑」P23にまず「ム」が定義されたことが記述されています。引用すると

記号「ム」は、昭和3年の大改番以前は馬を積載できる有蓋車を示す記号であったが、「ム」を付された有蓋車は大型であったことから、大型有蓋車のことを「ワム」と通称する習慣が生まれ、これが便利だったため、昭和3年の大改番ではこれを荷重記号として採用した。なお、当時の大型有蓋車には、少数ながら14トン車が存在したため、記号「ム」の範囲が14トンからとされたことはあまり知られていない。

とあります。「馬」が「ム」になったのは、歴史的仮名遣いで、馬は「ムマ」と標記したことに依ります。最初に「ム」が決定し、その後の「ラサキ」は、「ム」を頭文字にする頃の良い言葉を思いついた、という事情のようです。「キ」は荷重25トン以上の車を示しますが、昭和3年時点では「キ」に入る車は大物車以外ではごく少数で、タンク車ではオア27650形27650の1両だけでした。この車は昭和3年の改番で「タキ1」とはならず、「タキ1450」と飛んだ番号になっています。
なお、昭和3年改番以前の貨車の「オ」記号は「大型」を示す記号のようで、タンク車では他にオア27600形、27620形(昭和3年改番でタサ700形)がいるほか、長物車「オチ」がいて、ボギー車を別格とする考え方のようです。

私鉄の貨車でも由来がミステリアスなものがあって、地元の秩父鉄道の石灰石輸送車が「ヲキ」と、「ヲ」の符号が付いているのですが、この由来が今となっては不明です。「鉱石」を「コヲセキ」と発音した、あるいは英語の「ore」を「ヲアァ」と発音してそこから取ったのではないかという説が出ています。ただ、鉱石は歴史的仮名遣いでは「クワウセキ」と書くので、仮名遣いを無視して発音を優先したことになっています。
また、昨年写真を紹介した、熊本電鉄のアーチバ台車の由来である貨車の「ナ1形」は、長物車で、「ながもの」から符号「ナ」を取ったと考えられます。

18m級電車の置き換え情勢について
関東の私鉄の18m級電車の置き換えの情勢について、新たな動きが発表されています。
まず、東急池上線、多摩川線の7700形が養老鉄道に譲渡されることが先日の新聞で報道されました。7700形は、7000形として登場してからは60年になるのですが、1990年頃に機器を更新しており、機器については1000形と同程度の使用歴になっています。7700形に白羽の矢が立ったのは、元々3両の短編成で、無改造で導入できるからではないかと考えられます。
また、東京メトロ日比谷線乗り入れの東武20000系の転用工事の内容もRF誌で発表になりました。単純化すると、「TcMM’MM’MM’Tc’」から、先頭車と中央の電動車ユニットを抽出して「TcMM’Tc’」にするものなのですが、注目すべき点として「5扉車を3扉車に改造する」ことが発表されています。5扉車の入った編成は全て廃車にして、全3扉車の編成だけを転用すると考えていたので、5扉から3扉への改造は意外でした。ただ、ステンレス車を改造するので、外板の全貼り替えはかなりの手間になると考えられ、扉の部分は、日光線の205系イベント車のような扉があったことがはっきりわかる形態になるのではないかと考えらえます。
先日、金沢文庫の総合車両製作所に都営浅草線5300形が搬入されたこと報告しましたが、2両単位でトレーラーに載せられて運び出されています。また、昨日は先頭車が運び出されています。行き先は、改造ならば北野の京王重機、解体ならば北館林の津覇車両ではないかと思われます。
 

お礼

 投稿者:34036  投稿日:2018年 8月21日(火)19時19分4秒
返信・引用
  皆さん、こんばんは

すぎたまさん、

コメントをいただきありがとうございました。

 >どこが監督するにせよ、組織として理由を説明せずに記号を制定しますかね。そこの前提がおかしいように思うのですが。

 >基本的にはトップダウン的に「これこれこういう記号を制定したから、今後はこういう目的の車輌は××という記号を付けてね」と
  指示する人(もしくは組織)がいて、現場側はそれに従うのが当たり前なわけで、仮にそれが浸透しなければ、
  みんな好き好き勝手な記号で呼んでしまうでしょう。

まさに、これを担うのが「車輛称号規程」なわけですね。
実際車輛の記号については、制定された記号が現場に浸透し、原則的に問題なく運用されていると思います。
記号の由来などお構いなしに、ですね。


 >クとサについては、今のところ確定的な証拠文献は発見されていないようですが、必ずどこかに記述があるはずです。

明治44年1月の車輛称号規程で、客車の記号の制定についての条文は同規程第四條にありますが、
その文面は添付の資料のとおりで、記号の由来に関する説明はありません。
まあ、そうした説明は不用だし、少なくともこうした条文の中では記述されない類のものでしょう(と私は思います)。

すぎたまさんが言われるような「記述」というのは、あるとすれば、
例えば、法律の条文などでは、内容の解釈をめぐって必要に応じて注釈書、解説書なりが出される場合もあるでしょうから、
そうした書籍なり文書がそれに該当し、その中でならありえるのかもしれません。

しかし、その場合、すぎたまさんの考え方に従うならば、記号「ク」「サ」に拘らず、
「現場に浸透が図られるために」制定された記号全てに等しく、記号の由来が記されていなければならない道理と思います。

記号の由来の正当性が担保されるような書籍なり文書であるなら、少なくとも当局監修等のおスミ付でなければならず、
もしそうした書物なりが存在するとすれば、その存在が知られていないはずがない、のではないでしょうか。

一般論として、記号の制定に関しては、制定意図を代表しうるような適切な記号の選択が困難な場合もありえますよね。
その場合は、73おやぢさんも同じことを述べておられたと思いますが、
まだ使われていない文字をいくつか選んで、そのなかからエイ、ヤで決めるとか、
文字を書いた紙きれを箱に入れて、籤引きで決めるとか(半分冗談、半分真面目です)、
そういうケースも無きにしも非ずなのではないでしょうか。
こうした記号は、一度決めてしまえば、その理由など問わない類のものなのではないでしょうか(と私は考えます)。

話がそれるかもしれませんが、国鉄の称号規程のなかには、「旧形車」、とか「雑形車」とか出てきますが、
こうした「形」の使い方は、国語的には誤りと思っても、条文に
「「旧形車」とは、これこれこういう車輛を指す」、といった具合に「定義」されているので、理屈抜きに
「はい、わかりました」といって受け入れているわけです。

なお、本題とは関係のない話で恐縮ですが、
国鉄内では、「静岡形」とか「大阪形」といったように「形」を使う表現が普通にありますが、これは一種の「文化」ですかね?
「形式」も、普通の意味では「型式」が正しいでしょう。「形式」という述語はどのようにして登場してきたのでしょうかね。
添付した資料によれば、明治44年1月の車輛称号規程の条文の中では「型式」という言葉が使われています。一方で
車体標記の仕方などの指示達の中で表示されている「図」では、「形式」とされています。当初は両方が混在していたようです。




73おやぢさん

お返事ありがとうございました。

記号「ク」に係る話は、最初はほんの軽い気持ちで投稿したのですが、このような展開になるとはおもいませんでした。
おかげさまで、いろいろ興味深いお話を伺うことができ、自分でも新たに考えるきっかけとなり大変勉強になりました。
ありがとうございました。

●「手帳」の件、見返していて誤りに気付きました。
ピク誌ではなくて、ファン誌でした。お詫びして訂正いたいます。大変失礼いたしました。

 誤 RP09-05 p.132-133
 正 RF(No.577) 09-05 p.132-133 「鉄道車両知識の小箱」

●「マニヤの称号規程」について
明治44年1月の称号規程の説明の下りの中で次の一文があります。

 「旧番号中ニデなる記号は、明治43年3月8日に当時のロハをニデに(荷物室付)に改造されたもので、
 この改正ではデニとすべきが当然であるが、当時の考えでは、ある意味では電車は別格で、
 等級もつけないで番号は当時の二等並みという扱いであった。」

この中の「この改正ではデニとすべきが当然であるが、」の部分です。著者はどうしてそれが当然である、と考えたのでしょうかね。
後段の話ともつながらないように思います。
この点は私の中では明治44年1月の称号規程のコンセプトをも含めて、以前からいろいろ考えさせられている問題です。

●戦後の運転と工作の間の確執の存在については、下記山之内秀一郎氏の寄稿文の中でも触れられています。
RF(No.562) 08-02 p.85-89 「209系誕生秘話 新しい電車のコンセプト」

 「とくに運転局と車両局は長年の間、国鉄部内でも仲が悪いので有名だった。実態は低次元の権限争いだったのだが、それだけに根が深い。云々」の下りがあります。

この部分がというわけではありませんが、申し訳ないですが全体として読んでいてイライラ感の募る一文ではあります。あくまで私の感想としてですが。

 

飯田線における52形電車の問題

 投稿者:すぎたま  投稿日:2018年 8月21日(火)17時44分18秒
返信・引用
  みなさんこんにちは。

73おやぢさんの記述で、ふと気になったのですが、飯田線におけるクモハ52形の運用、確かに広窓車はそれらだけで、狭窓車はそれだけで編成されている写真が多いように思えます。
しかし、片側狭窓、片側広窓の編成もあるにはありましたし(宮沢模型のHOモデルもそうなっています)、どだい、52001と52002はMT-30または40になっていて、142Kw車であるのに、52003-52005はMT-15モーター(本来は16のはずだが、原口さんがレポされたように、循環修理されたのか、MT-15装備の車輌ばかりだった(?))でおおよそ110Kw車(1500V換算)のはず。
ということは、性能は揃っていなかったわけで、広窓・狭窓の運用分けは、外観だけでは無いようにも思えますが、真相はどうだったのか…。
もっとも、クモハ52003-005が、どうしてMT-30化されなかったのか。「合いの子」車は、53形化されて配置されているのに、まさかモーターを西武に譲渡しすぎたわけでもありますまい(笑)から、そこからして謎なんですけどね。

原口さん
クハ79920番台は、キーストン構造台枠ですか?。ナハ10の試作車では、キーストン構造に軽量化穴まで開けた横梁などが、鉄道ジャーナル誌で観察出来ますが、電車でキーストンになったのは101系からではなかったですかね?。私も確実な資料が無いので、わからないのですが…。
72970番台の仙石線向けは、まず3編成が作られ、さらに2編成増備の形になっています。少なくとも3編成が作られた時に書かれた解説書(国鉄車両設計事務所編)によると、台枠はUF132、134使用になっており、クハ79949がそれに該当するのかどうか、本車だけキーストン構造なのかどうかが、今のところわかりませんね。本車はのちにクハ103-3001に改造されていますが、見た目の違いはわかりませんし、クハ79609時代の画像を見ても、車体すそなどに特段の違いは見られないように思えます。

いまだ解明されない旧国の多数の謎とでもいいましょうか。
失礼いたします。

http://princesscomet.net/

 

軽量客車の台枠

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 8月19日(日)23時49分57秒
返信・引用
  鋼体化客車の台枠と併せ、軽量客車(オハネ12 29)の台枠も観察しました。

まず、台枠の前に床板が注目で、オハユニ61 107では木張りなのに対して、オハネ12 29はキーストンプレートになっています。台枠もかなり様子が異なり、オハユニ61 107のゴツイ構造とは対照的な、ほっそりした横梁で、スハ43系辺りとは異なっています。この構造は旧型国電末期の全金車の一群にも継承されているはずで、それまでの旧型国電とはかなり様子の異なった床下だったはずです。72系アコモ更新車のうち、クハ79609だけは全金車(クハ79949)が種車だったため、台枠はこのタイプで、他の車とは一線を画していたはずです。

写真中央は、当初の目的でもあるSL碓氷号で、磯部駅付近で迎え撃ちました。夏の高気圧が交替して、湿度が低く、山がよく見えたので、上毛三山、浅間山を入れた写真を撮影してみました。写真はその中から、榛名山を背にしたSL碓氷号です。
碓氷峠鉄道文化むらからは、熊ノ平信号場まで歩きました。写真はその帰りに、丸山変電所付近を並走した「峠の湯」から碓氷峠鉄道文化むらへ降りる列車で、写真を撮影した場所を含む、66.7‰区間は歩く速度で降りていたのですが、丸山変電所を通過してからはスピードアップして降りていきました。
 

鋼体化客車の台枠とTR11台車

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 8月19日(日)23時27分11秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんばんは

18日(土)は、信越本線(高崎―横川間)で「SL碓氷号」を運転したのに合わせて、SL碓氷号の撮影をするとともに、久しぶりに「碓氷峠鉄道文化むら」を訪問しました。
 以前、オシ17 2055の台枠を観察して、「3軸ボギー台車に対応した台枠に、どのように2軸ボギーのTR53台車を適合させたのか」を報告しましたが、今回はオハユニ61 107の「鋼体化客車の台枠」に注目しました。
 まず、横幅なのですが、モハ50系電車の鋼体化の時は、種車のデハ63100形が車体幅2600mmで、これを2800mmに拡大したため、側梁を「元の梁をそのままにして外側に梁を新設」「元の梁を取り外して、横梁を延長して、外側に梁を移設」といった方法で車体幅を拡大する方法が取られたのですが、オハ61系の場合は、元のナハ22000系が既に横幅2800mmを採用していたため、幅の拡大をする必要はなく、横梁はそのまま使われています。ただ、中央から外へ向けてテーパーが取られた、見慣れた形態の横梁ではなく、高さは同じで、外側で角を取ったような、形態になっておりこのため、外側から見ると側貼りの存在がよくわかります(写真上)。
 台枠の前後方向の継ぎ足し部分ですが、「よくわからなかった」というのが実情でした。オハユニ61形は鋼体化のなかでもかなり後の工事なので、溶接の仕上げが向上したのか、見かけ上は接合位置がわかりませんでした。写真中央は連結器部分で、17m車から20m車になったため、オーバーハングが伸ばされたので、端梁およびデッキ部の構造全体が外側へ移動したはずです。おそらく、写真の辺りで、外側へ延ばす工事が行われたのではないかと思われるのですが、よくわかりませんでした。
 写真下は、TR11台車の「球山形鋼」の構造がよくわかるように写真を撮影したものです。TR11台車の解説としてよくあるのが、「造船用の部材であった球山形鋼の使用」で、「球山形鋼の製造中止」に伴って新型台車の導入の必要に迫られたことが台車の歴史でよく取り上げられるのですが、「何故球山形鋼の製造が中止になったのか」の記述は見たことがありません。また、造船分野から球山形鋼の生産中止に触れた資料も見つかっていないので、「製造の方から見た事情」が不明です。ちなみに、鋼材の製造については、八幡製鉄所の資料室に資料の保管があるそうで、明治44年の製品目録にI型鋼や溝形鋼といった現在でも標準の断面の鋼材の他、「球山形鋼」「球I型鋼」「球鋼板」といった製品の記述があるそうです。明治末期から、大正、昭和初期にかけて、世界情勢の変化による景気の変動はありますが、一貫して鉄鋼の製造量は伸びているはずで、その過程で少量多品種製造から、大量少品種製造へ方針の変更があって、製品の集約が行われ、おそらく球山形鋼は製造時の過程数が多かったことが考えられ、整理の対象になったと考えられます。ちなみに、現在製造されている鋼材は、JFEスチールのカタログが見つかり、「球平形鋼」がありました。意味は、平形鋼の一端を丸く整形したものですが、溝形鋼(チャンネル材)を中央でから竹割にしたものに近いです。また、JIS等の現在の鋼材の規格を見ると、「球山形鋼」は規格としては存在しており、寸法の一覧表がありました。
 20日(日)に職場の図書室で造船の歴史の本を調べてみたのですが、鋼材の規格に関する記述は見つからず、球山形鋼を造船の方で必要としなくなった事情は確認できませんでした。代わりに、鋲接、溶接に関する技術の進歩の記述は見つかり、溶接については「溶接棒の品質」がカギになったこと、初期の全溶接船(昭和7年竣工の海軍の敷設艦「八重山」)では、溶接部分の品質のばらつきが大きかったことが記述されていました。鋲接は、船の場合、16mm, 28mm系の鋲が使われていましたが、戦艦「武蔵」では40mm径の鋲が使われました。戦艦「武蔵」への40mm径の鋲の採用と生産、鋲の打ち込みについては、吉村昭著「戦艦武蔵」に詳細な記述があります。
 敷設艦「八重山」は、昭和5年8月2日起工、昭和6年10月15日進水、昭和7年8月31日竣工なのですが、同時期の鉄道車両でも溶接の採用がエポックになっています。電車では昭和5年のモハ31058(後のクモハ11222)で溶接を取り入れた車体が試作され、昭和6年の車から溶接が本格的に採用されて、リベットが大幅に減少しています。また、貨車でも昭和6年に登場したタム500形で全溶接のタンク体が採用されました。RM140号の「私有貨車セミナー」P75に昭和8年新潟鉄工製のタム20506(タム506を43-10改正に伴う65km/h制限で改番)の写真が掲載されています。昭和6年汽車支店製の、「最初の溶接タンク体」を採用した、タム20501の写真も掲載されているのですが、マンホールの固定方式、安全弁の形態が戦後に一般的になった方式になっているため、昭和20年代中頃から後半にタンク体を全交換する更新工事を受けた可能性が大です。タンク車ではしばらく溶接タンク体とリベット止めタンク体が共存したのですが、昭和10年ごろに溶接に全面的に置き換わっています。
 

記号の由来を現場に説明しないのか

 投稿者:すぎたま  投稿日:2018年 8月19日(日)07時16分20秒
返信・引用
  34036さん

> 「当たり前のこと」だから残されないのではなく、もともとが残される類のものではない

 これって、言っていることが、前段と後段で同じではないですか?
「もともとが残される類のものではない」から、つまり「「当たり前のこと」だから残されない」のではないかと思うのですが。常識的に考えて、「当たり前だから」理由が「残されない」んじゃないですかね?。

総論として、工作局だか、運転局だか組織のことは私なんぞはわかりませんが、どこが監督するにせよ、組織として理由を説明せずに記号を制定しますかね。そこの前提がおかしいように思うのですが。
モハがマハになってしまった例なんかもありましたが、あれはおそらく現場の呼び方がいつの間にか共通認識になってしまった例かと思えますが、基本的にはトップダウン的に「これこれこういう記号を制定したから、今後はこういう目的の車輌は××という記号を付けてね」と指示する人(もしくは組織)がいて、現場側はそれに従うのが当たり前なわけで、仮にそれが浸透しなければ、みんな好き好き勝手な記号で呼んでしまうでしょう。
なので、必ずクにしても、サにしても、誰か決めて浸透させようとした人がいるはずで、理由もその人が考えたものがあるはずです。ただ、記号はそれが現場や届け出先などで共通認識になっていれば、モハであろうとマハであろうと、「由来」の部分は忘れ去られてしまっても問題ないわけです。だから年代が下るとわからなくなってしまう。それで由来を尋ねられた人が、なんとなく自分が思っていた由来として、駆動のクみたいな、謎な自説を答えてしまい、今度はそれがスタンダードであるかのように伝達していってしまうのでしょう。
クとサについては、今のところ確定的な証拠文献は発見されていないようですが、必ずどこかに記述があるはずです(それが残存しているかはわからないが)。トデを制定したのですから、必ず現場に説明し、その時に由来も説明しているはずです。
唐突に、「モーター無し車を『ぺ』にするから」とだけ言われて、「何で『ぺ』なんだ?」と思わない人はいないと思うのです。実際は「ク」ですけどね。

失礼いたします。

http://princesscomet.net/

 

たぶん最後のお返事です

 投稿者:73おやぢ  投稿日:2018年 8月18日(土)18時45分58秒
返信・引用
  みなさん、こんばんは。
34036さん、お返事ありがとうございます。
私の材料は出つくしましたので、たぶん本件最後のお答えになると思います。

Ⅰ 手帳の件
最初は短絡的に「43年1月号が反映したのでは」と思いましたが、手帳は暦年区切りでしょうから、編集や印刷は42年秋ごろであり、タイミング的に電車誌の記事は無関係のようですね。そうすると、次なる候補としては昭和33~34年あたりに電気車研究会が発行した「鉄道用語辞典」(未見のため発行時期や書名などは不詳)にさかのぼるかもしれません。これには”くっつき説”が記載されているそうです。ついでながら昭和33年には国鉄自身が立派な「鉄道辞典」を編纂していますが、これには全く記載がありません。

Ⅲ-② 工作と運転の確執
なんでも管理したがる工作系と、使い勝手重視の運転系の確執は、ほぼ34036さんのおっしゃるとおりです。両者の立場に関しては、流電の飯田線転入時の逸話を思い出しました。本件に合致した内容ではありませんが、少なくとも運転局側の考え方を知ることはできます。

飯田線転入後の狭窓車と広窓車の混用を心配した工作局の某氏が運転局を訪ね、
「モハ52形は狭窓車同士、広窓車同士で編成を組むように、現場を指導してくれんか」
と依頼(もちろん私的に)したそうで、運転局はこれに対して、
「モハ52形各車は性能と設備が同じだから、一体にプールして効率的に使うべきである」と突っぱねたそうです。柔軟な運用と予備車削減こそ重要と考える運転局の姿勢がよくわかります。実際は晩年まで狭窓車と広窓車は上手に使い分けられたようで、結果は問題なかったようですが。

話は少々脱線しますが、工作局の”流電愛”には格別のものがあったようで、興味深い改番が見られます。すでにご存じの方には、いまさらの話で申し訳ありません。
流電系付随車改クハ47形は改造日付順のため当初の車号は広窓-広窓-狭窓の順でしたが、後の再改番で狭窓-広窓-広窓とひっくり返され、多くの国電愛好家は結果に安堵しているはずです。
また、流電系サハ48形は本来ひとくくりの連番でしたが、3扉化にさいして出自や便所の有無で細かな番台分けとする、非常にマニアックな改番がなされました。これなど、運転側にすれば「迷惑千万な改番」かもしれません。最終的に全車受け入れた岡山にしても、この番台分けはチンプンカンプンだったことでしょう。

“くっつき説”は運転側か
運転側の視点とする根拠は?ということであれば、当然ながら物的根拠はありません。ただ、工作と運転、いったい何をする人たちの集団かといえば、工作は車両を「つくる人」および「管理する人」、運転は車両を「使う人」であり、くっつくのもさしはさむのも、使い方の一形態と考えたからです。もうひとつは、電車の進歩発展の過程で、編成増強の要請を受けて単車が2両となり、3・4両…と成長していきますが、例えば3両編成なら単純に「電車」を3両つなげればよいという問題ではなく、完全装備の「電車」より格落ちの車種を混ぜることで性能やコストを勘案したバランスが求められるはずです。このあたりを考えるのが運転の仕事であり、運転や営業(大正期における発言力は恐らく無いと思う。戦後であれば十分にあり)による「こうした列車を走らせたい」「こうした車種がほしい」という要請に応じて、工作が最善の車両を提供するのが国鉄時代まで一貫して続いた基本的な流れと考えます。
もしここで、くっつけると言い出したのは、本当は工作側だよと証明されれば、私が指摘したハードルは無意味であり、”くっつき説”に対する障害はなくなります。

松縄氏のキャリアは存じませんが、明治~大正にかけての組織図に興味深い関係があります。
まず、明治40年の帝国鉄道庁設置時、運転課と工作課はどちらも運輸部に所属しており、塚田論文にあった買収直後の車両番号付与の紛糾は身内の兄弟喧嘩であり、さればこそ運輸部内で調整が働いて苦し紛れの折衷案をひねり出した可能性はありそうです。
これが大正2年の組織図では工作系が分離独立して技術部工作課となり、運輸部は運輸局(旅客・貨物・運転主任)となっています。この時点で運輸局内に運転課の文字が見当たらないのですが、大正9年の図では運輸局内に運転課が存在することから、大正2年の段階でも同様(運転主任なるものが運転課と同等の可能性?)と思われ、以後は国鉄までずっと別系統です。部と局の違いは所帯の規模でしょうし、技術部に上部組織はなく、鉄道院総裁の下に技術部と運輸局が並列記載ですから、名称をもってただちに局は部より格が上で力が強いとはならないと思います。運転屋にすれば「おれたちが本流」「出分かれ(工作系)が何を言うか」的な自負はあるかもしれませんが、これが力関係にそのまま影響したかどうかは証明のしようがありません。組織が完全に分離しているので、少なくとも大正2年以降、称号の管掌は技術部工作課とするのが妥当と思われます。

34036さんが”くっつき説”を荒唐無稽と感じられたことがあったとは、人それぞれで面白いです。私は学生のときに知人から”くっつき説”を教えられ(たぶん彼の根拠は43年1月号でしょう)て洗脳(?)されたため、後年に電車誌で”具備説”に遭遇したときは大いに戸惑いました。「最終目的のクに誘導するため、日常生活でほとんど使わない具備という単語を持ち出したのか」とすら思ったものです。その後、若干の曲折を経て今日に至っているのですが。

いずれにせよ、前回、落としどころとして提示したくだりが、現状における最終的な認識です。あとは皆さんのご判断で、検討なり考察を進めていただければよろしいかと存じます。
 

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