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北海道レポート(その8)TR20台車と古典台車

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月17日(月)12時24分41秒
返信・引用
  今回の訪問では、「TR20台車」を多く見ました。

 写真上は小樽のジョルダン雪かき車キ718のTR20台車、中央は同台車の揺れ枕吊りとブレーキの拡大です。
 両博物館とも、「雪かき車」が多く保存されており、単線用ラッセル車のキ100、複線用ラッセル車のキ550、ロータリー車のキ600、ジョルダン車のキ700、マックレー車のキ800が揃っています。TR20は、ロータリー車以外の雪かき車に装備されていますが、各形式ともTR41台車と混用されています。以前キ100形の特集を鉄道誌のどこかで読んだことがあるのですが、キ100形の場合、木造車の鋼体化でキ100形に編入された車があり、TR20台車とTR41台車を単純に番号で分けられなくなっています。
 TR20台車については、RM誌の「私有貨車セミナー」で特集されたことがあるのですが、「TR20」と称する台車は意外と広い概念で、短軸、長軸や心皿荷重が区分されずにまとめられており、いわばTR11よりまえの明治45年型等のイコライザー台車を「TR10」として一括しているのに近いです。

 写真下はさらに古典台車の明治期の輸入台車です。明治25年(1892年)に当時の北海道炭鉱鉄道手宮工場で製造された客車「い1」は大正15年(1926年)に定山渓鉄道に譲渡され、末期は豊羽鉱山の通勤用車として使われていたのを、昭和38年に国鉄に変換され、苗穂工場で復元されました。この客車が作られた時は、まだ上記の八幡製鉄場は存在してなく、日本国内でも近代的な製鉄が始まったばかりの頃なので、鋼材は全面的に輸入で、台車もアメリカの「ハーラン・アンドホリングスウォース社」より輸入しています。写真でも、軸箱の上の部分に刻印が読み取れます。写真でもうかがえますが、台車は車体に対してずいぶん小ぶりで、客車の全景は、工場で仮台車に乗っているような感じがします。
 
 

北海道レポート(その7)TR11, 71台車の台車枠の「刻印」

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月17日(月)11時45分50秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんにちは

三笠鉄道記念館と小樽市総合博物館の訪問で、TR11, 71台車の「球山形鋼」の台車枠に「刻印」があることに気づきました。
 両博物館とも、道内最初の「幌内鉄道」に由来するため、古レールの展示が充実している(写真上、写真は三笠鉄道記念館のもの)のですが、ここで示されている「レールの刻印」と同じものが台車枠にあることを見つけました。
 写真中央は三笠鉄道記念館のスエ30 41のTR11台車で、球山形鋼の台枠に陽刻で刻印されているのがわかります。球山形鋼の「球」の方を上にして刻印されているので、文字が逆立ちしていますが、別に拡大写真を撮影しており、読み取ると、八幡製鉄の社紋の右に「BS 8×8 1/2 SEITETSUSHO YAWATA ヤワタ」と書いてあります。
 写真下は、小樽のスエ78 5のTR71台車の台車枠の刻印の拡大で、上記のスエ30 41のTR11台車と同じ文字が読み取れます。
 このため、両台車とも鋼材は八幡製鉄所からの供給だったことがわかり、TR11台車の生産終了をもたらした「球山形鋼の製造終了」は鋼材供給が八幡製鉄所一本だったことも影響したことが伺えます。実際、当時(大正末期から昭和初期)の日本国内の製鉄量の大部分は八幡製鉄所だったようです。
 

クモハ51形の細部形態と更新時期について

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月15日(土)22時23分48秒
返信・引用 編集済
  34036さん、73おやぢさん、皆さんこんばんは

クモハ51形の更新修繕について
 クモハ51形の更新修繕の時期が、54,60形に先行することを示されていますが、実は、クモハ51形は各部に古い特徴が残されていることにかねてから注目していました。目立つのは、運行窓が2桁であることで、クモハ73形の大鉄更新車(73001~049, 051, 053, 387, 389, 391)と共通の特徴でもあり、戦前型省電の中で、クモハ51形全車だけに限られることが不思議でした。他にさらに51001~010に限られる特徴として、パンタから降りる線が、母線が空気側に、空気管が電気側に降りる「逆配管」であることがあります。これもクモハ73形の大鉄更新車と共通の特徴で、昭和27年までの新製車(確認できる車ではモハ72500~513)も同様のレイアウトだったのですが、以前73おやぢさんが報告されているのですが、東鉄の車は早期に電気側母線、空気側空気管に修正したらしいのですが、大鉄の車は遅くまで修正しなかったことが確認されています(確認できる車では、仙石線に転属した上記のクモハ73形、全金車でも吹田工場更新車は修正せず)。また、ベンチレーターがガーランドで残った車がクモハ51010を初めとしてクモハ51形の何両かにいたことが確認されていますが、これらの古い特徴が、更新時期が早いこと、もしかしたらその中でもクモハ51001~010が先行したのかもしれない(昭和28年中か?)ことに由来することが伺えました。

クモハ60106について
 クモハ60形に関して、「更新修繕前」ではないのですが、昭和30年代初頭から30年度末辺りまでの写真が多く収録されている文献として、RM Models Archive 鉄道車両ディテールファイル008「松戸電車区のモハ60」があります。この中で、唯一「番号と方向が合わないクモハ60」となった、60106の写真が収録されています(P44~47, 1961/07/09および1965/3/15撮影)。P46の解説に、「この車は車号に偶数番号を持ちながら、車体は奇数向き。これは新製配属が大鉄の車は車号に関係なく奇数車で作られたためであった」とあり、車号に関係なく奇数向きであることが注目されてはいたのですが、この車がクモハ60として残った車では結果的に唯一の車であったことまでは気づかれていませんでした。また、「半流側にも幌座があり、前後の扉脇、幕板に急行サボ枠が残っているのも関西育ちの証である」と記述されています。
 この本が発売された時に注目されたこととして、クモハ60106の運転台側がモハ72000台に連結され、幌が繋がれていたことが挙げられます。解説にも「松戸では半流側を幌でつなぐのは珍しいが、この連結部を幌でつなぐことは理解に苦しむ。関西は小型の行き先札を扉に掛けているが、こちらは大形の箱が貫通路を跨いで車体に取り付けられていたため、扉を開けても行き先札箱が邪魔して通り抜けできないからだ。外からは見えない不思議な体験であった。」と記述されており、幌をつないでも箱サボ枠が邪魔をして通過できないのですが、73おやぢさんが種明かしをしてくださいました。すなわち、連結されているモハ72000台は、貫通扉が無い、貫通路が吹き抜けの車で、貫通路を使うためではなく、吹抜けの貫通路の「雨除け」として幌をつないでいたらしいとわかりました。

(9/16追記)クモハ54002更新前の写真2枚目を発見
 RJ77-8号(特集 旧型国電は生きている)に落成当初のモハ54002の写真が掲載されていました。P28に1937年に吹田工場で撮影された、電気機器を取り付ける前のモハ54002の非公式側からの写真(「旧型国電車両台帳」等に掲載の撮影と同じ方向)が掲載されており、床下はシルエットになっていますが、抵抗器に相当する位置が空っぽであることがわかり、抵抗器が前位に付けられたことが類推できます。
 

モハ60形の向き覚書

 投稿者:34036  投稿日:2018年 9月15日(土)18時35分58秒
返信・引用
  みなさん、こんばんは

73おやぢさん
書籍のご紹介ありがとうございます。
当該書籍は、出版当時書店の店頭で手に取ってみたことがあったと思いますが入手はしておりません。
機会があれば、確認してみたいと思います。

関東とは異なって、吹田工場での更新工事では偶数向き電動車の床下機器の入れ替えは、全く行われなかったものと考えてきたのですが、
今回図らずも54形偶数車に限っては抵抗器の配置換えをした(54002と54006は確定、そしておそらくは60形改の54104-112(偶)も)
可能性が濃厚になったのではと考えます。ぜひ該当車両の更新前の山側の写真をみてみたいものです。

モハ60の車号の偶奇と向きの一致しない車両の存在が時に云々されるのですが、私の知識の範囲で下記にまとめてみました。
結論的には、大鉄新製配置で偶数向きのモハ60は、もともと15年度の西成線向けの7両のみなんですね。

内2両が戦災廃車となり、残りの5両は総てセミクロス化されて54104-112(偶)となりました。
なので、確認したい対象はこの5両、それに54006、54008ということになります。

あと、私としては床下機器配置を確認したい更新前のモハ60として 60110 があります。理由は下記まとめの通りです。



「モハ60の向き」覚え書き

●14年度東鉄向け
60001-60025 25両

奇数番号車 奇数向き(①③=海側 空制、②④=山側 電気)
偶数番号車 偶数向き(①③=山側 空制、②④=海側 電気)

●14年度大鉄向け
60026-60028 3両

車号の偶数・奇数に拘らず全車奇数向き(①③=海側 空制、②④=山側 電気)

戦災廃車(1両):60028

残り2両ともセミクロス化 28年 54形100代に改番

奇数向き車2両 :60026、60027
       ⇒ 54101、54103(車号順)


●15年度大鉄向け
60029-60042 14両

奇数番号車 奇数向き(①③=海側 空制、②④=山側 電気)
偶数番号車 偶数向き(①③=山側 電気、②④=海側 空制)

戦災廃車(4両):60030、60039、60041、60042

残り10両(奇数向き5両 偶数向き5両)総てセミクロス化 28年 54形100代に改番

奇数向き車5両 :60029、60031、60033、60035、60037
       ⇒ 54105、54107、54109、54111、54113(車号順)

偶数向き車5両 :60032、60034、60036、60038、60040
       ⇒ 54104、54106、54108、54110、54112(車号順)

60形としての残存車なし
全車 昭和31年度に吹田工場で更新


●15年度東鉄向け
60043-60064 22両

奇数番号車 奇数向き(①③=海側 空制、②④=山側 電気)
偶数番号車 偶数向き(①③=山側 空制、②④=海側 電気)


●16年度東鉄向け
60065-60089 25両

奇数番号車 奇数向き(①③=海側 空制、②④=山側 電気)
偶数番号車 偶数向き(①③=山側 空制、②④=海側 電気)


●16年度大鉄向け
60090-60105 16両

車号の偶数・奇数に拘らず全車奇数向き(①③=海側 空制、②④=山側 電気)

戦災廃車(4両):60096、60097、60098、60100
事故廃車(1両):60103

残り11両 うち9両をセミクロス化 28年 54形100代に改番

奇数向き車9両 :60090-60095、60102、60104、60105
       ⇒ 54117-54133(奇)(車号順)(54115は欠番)
         全車 昭和31年度に吹田工場で更新

60形残存車2両 :60099、60101(2両とも奇数番号 奇数向き)
         2両とも関東へ転属 奇数向き車として更新(28.12.1東急、28.12.24汽支)


●17年度大鉄向け
60106-60111 6両

番号の偶数・奇数に拘らず全車奇数向き(①③=海側 空制、②④=山側 電気)

戦災廃車(3両):60108、60109、60111

残り3両     セミクロス化車なし

60形残存車3両 :60106、60107、60110
         このうち60110は偶数向きに方向転向した(らしい)。(下記文献 方向転向を言明する記述は見ていない。)

    ◆「関西の国電50年 履歴編」の60090-60111備考欄に「全車奇数向」とあり、
     その中で60110の備考欄に「偶数向」と特記されている(*1)。

    ◆RF No.507(03-07)「42系姉妹の一代記 その3」p.148記載
     「昭和25年4月1日現在 関西地区国電配置表」によると(明石区配置で下り向き)

         3両ともその後の向きの変更なし。3両とも関東へ転属。
         60106、60107は奇数向き車として更新(28.11.11汽支、28.10.21日支)
         60110は偶数向き車として更新(29.1.11汽支)
         (もと奇数向き車であったが、偶数向き車として更新され床下機器の左右が入れ替わった(のであろう)。)

●17年度東鉄向け
60112-60126 15両

奇数番号車 奇数向き(①③=海側 空制、②④=山側 電気)
偶数番号車 偶数向き(①③=山側 空制、②④=海側 電気)



関東に新製配置車されたモハ60形は例外なく奇数番号車=奇数向き 偶数番号車=偶数向きであり、
戦災・事故廃車、および 60016 ⇒ 55200 を除いて関東仕様で更新され、
うち偶数車(偶数向き)は更新の際、床下機器の左右が入れ替わった。

関西に新製配置車されたモハ60形の中には、偶数車号にもかかわらず奇数向きの車両が、もともとは多数存在したが、
上記の経過の中で60106を除き解消した。

60106はもともと奇数向きであり、更新後の60形の中では唯一車号と向きが合わない存在となった(*2)。
このため方向転向したようにとられがちだが、実際は上記のような経緯。

60110は、後年の姿は偶数車号偶数向きではあるが、もともとは奇数向き車を方向転向した(らしい)。
関東へ転属後更新を受け、元奇数車の痕跡は見られない。

大鉄新製配置で偶数向きのモハ60は、もともと15年度の7両のみ。
内2両が戦災廃車となり、残りの5両は総てセミクロス化されて 54104-54112(偶数)となった。


(*1)もっとも、「関西の国電50年 履歴編」で、
昭和40年代以降関東からの転入組である 60112、116、119、121、125、126 の備考欄にも
「全車奇数向」の注があるが、これは誤りで偶数車号の車は偶数向き。
なお、60125は昭和33年マト⇒ヨト でその後飯田線で使用後関東に戻った経歴を持つ車両

(*2)ただし、身延線用低屋根化車の800代改番への過渡期を除く。
御殿場線用のクモハ60を低屋根化して身延線用に転用したが、一部は奇数車が対象となった。
改造時点で方向転向したが、800代への改番は同時ではなかった。
60073、60075、60079、60115、60117 ⇒ 60802、60804、60808、60812、60814が該当

    ◆RF No.107(70-05)p.93-97「”省線電車の走るところ ?(8)身延線?」
    ◆RF No.114(70-11)p.103 「身延線ニュース」
    ◆「旧形電車ガイド」(ジェー・アール・アール)「車歴表 沼津機関区 クモハ60800代各車」の項
              
 

北海道レポート(その6)北海道記念館と、北海道開拓の村

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月15日(土)12時04分35秒
返信・引用
  11日(月)は札幌市の東の野幌森林公園内にある「北海道記念館」と「北海道開拓の村」に行ってきました。

 元々は夕張支線を訪れようかと思っていたのですが、地震から復旧せず、代替として北海道開拓の村を訪問しました。
 北海道記念館と、北海道開拓の村は台風21号による風害の方が深刻で、倒木の撤去と立ち入り区域設定のために営業開始は9月9日になりました。
 写真上は「北海道100年記念塔」なのですが、老朽のため、解体が最近話題になっています。
 写真中央は北海道開拓の村の管理棟を兼ねる、旧札幌駅舎(復元)です。
 写真下はWikipediaで「馬車鉄道」を閲覧すると出てくる、開拓の村内を運行する「馬車鉄道」です。開拓の村内も倒木が多く、Wikiの写真で紹介されている馬車鉄道線路の両側の並木が何本か倒れています。

 以上のように、札幌近郊の鉄道関係その他の博物館はだいぶ営業を再開しているのですが、訪問者はかなり少なく、8日(土)に幾春別の三笠市立博物館訪問のために幾春別バス停を下りた人、および幾春別バス停から乗車して岩見沢まで走破した人は私一人でした。

 帰りは、11日夜千歳発の飛行機を、当初の予定から変更せずに使ったのですが、やはりキャンセルが多く、機内はかなり空いていました。

 今回、各鉄道博物館で、床下機器、台枠を中心として、展示車両の観察を行ったので、後程紹介したいと思います。
 

北海道レポート(その5)室蘭駅旧駅舎

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月15日(土)11時51分34秒
返信・引用
  10日(月)は室蘭へ足を伸ばしました。

 当初の予定では、札沼線の新十津川駅と、留萌本線を訪れるつもりだったのですが、10日までに営業が復旧せず、代替として室蘭を訪問することにしました。
 札幌から函館までの室蘭本線経由のルートは一応復旧はしていたのですが、地震の震源に近い南千歳―沼ノ端間は45km/h制限をしており(写真上)、このため、札幌―と舞子枚間を走る列車は15分ほど所要時間が伸びます。特急も影響が出ており、札幌―函館間の特急「北斗」は折り返し時間が足らなくなるため、日が遅くなるとともに遅れが増加する傾向が有るので、しばらくの間は利用に注意です。
 写真中央は現在の室蘭駅で、写真下は旧室蘭駅舎です。室蘭も、小樽と並んで石炭積み出し基地で、上記の手宮の小樽市総合博物館でも紹介されていた、石炭を船に積み込む「空中桟橋」が室蘭にもありました。室蘭からの石炭積み出しは、かなり前に縮小されて、大部分が苫小牧に移っていたようで、蒸気機関車さよなら運転が行われた昭和50年時点では、苫小牧―室蘭間を運転する石炭列車はほとんど無くなっていたようです。
 

北海道レポート(その4)小樽市総合博物館

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月15日(土)11時32分31秒
返信・引用
  9日(日)は小樽市総合博物館へ行ってきました。

 こちらは、「小樽交通記念館」の名が馴染みかもしれません。2007年に小樽市内の複数の博物館の機能が統合され、法人としては「小樽市総合博物館」になりました。営業開始は三笠鉄道記念館より少し遅れ、7日は停電で休止しており、8日朝の時点で営業開始の情報が得られなかったため、三笠の方へ行ったものです。
 写真上は交通記念館展示車両の全景で、奥に最近の搬入車両でもある、「マニ30」が見えます。
 写真中央は、動態保存の蒸気機関車「アイアンホース号」で、今年になって故障を起こしており、最近になって復旧したものです。
 写真下は「手宮線」跡です。9月8、9日を通して、幌内鉄道の両側を抑えたことになります。
 なお、8日(土)は苗穂工場で一般公開イベントが予定されており、当初はこのイベントを訪問する予定だったのですが、地震のため、中止になっています。
 

北海道レポート(その3)三笠鉄道記念館

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月15日(土)11時17分1秒
返信・引用
  北海道で最初に開業した「幌内鉄道」の両端に相当する、小樽と幌内には、それぞれ「小樽市総合博物館」と「三笠鉄道記念館」があり、これらの博物館などを訪問する目的で、北海道への滞在期間を当初から11日夜までと長く設定しており、地震が起きても変更せずにそのまま滞在を続けました。

 JR北海道の列車の運行はまず7日(金)午後に札幌―新千歳空港間から復旧し、8日(土)に小樽―岩見沢間が運行を再開しました。三笠鉄道村と小樽市総合博物館の両方の情報を調べたところ、三笠鉄道村は、「日常を取り戻す」ことをコンセプトに、7日より営業を再開したことが確認できたので、8日は三笠鉄道村を訪問しました。ただ、札幌―岩見沢間は始発からの運行ではなく、初列車は10:07発だったので、初列車に乗車し、岩見沢から北海道中央バスで三笠市へ向かいました。
 写真上は三笠鉄道記念館(幌内ゾーン)で、幌内駅跡である三笠鉄道記念館へは、途中で三笠市営バスに乗り継ぎます。幌内線は、三笠駅から、幾春別への本線と幌内への支線が分かれていたのですが、幌内への支線は昭和40年代後半に旅客営業をやめて貨物専業になっており、これも影響しているのか、幌内線転換当初から比べると、幌内へのバス路線は営業の分離とともに原文されています。
 写真中央は、幌内と幾春別への線の分岐点だった三笠駅跡のクロフォード公園です。実は、三笠市の地理に関する知識がほぼゼロで訪問したので、「山に分け入っていく路線」というイメージがあったのですが、ここまでバスで走ってきた沿線風景は、そんなことは全然なく、クロフォード公園の有る、三笠市中心部までは平地のなかでした。個賠がきつくなるのは幌内、幾春別川共に三笠より奥です。
 写真下は、幾春別側の終点、幾春別バス停にある「幾春別駅跡」記念碑です。こちらには、駅跡の少し奥の石炭積み込み線跡にある「三笠市立博物館」があります。こちらは地質関係の展示が主で、特に「アンモナイト」を中心とする中生代の北海道産の化石の展示が充実しているのですが、「石炭」関係の展示もあり、この関係で坑内トロッコの展示もあります。
 

北海道レポート(その2)北海道胆振東部地震

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月15日(土)10時29分34秒
返信・引用
  9月6日午前3時過ぎに「北海道胆振東部地震」が発生しました。

 私が滞在していた、札幌市中央のホテルでもかなりの強振動を感じましたが、周知のように北海道全域が停電し、かなりの影響を受けました。
 写真上は6日朝の札幌大通ですが、全ての信号が消えています。当日朝は、札幌駅南口前の信号が点灯していた以外は、全て消灯しており、その中を車が掻き分けて走っていました。
 写真中央は6日の札幌駅内で、ニュース映像でも紹介されていますが、列車が全く運行していないこと、営業再開のめどがまだ立っていないことなどの表示が出ています。
 写真下は、9月10日に訪問した、苫小牧駅の南北連絡通路で、天井から蛍光灯が落ちています。天板の落下は千歳空港の様子がニュースでも流れており、11日夜に千歳空港から帰途に就いた際も目撃していますが、苫小牧も地震の震源からの距離は新千歳空港と同程度で、同等の振動が起こったことが伺えます。
 札幌市内の電気状況は、6日中は復旧せず、ニュースでも報道された、各地に設定された避難所が入っているセクションに最低限通電したと考えられ、このため、ホテルは停電したままだったので、6日夜は避難所へ行きました。このため、この日の報道にあった「~人が避難」で、「~戸」の方には入っていないのですが、「~人」の方には私が頭数に入っていたことになります。また、停電のため、流通が全く停止したので、災害報道でよく出てくる「棚が空っぽになったコンビニ」を実見しました。
 

北海道レポート(その1)台風21号の強風

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月15日(土)10時09分44秒
返信・引用
  皆さんおはようございます

先週から今週前半にかけて北海道へ用務で出張していました。周知のようにこの間、「台風21号の襲来による強風」と、「北海道胆振東部地震」が起こり、私の行動範囲にもかなりの影響をもたらしました。今回、札幌近郊の鉄道関係を含む、博物館をいくつか訪問しましたので、まず、台風、地震の影響と、各博物館の営業再開の報告をしたいと思います。

 台風21号の本土への襲来は、9月4日昼に四国から関西を通過、寄るに北陸、東北、北海道の日本海沿岸を北上し、5日午前に間宮海峡へ抜けましたが、私は9月4日午後に北海道に渡りました。北海道への訪問は、2011年10月の旭川への出張以来で、この時は「北斗星」を使ったのですが、この方法はもう使えないので、飛行機を使い、私としては飛行機を使った本土内の移動は1994年以来になりました。飛行機は午後3時半羽田出発で、台風の動きから、出発が微妙だったのですが、無事出発し、台風より先に札幌に付きました。
 札幌では、台風の風が強かったのは9月4日深夜から5日早朝だったのですが、北海道全域でかなりの倒木が発生し、札幌市内でも、市街地の中心でも倒木が発生しました。写真上は今回の用務先でもあった、北海道大学の北部、北18条の札幌農学校第2農場近くの倒木です。直径1m近いかなりの巨木が倒れました。北大内では、2004年の台風で「ポプラ並木」が多く倒れるなど、以前の台風でも倒木の被害が多く発生しており、今回もかなりのところで倒木による立ち入り禁止が設定されていました。
 写真中央は、札幌駅でのJR北海道内運休の表示で、倒木の他、「倉庫が吹き飛んだ」という例も発生しています。関西では駐車場の車が吹き飛ばされた例が発生していますが、結局強風から復旧しないまま、地震による運休へと続きました。
 写真下は、9月7日の江別駅北側の防風林なのですが、野幌から江別にかけての防風林にもかなりの被害が発生しています。写真でも倒木が見られますが、鉄道に面するところで数本まとめて倒れる例を多く見かけました。いずれも線路の北側の防風林が外側へ向けて倒れており、台風が西側を進んだことに依る、南東から西の強風で倒されたことがわかりました。今回訪問した、他のところの倒木も全てに北西から西へ向けて倒れていました。
 

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