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お礼ほか

 投稿者:34036  投稿日:2018年 9月29日(土)15時10分3秒
返信・引用
  みなさん こんにちは

73おやぢさん

◆モハ40、モハ41改モハ51の向きに関する表現の件
ご提示およびコメントをいただきありがとうございました。

◆60110
戦時状況下、メーカーでの落成と実際の電装就役の状況をみると
偶数車が1両だけいるとしても、それがなぜ60110なのかの説明として
今となっては証明のしようもないでしょうが、
「日車製の60109-60111は、もともとは東鉄向けで計画されていたのではないか?
(従って60109、111は奇数向き、60110は偶数向き)
ところが、急遽大阪地区向けに計画が変更になった。」のように考えたくなります。


◆11110
ご教示ありがとうございました。
写真の車の車号判定のコメントもありがとうございます。
11108の写真と同じ形になっているわけですね。
ご説明で、11110の写真から山側が電気側で更新に際して床下機器の左右が入れ替えられていることが納得できました。
床下機器の配置というのは逐一レイアウトが決まっていて当然のように思われますが
抵抗器なども手前の方に出ているものもあれば、後ろの方に配置されて手前に機器が置かれていたり、
段違いに配置されているのでは、と思えるものがあったりで、実際には個体により結構バリエーションがみられますね。


ところで
今回ご指摘のあった断路器ですが、これはパンタグラフからの電線管の降り方とも関係するわけですね。
電線管の降り方に関しては、いろいろなバリエーションがあり、
かつて自分なりにその法則性の「解明」に取り組んでみたことがあったのですが、
その際には、結局よくわからず、「まあ、いろいろあるんだな」で、投げてしまった経験もあります。


戦前の関東車では、写真を見比べてみますと奇偶に拘らず、
正面に向かって右側(運転台のある方)が電気側、左側(車掌台の方)が空気側であり、
M.S.は左側=空気側の台車の横に、B.S.は右側=電気側の台車の横にそれぞれ配置し、
パンタグラフが前にある場合、パンタグラフからの電線管は左右に分かれて降り、
右側の電線管は一つ箱を経由してM.S.の箱に、左側の電線管は直接B.S.の箱に接続されていると思います。

母線(B=ブスライン)は編成すべてに引き通されるラインで海側で「ワタリ」ますが、
B.S.の箱の位置は奇遇に関係なく上の通りで、例外はないと思います。

関西の42系以降、偶数向きの電動車は奇数車と反対に、正面に向かって右側(海側)=空気側、
左側(山側)=電気側になりますが、M.S.は空気側の台車の横に配置されるため、その意味では
奇数車と反対側に配置されていると思います。B.S.も同様だと思います。
パンタグラフが後位にあるものは確証できていませんが、
B.S.=電気側、M.S.=空気側となるように降りているのでしょう。


戦前は、以上で例外はないと思いますが、問題は戦後です。
昭和26年度の新製車からでしょうか、パンタグラフからの電線管が、2本とも向かって左側で降りるようになります。
例えばモハ70。
ただ、M.S.が電気側へ、B.S.が空気側へと位置関係が左右逆転したように思います。
母線が空気側で引き通されることと、電気機器側に主回路のM.S.が来るのは合理的な気はします。
63の更新72も初期車はこのスタイルになっていると思います。

その後、新製車は28年度車からパンタグラフからの電線管は1本にまとめられて電気側に降りるようになり、
断路器もB.S.、M.S.とも一つの箱に収め、電気側に配置するようになったと思っています。
更新車についても28年度下期以降はこのスタイルで実施するようになったのではと思います。

下記文献(以前73おやぢさんがどこかで存在を喚起していたと思います)にある内容はこの時点での方針が示されているのだと思っていますが、①-(1)の説明などよく理解できないでいます。
B.S.、M.S.とも一つの箱に統合してのちの話なんでしょうか?

RP アーカイブ セレクション 37 63・73形電車の時代 1950~70

① pp105~108
「昭和27年度モハ63形更新改造工事」 <原典 電気車の科学 No.61(53-05)>
(表題は「昭和27年度」だが、「28年度」の誤り)

「4.艤装関係 (2)配管および配線」 の項

(1) パンタグラフより断路器に至る2インチ電線管は断路器と反対側の妻に配管し、
  側ハリ下を通って台車を過ぎて床下で横断し断路器に配線してあったが、
  これを断路器側として床下を横断しないように変更した。
(2) パンタグラフ上下用空気管は2インチ電線管と反対側とする。
  したがって空気管は妻床下で横断することになる。
(3) ビニールシース電線220?および100?は
  合成ゴムシース電線(仕様書SE126)によることにした。


② pp109~118
「昭和29年度における国鉄電車の改修計画〔電車関係〕」 <原典 電気車の科学 No.73(54-05)>

「2.車両保守特別修繕(経常費)表-2」 の項

(3) 電動車母線改良工事(継続) 実施81両(ほかに外注分70両)
  これは主回路および母線回路の地気焼損事故の多いのに鑑み、その絶縁度を強化せんとするものである。
  更新修繕の場合併施して施行する。その使用電線は100?のゴム絶縁ビニールシース電線で、
  特にパンタグラフから断路器までの立上部は主回路および母線回路を1本として220?の同電線を使用
  (屋上から妻窓上までは硬質ビニール管を使用する)ものである。
(4) 付随車母線改良工事(継続) 実施143両(ほかに外注分75両)
  制御車・付随車の更新修繕車につき前項と同様、その母線回路を100?ビニールシース電線に引き替え
  電線管工事を行うものである。


①は「63形の更新改造工事」としていますが、28年度下期以降開始された一般型にも当然当てはまると考えますし、
②の内容も「継続」工事であって、すでに28年度下期以降対象になっていたのだと考えます。

また、上記文献に示されている方針は、大井工場の外注更新車については守られているように思いますが
吹田や地方工場のは、なんだかちぐはぐなんですね。
先の盛岡工更新の11106など、電線管、空気管とも向かって右側でパンタから降りています。
電気機器の左右入れ替えをやらなかったので向かって右側=海側が電気機器のため電気管を右側で、は
理解できるにしても、空気管の方は指示違反ですね。
指示違反ではあるが、パンタを上げ下げするための空気管なので
運転台にきている空気管に接続するならこの方が合理的?なのでしょうか。

 
 

常総筑波鉄道オハ801~803について

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月29日(土)11時50分45秒
返信・引用 編集済
  すぎたまさん、皆さんおはようございます

 常総筑波鉄道オハ801~803の写真は、最近の出版では、「鉄道青春時代 - 国電(3)」P86に掲載がありました。こちらのオハ801の写真は運転台が右側を向いていて、すぎたまさん紹介の写真とは反対側でした。整備前の写真もあって、張り上げ屋根車だったことが確認できます。じつは、整備後の写真では、車体の屋根の表面の質感がかなり異なっていたので「屋根布を張った」と思っていました。確かに、更新前の写真と比べてみると、張り上げの雨樋、厳密には雨樋が張り付いていた痕跡と同じものであることがわかりました。興味深いことに、すぎたまさんの写真では、乗務員上の張り上げ屋根の雨樋跡が少し食い違っていることがわかり、RPアーカイブス29「私鉄車両めぐり 関東(1)」P24のオハ801の写真でも確認できるのですが、「鉄道青春時代」の反対側面写真の写真でも、点対象の位置になる、元の後位のほぼ同じ位置の雨樋が同じように下に食い違っています。
 中央扉の跡ですが、更新前はおそらくベニヤ板で塞いでおり、写真によっては木の質感がわかるものがあります。この時は戸袋窓は戸袋窓そのもので、下の窓にガラス不足の縦桟が入っています。これが、更新後は扉跡が一応鉄板できれいに整形され、元戸袋窓のガラスも普通のものになったのですが、下の段の窓が他の窓の窓と同様の位置に奥まってはいないように見えるので、一応上下窓のパーツは別のようで、内側の窓も撤去しているようですが、開閉はしないように思われます。

 オハ803は、「鉄道青春時代」に復旧後原型の写真(オハ801と編成を組んでいるもの)があり、この時はドアよりも外側の窓と、中扉を埋めた後の窓は、ベニヤで塞いでいるだけでした。写真は1954年7月16日の撮影なのですが、既に台枠下垂が起こっています。また、最末期の写真が保育社の「私鉄の車両8 関東鉄道」P92に掲載(鉾田線転属後の1968年1月撮影)されているのですが、初めてみた時に強い「垂れ下がり」感を感じたものです。

 台車ですが、TR11だと思って気にしていませんでした。「鉄道青春時代」にはオハ802の写真もあるのですが、こちらも軸箱蓋の形態が異なっていました。オハ801~803の台車が、常総筑波入線時に既にTR11よりも前の台車だったとすると、元の台車は、オハ801~803の抽出元と考えられる、戦災車が留置されていた常磐線の確か赤塚駅から、西武鉄道が自社用に車両を抽出した時に一緒に台車も持って行ったことが考えられます。TR10台車の由来は、入線が1948年末から1949年と、オハ61系の鋼体化改造が始まる前なので、鋼体化で部材になった鉄道省中型客車とは考えにくく、昭和15年ごろに鉄道省より入線した雑型客車と一緒に台車も何両分か入った?(水海道車庫で工事されたオハ803の場合)ものが由来でしょうか。

 先のTR11台車の刻印の続きですが、オハ61系の台車は元ナハ22000系なので、私の方で観察した台車と比べて数年前のものと考えられ、この間に刻印が変わった可能性も考えられます。以前、訪問を報告した宇津井峠鉄道文化むらは、オハ31系とオハ61系が両方ともいるので、次の訪問時に台車を見比べてみたいと思います。
 また、古い台車となると、鉄道博物館のナデ6141は明治末から大正初頭のものなので、もしかしたら、八幡製鉄所での製鉄が軌道に乗る前の、輸入した鋼材を使っているかもしれません。
 

常総筑波鉄道の戦災省電

 投稿者:すぎたま  投稿日:2018年 9月28日(金)04時26分49秒
返信・引用
  原口さん、みなさんおはようございます。

常総筑波鉄道の801号と803号の、比較的鮮明な写真を入手したので、貼ります。
古書店筋からの入手なので、著作権的な問題は無いと思われます(正確には撮影者の氏名を表示するべきですが、わからないので、「撮影者不明」とします)。

上がオハ801号です。
本車は中バリのトラス棒が残存しており、昭和15年より前に鋼体化されたモハ50が種車と思われます。また張り上げ屋根車であったようで、屋根が鋼板であり、元の雨どい位置に筋が入っていて、うっすらわかります。屋根に運転室脇から昇るための手すり状のものがありますが、側面は上2つのみになっています(限界の関係?)。屋根上のものは残存していますが、見事に元のモハ50のままですね。
中央のドアは埋められていますが、埋め方がいかにも「そのまま埋め」な感じです。しかし、戸袋窓だった窓も、開けられるようにはなっているように見えます。
床下のトラス棒ですが、間隔が狭く、高さも高めのようなので、やはりクハ65では無く、モハ50の車体なのでしょう。台枠形式はUF31形と思われます。
台車はDT10やTR11ではなさそうで、軸箱フタの形が古く、外側のブレーキシューが無いので、「片締めブレーキ」になっています。よってこれはTR10と分類するしか無いようにも思えます。いやに角張ったイコライザが目立ちますね(特に軸箱の上部分)。
乗務員室ドアは残っていますが、閉鎖されているようにも思えます。正面はわかりづらいですが、下部の「垂れ」がやや角張っているようです。モハ31系などよりもきっちり角張った垂れ下がりとでもいいましょうか。
中央ドアがあったところの左側、種別灯を埋めたようなあとが見えます。種別灯を使うような線区の車輌だったのでしょうか。

オハ801号の左側にちらりと写っているのが、リベット配置から見ておそらくオハフ802号と思われます。この車はやはりサハ36の復旧で間違いなさそうですね。

オハフ803号の画像は下ですが、本車はトラス棒が無く、台枠がゆがんでいます。
中央ドアは埋められていますが、ちゃんと窓が2つ設けられており、しかしその幅が若干狭いという特徴があります。手前側が元の運転室であったらしく、正面上部は継ぎ足したような感じで切妻になっており、乗務員室ドアの窓幅に近い寸法で窓が作られています。
2つのドアは窓1つ分ずつ両端に寄せられていますが、特に奥側の窓配置が乱れており、戸袋窓がやや幅広、車端よりの窓が手前側と寸法が異なるといった特徴があるので、中央部の窓2枚や、手前側の窓などと含めて、極めていろいろな窓寸法になってしまっています。
車体は画像左側に傾斜しており、台枠が中央部付近で垂下しているので、状態は良くなかったものと思えます。
台車はやはりTR10形に分類されるものに見えますが、オハ801のものに比べて、イコライザーが見た目カーブが緩やかで、ブレーキも両締めです。何かの流用なのでしょうが、来歴がよくわかりませんね。

以上のことから、どうも戦災省電の「車体のみ」を譲受し、心皿荷重が適当な台車と組み合わせたと思えますが、復旧時から同じ台車なのかなどは、私のほうではちょっとわかりません。
結局、オハ801→モハ50鋼板屋根張り上げ屋根車、オハフ802→サハ36形、オハフ803→クハ65の木製屋根車の復旧と思われます。オハフ803のトラス棒撤去が、鋼体化時なのか、戦災復旧時なのかは資料が無く不明です。しかし、様子から見て、どの車も戦災復旧客車の定義的なものからすれば、「B級車」(車体はかなり破損しているものの、原姿復旧が可能だったもの)に当たると思われます。例えば東急3600形になった元省電で、日国工業で車体を新製したものは、台枠のみ利用なので、「C級車」ということになります。ちなみに「A級車」は、「破損の程度が少なく、元の形式にほぼ完全な姿で復旧出来た車」(例:オハ35 694←82)です。

http://princesscomet.net/

 

武蔵野線の205系

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月26日(水)23時20分21秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんばんは

武蔵野線の205系の「スカート」と、「踏切なし」との関係
 前納さんとすぎたまさんの、「103系1000番台が前面強化されなかった」話を見て、武蔵野線の205系に似た話があったことを思い出しました。
 205系はJRになってから前面に「スカート」が取り付けられましたが、武蔵野線に新製投入された、0番台ではラストの5編成だけは例外で、スカートが付けられないまま現在に至っています。この理由として、「武蔵野線には踏切が全く存在しないため」との解説をどこかの205系特集で読んだことがあります。
 写真は、今年の5月23,24日に南浦和駅で撮影した205系で、上から中央・総武緩行線から転属した、ドア窓が「大窓」の編成(M2編成、5月23日)、山手線から転属した、中巻のサハも含めてドア窓が「小窓」の編成(M30編成、5月24日)、武蔵野線プロパーの編成(M65編成、5月23日)です。
 山手線の205系は、スカートが付けられたのですが、「山手線の踏切」は鉄道に関するクイズでよく出てくるもので、現在でも、田端―駒込間の山手線が下をくぐるところの近くにあり、以前は、池袋―目白間の西武池袋線が上を超すあたりの近くにもありました。
 

クハ115-130の細い窓の中桟について

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月26日(水)00時46分15秒
返信・引用
  写真掲載の関係で、別立てにします

クハ115-130の細い窓の中桟について
 クハ115-130も、撮影していたので写真を紹介したいと思います。
 確か115系掲示板の方で、「特別保全工事も更新工事も受けていない車」として、クハ115-130が話題になり、この時に「原型の115系0番台の特徴」として、「窓の中桟が細い」ことが紹介されており、クハ115-130を狙ったものです。写真は、2001年10月20日の帰りの通勤時に赤羽駅で上り列車の先頭に立っていたのを目撃して撮影したもので、車号は入っていませんが「Y430」の編成札がぶら下がっていることから、クハ115-130と確認できます。

 他、115系0番台およびクハ111の丸窓車に共通する特徴として、助士席側の運転台を折り畳んで客室として開放できることが挙げられます。この「客室として開放された助士席」の写真を撮影したいたので併せて紹介します。写真は2001年8月29日に当時の池袋行列車に乗った時のもので、クハ115-140(Y72編成)です。

 写真下は、当時入ったばかりのE231系の行き先表示なのですが、おかしなところがあります。総武緩行線の千葉行きの表示が出ているのですが、帯の色が緑色です。これは、2001年9月24日夜に「籠原駅」で撮影したもので、写真の車はE231系の近郊車です。確か、現在の湘南新宿ライン北行き最終列車の前身にあたる、新宿23:00発の列車で帰宅し、籠原駅で下車したところで、先行する上野発の籠原行電車が籠原駅の4番線に止っていたところを撮影したものです。これを見て、LED表示になって、行き先をコンピューター管理できるようになったので、首都圏の全行き先表示がコンピューター内にインプットされていて、そこから必要線区のものが抽出できるようになっているため、やろうと思えば別線区の行き先表示を出すことができる、と思ったのですが、実際はどうなのでしょうか。
 

165系新潟車の前面強化について

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月26日(水)00時31分2秒
返信・引用
  前納さん、すぎたまさん、73おやぢさん、34036さん、皆さんこんばんは

クハ401-83, 84および新潟の165系の、原型大型前照灯を残した前面強化について
 クハ401-83, 84ですが、「土崎工場での前面強化」の情報をかねてから知っていたところで、の「早期廃車予定」の記述を見たので、あれっと思いました。
 実は、「土崎工場での前面強化」の情報も、165系が健在だったころに確か115系掲示板で見たのが初出で、明確に文献に記述されたのは確認できていないところで、「早期廃車予定」をみたものです。

 新潟の165系ですが、前面強化がわかる写真を撮影していたので紹介したいと思います。
 以下の写真は、「ムーンライトえちご」が165系から485系に置き換えられる、2003年4月1日をはさんで、置き換え状況観察のため、前後数日にわたって新宿駅からの下り列車を観察した時のものです。
 写真上は、3月29日の下り列車の6両編成の中間連結部を撮影したもので、左がM2編成のクハ165-166、右がM1編成のクモハ165-76です。新潟の165系M編成は、M1編成が国鉄末期に松本から転入した編成で、新潟では珍しいシールドビーム車、M2~M4編成が新潟プロパーの編成、M5, M6編成が57-11改正で幕張から転入した編成です。左のクハ165-166を見ると、前面窓下の手すりと同じ位置に鉄板を貼り合わせて出っ張ったすじが確認できます。このことから、「原型ライトのままで前面強化を行ったこと」がわかります。また、右のクモハ165-76も、同じ位置に何となく修正跡のようなものが見えることから、こちらも前面強化が伺えます。
 写真中央は同時に撮影した、M1編成の反対側のクハ165-106、下は3月27日に撮影した、M5編成のクハ165-195です。クハ165-195も、前面手すり付近の外板のすじが見えることから、前面強化されていることがわかります。これに対して、クハ165-106の方は、外板にあまり変化が見られず、入念に辻褄合わせが行われているようです。
 また、改めて気づいたこととして、クハ165-195は、助士席側ステップ下にジャンパ栓納めが1つあるのに対し、クハ165-106, 166はジャンパ栓納めが存在しないこと、クハ165-105のステップ下の補強がゴツイことに気づきました。
 

60110と11110

 投稿者:73おやぢ  投稿日:2018年 9月24日(月)17時48分42秒
返信・引用
  みなさん、こんにちは。
34036さん

件の配置表で、お尋ねの件は、

51062~51087(除欠番)…奇数車設計

となっています。奇数車設計とあるので、いちおう角型の51形が40系出自であることは意識しているようですが、全て41形との錯誤があったのか、一緒くたでした。
この配置表は各地から情報を吸い上げて本庁がまとめたもののようで、社形も出ていますが、富山と宇部は調査中とあり、現地からの報告が未着のようです。
大鉄と天鉄の配置表は伝統的に運転台の向きを区別して表示していますが、全国規模で向きに言及した資料はこれ以外に見たことはありません。

以下は根拠のない個人的感触ですが、17年度日車製60109~60125のうち3両だけ大鉄に投入しているのは、どうもすっきりしません。最初から大鉄投入が決まっていたのなら、この3両だけジャンパや吊り金具配置が大鉄仕様だったことになり、本当かなあという気がしてきます。また、この3両はすんなりと電装されたのに、東鉄の60112以降はほとんどが未電装というのも妙です。まあこれは、三菱電機の主電動機製造が順調で、吹田には在庫があったのかもしれませんが。

●11110の件
打ち出の小槌は持ってないので、さすがに11110の写真はありませんが、11108の山側はありました。これをもとにRP721の写真と見比べたところ、次の事実がわかりました。

アーカイブス4とともに、ご指摘の写真は11110に間違いありません。機器は山側電気であり、更新時に入れ替えています。

車号の特定は、おっしゃるように当時の配置表から判明します。次に機器ですが、まず注目すべきは前位から2番目の少々大き目の箱です。これはMSとBSを同一の箱に収めたSH427断路器で、電気側のパンタ至近に配置します。と同時に、パンタからSH427へ向かう太目の配管(中身は1500V回路)が確認できます。その後ろ、ヒューズ2個の先に見える縦長の物体はCS5の右側(断流器部分)と思われ、下部の傾斜が確認できると思います。その後方は物体か写真のゴミか判然としませんが、後位台車の横にある箱は制御回路開放器と思われ、これも主制御器と同じ側に取り付けるものです。

大井施工の前面はご指摘のとおり、櫛板部のリベット完備、配管は左右振り分けで、整った顔つきです。また11113ではないかといわれた写真は、そのとおりです。運行窓無しと栓納めの小箱が特徴です。
大井が早期に少数のみ施工するのは先行試作の意味合いがあると思われ、改造途中で地方工場の関係者を招集して講習会を開いたり、施工要領や図面を製作して配ったと考えられます。72・73形の鋼体強化(いわゆる近代化)や荷電改造などは、そのようなパターンで進行しているようです。

 

ちょっとした話です

 投稿者:すぎたま  投稿日:2018年 9月24日(月)15時02分2秒
返信・引用
  みなさんこんにちは。

>原口さん
TR11の「ヤワタ YAWATA」という銘ですが、日中線(会津若松区)のオハフ61 2619でも確認しました。ただ、SEITETSUSHOという銘は無かったように思います。鋼材の都合で切れてしまったのか、元から無いものを使ったのかは不明です。便所の反対側台車だったのが幸いでした(笑)。
常総筑波鉄道のオハフ(オハ)801と803の横がよくわかる写真を入手しました。また後ほど貼りますね。オハ801はやはりモハ50張り上げ屋根車復旧に思えますね。

>前納さん
103系1000番台が、前面強化されなかったのは、武蔵野線への転用計画が検討されたため(武蔵野線には踏切が無い)ではないでしょうか。クハ105形に改造された車輌には、前面強化工事が行われていますし。
103系1200番台も見た目されていないように見えます。乗り入れ運用からすると、踏切が少ないから??
謎ですね。

http://princesscomet.net/

 

11110

 投稿者:34036  投稿日:2018年 9月23日(日)22時08分56秒
返信・引用
  皆さんこんばんは

大井工場が施行したモハ30の丸屋根更新車のうち運転台を残したものには、モハ30300⇒モハ11100の外に、昭和28年度に施行された11108、11110、11113の3両がありました。

1953-1954(昭和28-29)年度改造車を奇数車と偶数車で分けて表示すると

奇数車                 偶数車
1953(昭和28)年度
11103 ← 11013 53.12.16 幡生     11106 ← 11032 54. 5.31 盛岡
11105 ← 11021 53.11.30 幡生     11108 ← 11040 53.11. 9 大井
11107 ← 11041 54. 3. 8 幡生     11110 ← 11006 54. 3.12 大井
11109 ← 11043 54. 3.27 幡生
11111 ← 11045 53. 7. 9 幡生
11113 ← 11011 54. 5. 9 大井

1954(昭和29)年度
11115 ← 11015 54.12.10 盛岡     11112 ← 11026 54. 8.24 豊川
11117 ← 11035 55. 2.25 長野     11114 ← 11004 54. 9.21 豊川
11119 ← 11023 55. 3.31 幡生     11116 ← 11022 54.11. 2 豊川
                    11118 ← 11042 55. 2.25 盛岡
                    11120 ← 11016 54.11. 6 長野


奇数車のうち11103-11111の5両は何れも幡生工場の改造車ですが、改番対照は改造日に拘らず旧番号昇順で揃っており、予め計画番号が与えられていたことが伺われます。

11106と11113の2両は、改造が遅れて落成が1954(昭和29)年度にずれ込んではいますが、1953(昭和28)年度の計画車であったとみなしてよいのでしょう。(11108と11110は1953(昭和28)年度内に改造落成している)

28年度計画として、宇部・小野田線用の5両(幡生工場分)と仙石線用1両(11106 盛岡工場分)の計画があったが、これに 東鉄分(大井工場分)として奇数車1両(11113)と偶数車2両(11108、11110)が追加になったと考えられます。

28年度下期以降60形を皮切りに戦前型の更新工事が開始されました。
大井工場では28年度下期まで63形の更新工事が残留したものの、自工場分は試作的なもの以外は外注(日車、汽車、東急、豊川)を基本スタンスとし、通常の更新工事は行わない中で、11形の更新をそれも3両(11108、11110、11113)のみ、大井工場が行うというのは、一体どういう事情によるものであったのでしょう?

実はこの中で以前から気になっているのが11110で、床下が明瞭に確認できる写真を見たいと思っているのですが、残念ながら実見に至っておりません。

11110は晩年は中原区所属で南武線で使用されていました。
「我が心の飯田線・旧形国電画像編」に「クモハ11110(東ナハ)1964.4.12 中原電車区」として掲載されている写真がありますが、ほぼ正面からに近い角度での撮影であり、車号は確認できません。
1964.3.31現在の中原区の配置表によれば、11形100代は何れも偶数車で11110、11112、11126、11128の4両が配置されています。しかし写真の車は「運行窓」を持っています。一方で11110は、運行窓は持たないはずの車なのです。こうした理由から、写真の車は少なくとも11110ではないでしょう。

実は車号は確認できないのですが、いろいろな条件を照らし合わせて、これまで趣味誌上で公開された写真の中で11110であろうと思われる写真として、次の2点をあげることができます。

◆RP 721(02-09)【特集】戦前製旧形国電17m鋼製車 p.39
撮影場所:1964.3.15 南武線 南多摩-府中本町 多摩川の鉄橋のたもと 南多摩寄り 偶数向き 運行窓なし

◆RP アーカイブ 4 東京圏国電輸送 1960~70 p.53 右下カット写真
撮影場所:1964.7.19 南武線 中原区そばを走行中 背景から偶数向き ジャンパ栓の在りようからも偶数車 運行窓なし

上記写真は2枚とも①③サイドが見えていますが、角度がきつく、床下を判断しきれないのですが、中央付近に電動圧縮機らしきものがみえていると判断してよさそうなのです。

であるとするならば、偶数車にもかかわらず、①③サイドが空気側ということになります。すると困った問題が起こります。大井工場の更新車であれば、更新時期からして床下機器の左右が入れ替えられていてしかるべきです。

実際僚車である11108は、床下機器の左右が入れ替えられていることが確認できます(下記写真)。

◆RP 520(89-12)【特集】大阪環状線 p.83
撮影場所:1961.8.28 陸前原ノ町駅

ただしキャプションにそうあるが、車号は読み取れない。
②④サイド側が見えていて空制機器(つまり偶数車であるので更新に際して床下機器の左右を入れ替えている。)。運行窓なし。
<11108は更新後暫く山手線で使用されていたが、仙石線に貸し出しとなり、のち正式に仙台区に転属した。>

上記写真の車は、床下機器の左右の入れ替えを行っていること、前面幕板部分の処理、リベットの在り方等からも盛岡工場更新とは思われず、写真の車は11108に間違いないと思われる。

なお、盛岡工場の更新施行車は偶数向きでも更新に際して床下機器の左右を入れ替えていない。
実際同時期更新の11106の写真が下記で確認できる。

◆RP 721(02-09)【特集】戦前製旧形国電17m鋼製車 p.25
撮影場所:1959.3.23 陸前原ノ町区
車号確認可、②④サイドが見えていて電気側

11110の床下機器の左右入れ替えが行われていないとの仮定のもとですが、
(その可能性が高いと考えている。それゆえ確実に床下が確認できる写真をみたい。)
これはどのように考えたらよいのでしょう?

①28年度施行の筈が、非常に遅れてしまったために、床下入れ替えを取りやめた。
もう一つは、ちょっと考えにくいかもしれませんが、大井工場が他工場(たとえば盛岡)へ施行を外注した可能性、を考えるのですが、どうでしょうか。

そういう目でみると、施行の所作、たとえば前面幕板部分の施行の仕方(鋼板のつなぎ方やリベットの在りよう)などに合点がいくところと、そうでないところ、パンタグラフからの電線管の降り方などがあり(11106と11110では異なる)、考えあぐねています。

もし上記のような可能性があるのなら、もう一両奇数車である11113(⇒22100)もそうした可能性が出てくるわけですが、こちらは奇数車であるため、床下機器の入れ替えは判断材料になりません。
11113も、22100改造前がみてみたいのですが、まともに判断可能な写真を見ることができていません。

なお、11113と思われる写真としては下記があります。

◆鉄道青春時代 -国電(Ⅱ)p.63
南武線 武蔵溝口-津田山間
ただしキャプションにそうあるだけで車号は確認できない。

あと、下記の写真も11113ではないかと考えていますが、車号は確認できません。

◆RPアーカイブ 17「国電復興時代 1950」p.111 「買収国電を探る 南武線」
 

明治44年改番と昭和3年改番についての情報追加、製鉄所のタンク車など

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月22日(土)21時05分36秒
返信・引用
  皆さんこんばんは

明治44年改番と昭和3年改番の情報追加
 少し前に車両の「記号」が話題になりましたが、旧型国電の「モハ30」等の形式の由来となった昭和3年の改番、および電車の創始期の「ホデ」等の記号の由来となった明治44年改番の「原典」となった「鉄道公報」を掲載しているところが見つかりました。
 貨車の研究で、吉岡心平氏とともに知られる、福田孝行氏のHPの「貨車の玉手箱 福田孝之のホームページ」中の「貨車の資料・おまけ」に「鉄道公報から」の項目があり、主に貨車に関する「達」が元のプリントの画像のPDFファイルの形で掲載されているのですが、この中に明治44年改番を規定した「達20」および昭和3年改番を規定した「達380」が収録されています。これを見ると、先に話題にした電車、貨車だけでなく、機関車についても記号が規定されています。昭和3年改番では、機関車でも蒸気機関車の「C」「D」、電気機関車の「ED」「EF」等の記号が設定されており、電車に関する項目も、「旧型国電車両台帳」P424に掲載されている記述が確認できます。明治44年改番の記述も同様に「旧型国電車両台帳」P422」の記述を確認できます。

 また、明治44年改番で、国鉄に合同した旧私鉄の出身者の間で対立が起きたことを紹介しましたが、その原典となる記述も発見しました。
 RM01-12号(通巻219号)の「私有貨車セミナー」は連載第100回で、これを記念して貨車の「改番」を特集し、各々の改番での会社の新旧番号が記載されています。この中に、明治44年改番時の思い出話が掲載されています。引用すると


 運転でも工作でも、どなたもご存じないと思うのが、車両の番号整理のことです。明治39年国有鉄道方が出来、40年から買収された鉄道会社の事業が、段々一緒になって来て、その時私が客貨車の仕事をやっていたが、当時、客貨車の番号の整理が、最初に起った問題である。番号の整理について、運転部長の岩崎彦松氏(元山陽鉄道の技師長)と工作課長の畑精吉(元鉄道作業局記者課長)との間に意見の相違があった。畑氏は、どうしても各車種ごとに番号をつける。岩崎氏はコンセキューチブ・ナムバーで、全部通し番号にするというのである。その間に立って、一番困ったのは自分と故小畴寿君です。しかもご両人は、直接話ををすることをしないし、運転課長の田中富士夫氏も斡旋をしないので、会議書類を突き返しているだけです。しかもお互いになかなか譲らないのです。一年くらいああでもない、こうでもないといった結果、岩崎氏の意見が通って、現在の通し番号になった経緯があるのです。(後略)
松縄信太談「国鉄の回顧」
日本国有鉄道(1952)より


の記述です。ここで注目されるのが、73おやぢさんが指摘されている「運転」と「工作」の対立が、担当者の「国鉄に合同した私鉄の出身」に関連するように記述されていることです。これに対して、電車では、明治の買収で合同した鉄道で電車を運行していたのは「甲武鉄道」だけなので、他の車両のような「出身鉄道毎の路線対立」は考えにくいのですが、「甲武鉄道」と「鉄道作業局」、さらには電気機関車が有名ですが技術を導入した会社の代理店(イギリス系、ドイツ系、アメリカ系)の間での勢力争いがあったことが考えられます。このため、「部局間の路線対立」として記述されている要素は、かなりのものが国鉄成立前の各私鉄に由来することが考えられます。
 合併した会社内で、元の会社に由来する路線が並立して長く残るのは、私鉄の合併や、他多くの分野で多く見られることで、鉄道関係で見た記述では、「常総筑波鉄道」と「鹿島参宮鉄道」が昭和40年に合併して誕生した「関東鉄道」が、車両番号システムが長らく常総筑波系と鹿島参宮系が並立していたこと(最近ではRPアーカイブス「関東の私鉄」に収録されている、私鉄車両めぐり「常総筑波鉄道」「鹿島参宮鉄道」「関東鉄道」で確認できます)や、労働組合が常総筑波と鹿島参宮に由来する2団体が並立していること(1996年のRP誌増刊「関東地方のローカル私鉄」)が挙げられます。

製鉄所所有のタンク車について
 先日の書き込みで、「タサ700形」の最初の車が八幡製鉄所所有であったことを紹介しましたが、「製鉄所が何故タンク車を持つのか」怪訝に思った方がおられると思います。これについては、「製鉄」という工業が、多数の部門が集まった「巨大コングロマリット」であることが関係しています。
 製鉄の原料は「鉄鉱石」「コークス」「石灰石」で、先の北海道の出張で室蘭を訪れた時に、この3原料をモチーフとしたクッキー「鐵の素クッキー」を購入したのですが、この中の「コークス」は、石炭を蒸し焼きにして作ります。この時に「石炭ガス」が発生し、昔は都市ガスの原料になっていたのですが、他にも「ベンゾール」の原料にもなります。「ベンゾール」は、ベンゼンのことで、貨物輸送の種別としては「ベンゾール」とよばれるのですが、石炭鉱業の主要な製品として広く生産されていました。現在、「Gas to Liquid」を示す「GTL」ということばがありますが、ベンゾール製造もGTLの一種です。コークス製造の副産物としてベンゾールが生産されるので、コークスを生産する製鉄所ではベンゾール輸送の需要が発生することになり、このため、製鉄所を基地としてベンゾール専用のタンク車が運用されることになります。タサ700形は大多数が「ガソリン専用」ですが、タサ700~702は「種別なし」(タンク車の誕生時、輸送するものが石油だけだった時の名残)なのですが、製鉄所所有であることから、ベンゾールを輸送していた可能性大です。製鉄所が「ベンゾール専用タンク車」を所有していた例は、室蘭の輪西製鉄(後の新日鉄室蘭)があり、東室蘭駅常備、「新日本製鉄」所有のタム3250形、タサ1100形ベンゾール専用タンク車がありました。また、東室蘭駅、八幡製鉄所に関連する西八幡駅常備のベンゾール専用タンク車は関連業者のものがけっこうな数存在しており、九州では、三池炭鉱関連で、大牟田駅常備のベンゾール専用タンク車がいました。
 ベンゾール専用タンク車は首都圏でも運用されており、「太くて短いタンク」で有名だった昭和電工所有のタム3251, 3252や、以前に模型製作を紹介した、タキ6450、タキ14400形がいて、新興から郡山、勿来へのべbbぞーる輸送に使われていたのですが、一応製鉄所はあった(新日鉄君津や日本鋼管(現在のJFEスチール)の扇町の製鉄所など)のですが、こちらは石油化学関連の可能性が高いです。京浜工業地帯からのベンゾール輸送が昭和61年に一挙に縮小されたらしく、この年にベンゾー専用タンク車が一挙に廃車されています。
 

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