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お返事

 投稿者:34036  投稿日:2018年 8月29日(水)20時52分46秒
返信・引用
  皆さん、こんばんは

73おやぢさん コメント並びに追記ありがとうございます。

54002の件、
実は原形あるいは更新前の電気側を、確実に判定できる写真にはお目にかかれておりません。
判断の根拠は、下記の外は更新後の写真でしかありません。

ご呈示の「旧型国電車両台帳」、
実は今世紀の変わり目前後の10数年間、全くテツから遠ざかっていた時期がありまして、
旧国ファンのバイブルと云われながらも、入手をしそびれております。

私が参考にした写真は、JTBキャンブックス「旧型国電50年Ⅰ」p.134に掲載されている54002です。
山側からとらえた未更新の姿ですが、同じく床下が日陰となりつぶれていて、確実な判定はできません。
(もしかしたらご呈示いただいたのと同じ写真かもしれません。)

43系4扉化車や関西型モハ51など、吹田工場で更新工事を受けた車両が、
原則的に、もとの床下機器配置を保持している、という「一般側」に照らして、
本車にもこれが適用できそう、との判断でしかありません。
(ただし、実際にはほとんどの参照写真が更新後のものではあるのですが)

ただ、本「一般側」に例外は見当たらなさそう、を前提に、
上記写真からは、運転台寄りには抵抗器群はなさそう、との判断を下しておりました。

なお、参考にはなりませんが、下記文献に山側からとらえた54002(未電装)が掲載されています。
場所は吹田工場で、メーカーから回送されてきたときのもののようです。

RJ No.126 (77-08) <特集●旧型国電は生きている> p.28


54006、54008の更新前の山側写真も見つけておりません。
実は、さらには関西向けモハ60偶数車(後の54104~112 ev など)についても、
更新前の山側が判定できる確実な写真はみておりません。

ただ、これら車両の更新後については、発表されている写真から、
何れも抵抗器群は凡て連結面寄りに設置されていると思います。

一方で、43系4扉化車や関西型モハ51で、抵抗器群が移設されている例は、
あるのかもしれませんが見つけていません。
54002が抵抗器を移設した可能性は否定できませんが、
その後に続く偶数車全車が奇数車と鏡対称であったものが、更新時に抵抗器群を後方に移設した、
というのも考えにくいのではないかと考えております。



レールファンNo.139-140の記事紹介、ありがとうございました。

2016年5月15日のこの場へのご投稿「城東線・片町線の向きについて」で

「昭和39年ごろに発行された鉄道友の会機関誌「RAILFAN」に国電の方向に関する連載記事があり」、として
モハ40の戦後の方転について、この文献を引いて紹介されていたのは知っておりましたが、
空気圧縮機と空気溜の位置関係のことにも言及があったのですね。

モハ40だけでなく、モハ42そしてモハ30も同様の状況なのですが、
前者は両運転台車、後者はモハ40の中間電動車化ということで
夫々関連性があるのですが、両方が合理的に説明できる理屈が思い浮かびません。
 
 

追記です

 投稿者:73おやぢ  投稿日:2018年 8月27日(月)20時36分3秒
返信・引用
  みなさん、こんばんは。
34036さん。

先日のご投稿(覚え書き)を拝見していたところ、1点確認したいことが生じましたので、お知らせしたいと存じます。

私も関西式の電気機器配置が奇数と偶数で鏡対称であるのは承知していましたが、51系の全てがそうだと思い込んでおり、54形は考えたことがありませんでした。

そこで確かめるべく、「旧型国電車両台帳」の100ページにある更新前の54002を見たら、車体中央にある主制御器の右(前位)側、シャドウでつぶれていますが、なにやら”小さな箱が並んでいる感”があり、主抵抗器のようなのですが。なるほど飯田線時代の主抵抗器は後位にありますが、遮断器導入に関連して主抵抗器が移動しているということはないでしょうか。

54002は写真が日陰であり、54004はもともと奇数向けなので参考にならず、54006と54008の更新前の写真は発見できず…というわけで、もどかしいのですが、まずはお知らせまで。

 

現在の電車の台枠と床下機器の艤装:東京総合車両所夏休みフェア2018より

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 8月26日(日)21時28分24秒
返信・引用 編集済
  すぎたまさん、73おやぢさん、皆さんこんばんは

まずは、車両の電気機器等床下機器の艤装に関する情報をありがとうございます。まだまだ鉄道車両に関して知らないことが多いと感じた次第です。

25日(土)は、東京総合車両センター(大井工場)の公開イベントがありました。昨年は用務で別のところに出かけており、2年ぶりの訪問になります。
 今年も車体の吊り上げイベントがあり、今年はクハE216-2022が使用されました(写真上)。床下を下から見ることができるので、今回も台車の取り付け部位を中心に観察しました(写真中央)。現在東京総合車両センターに入場する車はE231系以降の車がメイン(209系のうち、房総ローカルの車は大宮入場など)で、209系で確立された構造が継承されている形になっており、最近の大井工場公開イベントでは、209系以降の車が連続して吊り上げイベントに使われており、デジタルカメラを使うようになってからは、2007年のイベントで203系100番台が使われているのが209系より前の車が使われた唯一の機会でした。
 今年のイベントでは、車体を構内移動トレーラーに載せて建屋の外へ引き出すところまでが行われました(写真下)。
 古い車の床下の写真は、大井工場のイベントで、工場の歴史を紹介する写真としてその中で車両の検査の様子を示す写真として紹介されており、以前のイベントで昭和30年頃のモハ80形の吊り上げの写真が紹介されていました。RM Libraryでクモハ73形の吊り上げ写真が紹介されており、工場の公開イベント内での歴史の紹介の写真は、古い車両のメカニカル的にも注目すべきものが多いと思います。
 また、大宮工場は、地理的に近いので、大井工場よりは訪問回数が多いのですが、吊り上げイベントはJR貨物の方の担当で、吊り上げられるのは一貫して機関車(EF64やEF65)です。首都圏の103系の入場は確か2000年頃に大井工場から大宮工場に変わったので、吊り上げイベントで103系の床下を観察する機会は1990年代までの大井工場の公開イベントのレポートの調査が近道かと思いました。

造船と鉄道車両製造との関連について
 鉄道車両製造の初期は川崎重工(川崎造船)での蒸気機関車製造の開始等、造船会社の技術協力が大きな位置を占めていました。他、藤永田造船所などが造船所名の車両メーカーとして知られています。造船の技術の動向が鉄道へ大きな影響を与えた例としては、先に示したTR11台車と球山形鋼で、TR11へ使用する球山形鋼が製造中止になった経緯は、製鉄、造船の資料を継続して探してはいるのですが、まだ見つかっていません。モハ30形の台車がTR14(DT10)からTR22(DT11)に変わったのは昭和3年度からですが、このころに技術的なエポックがあったという情報は確認できていません。現在は横浜の山下埠頭に係留されている氷川丸が、ちょうどこの時期の建造で、氷川丸内の展示資料の他、これも横浜にある、日本郵船資料館でも資料を見ることができます。
 造船の過程は、コメントの「船体―機関取り付け―進水」の流れは、大型船では造船ドック建造の時の流れで、私の訪問したところでは住友重工横須賀造船所、三菱重工下関造船所で建造を見ました。これとは別に「船台」で建造する時は「船体―進水―機関取り付け」の流れになり、現在では三菱重工長崎造船所が該当します。この表現では、車輌メーカーで工事をするのは「船体建造」までで、走行関係の物品の取り付けは準備段階から国鉄工場が携わる、と上記の「船台」での建造に近い感覚(「進水」までがメーカー持ち)と、私の方では考えていました。その後提示の資料から、車両メーカーではもう少し先まで工事が行われており、部品取り付けのための準備工事までは車両メーカー側の工事とわかりました。
 

機器配置は難問です

 投稿者:73おやぢ  投稿日:2018年 8月26日(日)18時55分32秒
返信・引用
  みなさん、こんばんは。
34036さん

●機器配置にふれた文献
商業誌では全く記憶がありません。唯一思い当たるのは鉄道友の会の会報「RAILFAN」の連載記事「国電入門 方向転換」のうち、№129・130(昭和39年9・10月発行)に記述があります。129では戦前の関東と関西の流儀の違い、43形の電気機器の鏡対称、戦後の関東型の例が示されています。ただし、当然ながら「なぜ、そうなったのか」の記述はありません。130はモハ40の解説となっていて、戦後の更新後の形態についての一文が興味深いです。
引用
クモハ40として生き残った17両は、奇数に向きを変えた結果、床下配置は左右そのままなのですが、おかしなことが発生しています。戦前形のどの電動車を見ても、空気溜は後位(3・4側)なのですが、更新後のクモハ40に限って前側(1位側)に移されているのです。
以上
と指摘しています。やはり理由は示されていませんが。

●吊り金具はだれが取り付けるのか
川崎重工業の兵庫工場90年史に、電装前の写真が何枚か掲載されており、特にモハ32001の海側の写真は鮮明で、後位に空気溜が既設されているほか、車側の中央に電動空気圧縮機の吊り金具(ブラケット)、その後方(車体中心)に制御空気溜の吊り輪が確認できます。これらから、車両会社を出場する時点で電気機器類の吊り金具は配置されていると考えられます。このほか、出典は忘れましたが、クハ76形の全金車、すなわち両渡り車の奇数番号車は、偶数転向時を想定して電動発電機やバッテリーの吊り金具を新製時から用意していたといいますから、この点も車両会社装備を補強できると考えます。
納入先の変更がいつだったのかは知りえませんが、常識的には手戻りをある程度吸収できるタイミングだったのでしょうか。もちろん、最悪はモユニ81形のような可能性も否定できませんが。

●モユニ81形について
戦後はモハ63形の段階で関西式の床下機器配置を取り入れており、モユニ81形をはじめとする湘南電車の一党が関西式なのは自然な流れと思います。
偶数向きであるのは、東海道線各駅の荷扱い設備(テルハなど)が下り方にあるためで、編成の下り方先頭に連結せざるを得ないからです。客車の場合は昭和4年制定の「旅客列車編成心得」により、荷物車や郵便車の連結基準駅は神戸とすべしと規定されています。電車は適用外ですが、地上設備がそうなっている以上、従わざるを得ません。
そこで、下り方先頭を機器が完備した第一運転台にしたわけですね。ちなみに中央線の基準は新宿なのでクモニ83形などの第一運転台は115系側となり、後ろパンタが交流機関車のようで、ペシャンコ屋根とともになんとも迫力に欠けていたのを思い出します。
 

横レス気味ですが

 投稿者:すぎたま  投稿日:2018年 8月26日(日)14時36分55秒
返信・引用 編集済
  34036さん、原口さん、みなさんこんにちは。

>34036さん
空制部品は、今のように陸送や航送が簡単に可能な時代でも無かったのでしょうし、貨物列車への連結回送が一般的で(つまり甲種輸送の形)だったので、最初から取り付けておかないとブレーキがききませんから、これは鋼体完成とともに取り付けられていたはずではないでしょうか。
そこから電装品のぎ装が行われるわけですが、機器配置には、今ほど機器が多かったわけでも無いので、割と自由度は高かったのでは無いかと考えます。
戦災復旧客車などでは、竣工届けも配置もされないうちから、現車が完成するとすぐに運用に入れるなどということが行われていた時代であり(つまり無車籍か)、今からすれば考えられないことでも、当時は普通に行われていたのかもしれません。
つまり、ぎ装の機器位置変更でも、いちいち届け出や図面の変更は行われていたのかもしれませんが、それらは例の形式記号の由来同様、文献に残らないような形になってしまう(混乱もあって)可能性も、今の時代になれば否定出来ないような気がします。
最近の電車では、台枠が決まった形状で、そこに機器吊りを付けていくのではなく、機器に合わせて台枠の方をバランスを考慮しながら組むような時代で、根太に当たるものもあるような無いような形状なので、更新時の機器交換なども容易ではないようです。
それらの事情を考えると、当時は今では考えられない「しきたり」があったのではないか、と考えますがいかがでしょうか。

>原口さん
言いにくいのですが、その戦艦に例えるのやめませんか。私のような「戦争嫌い」からすると、違和感が強くて、よくお書きになっている意味がわかりません。
鉄道車輌も兵器とされた時代もありましたが、基本的に日本では鉄道車輌と兵器である戦艦の間に、強い接点はありません。戦災復旧客車や、戦前の一部の車輌は確かに造船所で作られたり、終戦で仕事を失った軍需企業に復旧工事を依頼したりということはありましたが、戦艦の製作法が、鉄道車輌へ直接的な影響を及ぼしたことって、そんなにあったのでしょうか。
私ら戦艦の基本構造について、全く知識が無い身としては、「船は船体を作って、船外機を付けて、さあ進水」という流れしか思いつきません。もっと複雑な工程があるんじゃないかとは思いますが、鉄道を専門研究分野とする身としては、昔はともかく、戦艦の基本工程まではわかりません。
戦艦は人を殺す道具。鉄道車輌は人の生活を守る道具です。
それらご考慮いただければ。

別件。あとになってすみません。クハ79609の台枠形式について、記述ありがとうございました。やはり本車のみ台枠形式は違っているのですね。そうなると、更新後の外観揃い具合や、床下機器配置の様子から見て、やはり72系全金車の台枠は、キーストン構造では無いような気がしますが…。もしかして「キーストン構造の台枠利用」試験車!?。それならそれで何かすごい気も…。
クハ103-3001、誰か台枠の見える写真撮っていないですかね(笑)。

武蔵野線用にたくさん増備されていたら(モハ721971~とか、751~とか、1001~とか(笑))、920番台からの改造車も、もっと登場したでしょうね。

失礼いたします。

http://princesscomet.net/

 

艤装・船の場合、クモハ73、モハ72000台の床下機器配置のグラフィック

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 8月26日(日)13時29分21秒
返信・引用
  34036さん、皆さんこんにちは

 先の書き込みで、「車体が「単なる箱」として落成」と書いたのは、実は当時の造船の方の工事の進め方が頭にありました。
 朝日ソノラマ文庫・堀元美著「造船士官の回想(上・下)」で、昭和初頭から終戦までの海軍工廠を中心とした造船技術について記述されているのですが、ここで、航空母艦「蒼龍」(昭和12年12月29日竣工)の建造時の記述として

「今日では商船でも軍艦でも、艤装工事は建造と同時にはじまるが、昔はそうではなかった。
 進水までは船殻工事一点張りで、艤装工事は進水前にやってしまわないと困る艦底のバルブ類や、係留装置ぐらいなもので、進水したばかりの艦はまったく鉄でできた箱のようなものだ。甲板の昇降口や、隔壁の戸口でさえも、全く切り開いていないものもあるという有り様である。
 そして艦内の諸室は、鋼鉄の箱のような様子をしている。その室内の諸装置については各部の設計係が、それぞれ自部の担当の物件について、例えば造船部では通風関係と家具類と窓の図面を、造機部は天井を通り抜ける蒸気管の図面を、電気部では電線とモーターの図面を別々に出図してくる。
 各部に位置出し班という腕利きの工員グループがいて、その図面を見て、室の壁の裸の鋼板の上へ室内の諸装置の位置がわかるようにマーキングを施す。位置出しがだいたい終わったところで、各部の担当部員が現場に集まって「現場立会」ということをやって、それぞれの受け持ちの装置が適切に装備されるように、また室全体として使いやすい、住みやすいものにまとまるように、いわば相談ずくで決定していくのである。」

とあります(上巻P185~186)。艤装では「艤装委員長」が置かれるのですが、窓を開ける場所など、船舶の機能に直接影響を与えないところでは、艤装委員長の意向が反映されることも多く、「同型艦でも窓配置が違う」という、後に個々の船の区別をするためにキーワードになるようなことが起こりえます。

これが、船殻工事と並行して艤装も行うようになったのは、開戦後で、商船では「戦時標準船」と呼ばれるカテゴリーの船の建造からです。「造船士官の回想」でも記述があり、「二等輸送艦」と呼ばれる艦を作るときの実物大モックアップを作る時のエピソードとして

「実物大の模型を木材のバラ打ち構造で作る。ちょうど安普請のモルタル壁の下地のバラ打ちみたいなものだが、要所要所にはきちんとしたスミ入れがしてあり、構造材料の鋼材の継手や、電線、諸管の穴あけ位置は正確に出ている。管の形状を定める型取りも、通風トランクの型も、全て模型によって実物大にできるので、各工場は本館がまだ船台上に乗ってもいない頃から、艦内装置の工作をどんどん進めることができる。」

とあり(下巻P145)、部材の段階で艤装のための穴あけ等の工事を行い、加工済みの部材を組み立てていくという、上記の「蒼龍」建造時の艤装の進め方から見るとコペルニクス的展開が起こり、造船に携わる人も意識の変革に迫られた、との記述があります。

 私の方では、メーカーでの工事は、上記の「蒼龍」に例えると、進水までの「船殻工事だけを行った状態」で国鉄工場へ送り出される、と思っていたのですが、34036さん提示の資料によると、実際にはメーカーでは、「船殻工事から、艤装工事の現場立会を行って、機器の取り付けレイアウトを決定し、穴あけ工事をした状態」で送り出される、という感じでしょうか。

 モハ60056ですが、「関西タイプの急行札挿し」と「関東タイプの床下機器配置」が同居するための条件としては、上記の「蒼龍」に例えると、1つの可能性として「鋼体工事時は関西投入の予定だったが、鋼体工事を終えて艤装工事に入るところで関東投入に変更になり、関東レイアウトで艤装をレイアウトした」ことが考えられます。また、車体の送り出しの段階で関西から関東へ変更になったことも考えられ、この場合は、クモユニ81と同じように、「大井工場で全部の金具を付け直した」ことも考えられます。モハ60055~064が関西から関東へ変更された可能性のある車ですが、「関東から関西へ変更された時の工事の進行状況の違い」によって細部に変化が出た可能性が有ります。これも船の話ですが、「友鶴事件(昭和9年3月12日)」「第四艦隊事件(昭和10年9月25日)」といった造船史上の大きなエポックとなる事件を挟んで船体工事の方針が大きく変わっており、これらの事件が起こった間に建造された船では、同型艦でも、工事のどの段階で工法の変化が起きたのかがバラバラで、「同型艦」とひとくくりにされてはいても、船体構造的にはかなり異なる、という例が発生しています(駆逐艦「初春」級など)。

クモハ73、モハ72形の床下機器配置ですが、グラフィックを作ってみました。上がクモハ73、下がモハ72です。モハ72の床下機器の奇数車の抵抗器片寄り車と中央車では番号にはあまり関連が無いようです。
 

お返事

 投稿者:34036  投稿日:2018年 8月26日(日)10時59分26秒
返信・引用
  原口さん

コメントありがとうございました。

おっしゃっていることの意味を取り違えているかもしれませんが、
確かに、戦前は、メーカーが製作した車両を、省工場が電装していましたが、
機器のレイアウト配置までは、工場の裁量で自由に変えられるような類のものではないと思います。

下記の文献が参考になるのではないかと思いますのでご紹介します。


●RJ No.125 (77-07) p.146-150 「車両(くるま)とともに30年 大井工場OBの思い出ばなし―⑦」 田邊幸夫

「’湘南形’郵便荷物電動車 モユニ81形の新製」で下記エピソードが紹介されています。

 「なお本車を語るとき、その製作時に予期しないミスのあったことが思い出される。
それは1号車の鋼体ができあがり砂吹きもおえてサビ止めし、船でいえば進水式が終わり、
これからもろもろの内装、艤装に入ろうというときのことであった。
第二電車職場に移されて台枠に配管の卦書を始めたころ、電車の前と後ろが上回りの車体と、
機器取付金具のついた台枠下面とが、反対向きになっていることが判明した。
さあ大変、関係者一同は青くなった。鋼体組立の鉄工職場では現図場でも検討しており、
助役、指導係、そして検査職場もOKして出したもので、「今ごろになって何事であろう」
――それはまったく信じられないことであった。
さっそく、図面の検討をしたところ、当時、車体の図面と艤装の図面は設計の部門が違い、その手法を異にしていたことが判明した。
すなわち、艤装の機器配置図は、向かって左方が後位になっており、左右の端にそれぞれ東京方と神戸方の断わりはしてあったが、
車掌室のある行位を右方にとった車体の図とでは180°違いの、まったくの逆向きになっていた。
それは前から踏襲されていたはずと思うが、電車の仕事にしばらくご無沙汰していたため、こうした失態を演じたものである。
すなわち第1号車は、この手直しに少なからず手もどりが生じたわけで、
電動車のことでもあり床下にびっしりついたもろもろの吊り金具を、ガス切断をした後に熔接をしてつけ替えるのであるが、...」


ここでは最後の一文の意味するところが重要だと思います。
上記は戦後の話ではありますが、このエピソードからもわかる通り、機器のレイアウトについては、そう簡単に変更の効くものではないのではないでしょうか。
下記文献などからも推定できると思いますが、取付用の吊り金具などの設置まではメーカーがおこなっているのではないでしょうか。
実際省工場納入前の未電装の写真をみても空気ダメなどの空制品は、既設の上納入しており、したがって、電気機器の取り付け位置も自由度はないはずでは?。


●RP No.435 (84-08) <特集>国電80年Ⅰ p.42-43 「太平洋戦争突入―戦時下の国電」 根本茂

汽車会社で落成し関西へ送られる直前のモハ60095(未電装)の写真が掲載されており、キャプションに次のようにあります。

「昭和16年度第2次のモハ60095
汽車会社(東京)で完成した関西配属(幕板部に急行札差 妻の電気連結栓受が12心2個)のため 吹田工場へ発送寸前の姿である
前灯や尾灯には灯火管制の被いがついている
戦前の国電は車両会社で車体、台車を製作 配線配管まで施工するが 電機品のぎ装は鉄道工場で行うことになっており、
現在の如く車両会社ですべて行うようになったのは戦後のモハ63からである」

写真はジャンパ部分が不鮮明で確認が難しいですが、奇数向き車で海側②④サイドからの撮影。後方に空気溜タンク等が設置されているのが確認できます。


●電車のアルバム(交友社) p.56

「中央線用の新形式 モハ51」 (写真所蔵 JNR)

キャプションに次のようにあります。

「この写真は11年度末に日本車両 支店製の モハ51026の電装前の姿である。
(戦前は、新製電車の電装をすべて省の工場で行っていた)。」

「未電装」ですが、空気溜タンク等などの空制機器は装着ずみであることが分かります。


●モユニ81追記
モユニ81は、両運ながら、下り寄りが第1エンドの設定、つまり偶数向。しかしながら、電気機器は山側で、戦前の関東車のしきたりを破る設計でした。
「世紀の湘南電車」の先頭車として、どうしても下り寄りを「前」にしたかったのでしょうか?
電気機器の山側配置については、湘南電車の電動車は総て中間車モハ80で、電気機器、空制機器が夫々必然的に同一側に並ぶことになりましたが、
長大編成では、保守上電気機器、空制機器をそれぞれ編成で一方にそろえると好都合というのが分ったことから、
モユニ81も山側に電気機器が来るようにしたのではないかと考えます。
ただ、下り寄りを第1エンドとしたために、従来とは異なる設定となり、誤解を生む原因になったのではないでしょうか。
なお、荷郵電の第1エンドが下り寄りの設定は、クモユニ74以降にも受け継がれていますね。

 

戦前型車両の電装およびクモハ73、モハ72形の床下機器配置について

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 8月26日(日)00時42分1秒
返信・引用
  34036さん、皆さんこんばんは

 戦前は電車の電装は国鉄工場で行われていました。この場合の「電装」はモーターに代表される走行機器に限らず、電灯や暖房等のサービス電源を含んでいます。「旧型国電車両台帳」P203に「電装は、電動車のみと思われがちだが、制御車、付随車はもちろん、客車、気動車等すべての旅客車で電装のない車両はない」と注が附されています。このため、車両は「単なる箱」の状態で各車両メーカーで落成し、国鉄工場に輸送されて、各々の工場で電装が行われています。従って、戦前では、メーカーでの車体製作中に関西から関東へ投入先が変わったとしても、電装工事は現在の大井工場で行われることには違いが無いので、床下機器には、関西から関東への投入先の変化は反映されないことになります。もし反映されるとしたら、一旦吹田工場へ送られ、電装工事を受けてから関東へ送られる、という普通の関東―関西間の転属と変わらない事態が考えられるのですが、以前も話題になった、昭和7年の城東線、西成線電化用のモハ40系列が、大井工場で電装されて淀川電車区へ送られた例以外は無いと思われます。また、確か戦前は関東―関西間で電車が転属したことは無かった(昭和24年頃の関東のモハ51形と関西のモハ42系列の交換が最初の事例か?)と考えられます。このため、モハ60056の「関西で使用の幕板の急行札挿し」と「関東型の偶数向きの床下機器配置」の同居は、車体製造の途中で投入方針の変更があった有力な証拠と考えられます。

 クモハ61005の特異性については以前に73おやぢさんが考察したことがあります。更新前のモハ61005(モハ40013)の写真が確認でき、その時は他の車と同じ形態(中央扉が後ろへ開く)だったことが確認できたとのことです。モハ61005の更新は豊川分工場で、車体はそのままで、全ての機器を点対象に配置しなおす、という工事が行われたらしいと考察されています。

 電気側の床下機器配置は、かなり昔(この場の発足前か前身の時代)に話題になったことがあります。対象となったのは元モハ63形のクモハ73形で、「抵抗器が偏った位置に取り付けられている車がいる」ことが注目されました。これについては、後に吹田工場で改造された車のうち、クモハ73020までが該当する(床下機器配置が違う旨が記述された資料が確認された)ことが確認されました。同様の例がモハ72形でも確認でき、芝生さんの写真では、モハ72063, 085, 103, 147, 165が左片寄り、モハ72004, 036, 042, 054, 062, 102, 142が右片寄り、モハ72030, 041, 117, 132, 145, 151が中央と確認できます(200番以降は中央で標準化か)。写真を見た印象として「左側」「右側」と書きましたが、偶数向きの車は右側すなわちパンタ側、奇数向きの車は左側、これもパンタ側で、どちら向きの車も前位に偏って抵抗器が付くか、中央に抵抗器が付くか、とも解釈できます。クモハ73形が吹田工場の特徴だったのに対して、モハ72形は全て大井工場なので、クモハ73形とモハ72形の抵抗器の特徴は独立して成立したようです。また、抵抗器と一緒に制御回路遮断器も移動しており、一般的には設置スイッチや電動発電機と一緒にレイアウトされていますが、抵抗器が偏っている車はいずれも抵抗器の台車側に制御回路遮断器が取り付けられています。
 

戦前型旧国の床下機器配置覚え書き

 投稿者:34036  投稿日:2018年 8月25日(土)22時07分49秒
返信・引用
  皆さん、こんばんは

原口さん ご教示ありがとうございます。


さて表題の件です。

戦前型旧国の床下機器配置(電気機器と空制機器のレイアウト)の問題はなかなか複雑です。
(ここでは一応60系までを対象に考えます。)
関東・関西での違い、偶数車・奇数車、戦後の更新に際してのレイアウト変更等、いろいろな要素が絡み合います。
関西では42系以降、関東車と異なって奇数車・偶数車とも海側空制機器で揃えるようにしたのはよく知られていますが、
途中から偶数車の電気機器の配列が、前後入れ替わったことは私の知る限りでは、指摘されているのを見たことがありません。
(もちろん私が知らないだけで、知る人ぞ知る、かもしれません)

かなりディープな話題でもあり、趣味誌では正面から取り上げるような話でもなさそうです。
自分なりに法則性を見出すべく、写真などを見比べているのですがよくわからない面も多々あります。
これまでに分かった範囲でまとめてみました。間違った解釈をしている面も多々あるのではと思っています。
お気づきの点があれば是非ご意見等お寄せいただければと思います。


◆最初に、

RPアーカイブスセレクション 37 「63・73形電車の時代 1950~1970」 p.30~に
「国鉄電車発達史 暗黒時代」のリメーク版が掲載され、p.31にモハ60056の写真が掲載されています。
準戦時型モハ60の写真ですが、オリジナル版の写真と差し替えられています。

で、実はこの写真は、「電車のアルバム(交友社)」p.72にも掲載されていて、キャプションに次のようにあります。

(引用)「(前略)はじめ大鉄配属の予定でつくられたが東鉄に変わったため、
出入口横の幕板部に急行札を入れるワクがついたまま使われていた。」(引用終)

一方で、雑誌「レイル誌 No.22(80-01)p.53-56」に、
「大阪省電補遺 その1 ”方向板(サボ)”」という大那庸之助氏の記事があり、次のように述べられています。

(引用)「(前略)なお、例外として昭和15年製モハ60のうち、川崎車輛製の10輌(60055~60064)は、
当初より東鉄配置予定車にもかかわらず、急行板差込枠がつけられていました。
しかし、7芯束線3本の補助回路受け、中央ドア上につけられた前サボ用のフックで、
大阪の省電ではないことがわかります。」(引用終)


両者の説明は相反するわけですが、この件はどこかで決定的な説明がされているでしょうか?

60055~60064は、実際に関東に配置され、奇数番号車は奇数向き、偶数番号車は偶数向きでつくられました。
写真の60056は偶数番号車ですが、ジャンパの在りようから番号通り偶数向きであることが確認できます。

そしてなによりも注目したいのは床下の機器配置です。

戦前の関東車は、奇数向き車を基準として山側:電気機器、海側:空制機器が標準で、
偶数向き車の床下機器配置は、奇数向き車をそのまま方転した形であり、従って
奇数車とは反対に、山側に空制機器、海側に電気機器が並ぶ、というものでした。
(引き通し線については、「奇数車・偶数車とも基本同一設計で作り、偶数車の車端部分で左右を入れ替える」のだと
考えていたのですが、詳細な設計図を見ると必ずしもそうではないようです)

一方で、42系以降の関西車は、奇数向きも偶数向きも海側に空制機器が来ます。(塩害を避けるためといわれます)
で、写真の60056は、運転台側、つまり海側②④サイドが見えていますが電気機器が並んでいます。
つまり戦前の関東仕様そのものです。

大那氏の記事で、これが関東車であることの理由として、「7芯束線3本の補助回路受け」が挙げられていますが、
仮に関西向けだったとしても、関東で使うとなれば当然これに交換されるはずなので、理由としては弱いのではないでしょうか。
先ずはこの床下機器配置のことが取り上げられてしかるべきではないでしょうか。

ちなみに同年度製の大鉄西成線向けの60029~60042は、こちらも奇数番号車は奇数向き、偶数番号車は偶数向きですが、
大鉄仕様であり、偶数車は海側が空制機器となっています。

「大鉄で使う計画だったのが東鉄に変更」といった計画の変更自体は、ありがちな話だと思います。
ただ、この手の話が実質的に意味を持つのは、計画が変更された時点で、設計、部品調達等の面で
タイムリミットを過ぎている場合のみではないでしょうか。
少なくともこのケースでは、仮に計画変更があったとしても、それは十分関東型設計で落成できる時間的余裕がある時点だった、
ということでしょう。


◆本題

関東の偶数向き電動車は、昭和28年以降、更新工事に際して床下機器の左右を入れ替え、
関西型のように、原則的に、山側:電気機器、海側:空制機器への統一が図られました。
(大井工場の委託先である日車支、汽車支、東急、そして豊川分工場実施分。吹田工場はこの手の工事をおこなわず)
上の60056も更新後は海側が空制機器になっているのが確かめられます。

さて、ここで注目したいのは電器側、空制側ともに、各機器の配列順です。
更新後の偶数車と奇数車を比べてみると、空制機器は鏡対称であるのに対し、
電気機器は偶数車、奇数車とも向かって見たときの配列順が同じになっています。

なんの事か分かり難いかもしれません。言い換えますと、
海側の空制機器に関しては、奇数車、偶数車とも機器の配列順序が前位から後位にむけて同じように並びます。

例えば、代表的な機器としてCPと空気溜の相対位置についてみると、
奇数車・偶数車ともCPが前位(運転台)側、空気溜が後位(連結面)側となっています。

ところが、山側の電気機器に関しては、向かって見たとき、たとえば左から右に向けての配列が同じになるように並びます。

例えば目立つ機器として抵抗器群に着目すると、
奇数車(向かって左側が運転台寄り、右側が連結面寄りとなる)では、運転台寄りに来るのに対し、
偶数車(向かって左側が連結面寄り、右側が運転台寄りとなる)では、連結面寄りに来ます。

電気機器は、移設する際、全体の配列順序を変えない方が都合がよい(あるいは変えられない)ということでしょうか?
(ただし、総ての機器について配列順序を詳細に比較したわけではありません。見立てが間違っているかもしれません。)


ところで、関西車は戦前から、42系以降偶数車は関東とは異なり海側空制、山側電器でしたが、
実は、当初は電気機器側の配列も奇数車と偶数車で鏡対称でした。
つまり、例えば抵抗器群は、奇数車、偶数車ともに運転台寄りに設置されていました。

しかし、途中から左右の並びを奇数車と同じにしたようです。
分界点は51形と54形のようです。54001は奇数向き、54002は偶数向きですが、51056までは旧来方式で、
54002以降の偶数向車では抵抗器群が後位(連結面)寄りに配置されています。

先に挙げた大鉄西成線向けの60029~60042のうちの偶数車(後の54104~54112(偶))もそうなっています。
戦後吹田工場で更新された車は、床下機器のレイアウト替えはされておらず、製造時の様式がそのまま残されており確認できます。

51形と54形の違いは電動機のみといわれますが、こうした差があったことになります。
MT30化が機器配置変更の理由なのでしょうか? (抵抗器容量には差があるでしょうけど)
既報であれば申し訳ありませんが、この辺りどこかで解説がされているでしょうか?


戦後関西から関東へ移籍したモハ43(モハ53)は関東仕様で更新を受けましたが、
偶数車の電気機器の反対サイド移設後の配列はもとのままではなく、例えば抵抗器群の設置位置は、
更新前は運転台寄りにあったのが、更新後は連結面寄りに移っているのが確かめられます。

つまり他の関東型偶数向き電動車と統一されたわけです。
たとえば RF(No.509) 03-09 「42系姉妹の一代記 その4」 更新前の43022(p.97)と更新後の51204(元43014 p.98)

なお、言うまでもないことですが、更新工事以降に方転した車輛は、方転に際しては、
このような大掛かりな機器のレイアウト替えなどは行われず、したがって機器配置自体は更新時のスタイルを保持しています。

例えば、横須賀線のモハ43、モハ53の奇数車は昭和30年代中頃偶数向きに方転し、
その後三扉化されて50形になったものがある(53003→50002、53005→50006但し鶴見事故廃車)ので
機器配置を調べる際はその辺りも勘案しなければなりません。
43804なども元は43025で、低屋根化前にすでに偶数向きに方転していた車です。これらの機器配置は更新時のままです。

先に記しましたが、吹田工場では更新に際して機器配置の入れ替えを一切やりませんでした。
そのため戦前の形態が保存されています。関西型モハ51偶数車の抵抗器の位置は運転台寄りのまま。
また、戦後関東から関西に移り、吹田で更新工事を受けた元中央用モハ51は全車偶数向車ですが、
海側が電気機器の戦前の関東スタイルがそのまま残っています。
またモハ31偶数車にはモハ43のオリジナルの特徴が残されていました。
(モハ42は42002、004、006の3両のみ偶数向き車で、床下も海側が空制となっていました。)


◆ところが、非常に不思議なのがモハ40・モハ42・モハ30です。

モハ40はもともと全車第1運転台が偶数側、つまり偶数向きですが、戦後更新時に方転しました(関西車を除く)。
戦前は海側に電気機器が来ていましたが、方転によってもとにもどるため、奇数車と変わらず
なんら機器配置に手をつける必要がないはずでした。
ところが、空制機器はどういうわけか、左右が逆転し、後位の③位から①位にむけてCP、空気溜の順になっているのです。

これはモハ42、そしてモハ40改のモハ30、モハ61004にも見られる特徴です。一体いかなる理由でこのようなことになったのでしょうか?
(なお61005は特異車です。見た目該当しますが、車体自体は方転しておらずパンタを前後付け替えたのでは?)

 

TOMIXより、1/80, 16.5mmゲージ70系発売の予告

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 8月24日(金)00時35分34秒
返信・引用
  皆さんこんばんは

TOMIXより、HOゲージ(厳密には日本スケールの1/80, 16.5mmゲージ)の70系の模型化が発表になりました。
 公式の発表は、先週末の鉄道模型コンベンションの場で行われ、「横須賀色セット」と「新潟色セット」の発売が予告されました。今のところ内容はこれだけで、どの製造ロットか、クハ76.モハ70型以外の形式は発売されるのか、はまだ不明です。予告の写真で掲載されているのは、横須賀色は横須賀線時代で、中間のサロはサロ85形、新潟色は6両編成で中間のサハはサハ87形、もう片方のクハはクハ75形になっており、先頭のクハ76はともに1次車の昭和34年更新後でした。
 KATOから、クモハ41、クハ55が模型化されており、最近再生産されているので、新潟及び中部山岳ローカルで見られた、片方クハ68の編成を作ることも可能です。

73系アコモ改造車の台枠について
すぎたまさん
 「国鉄電車形式図集 第1分冊・旧型編」によると72系の台枠は、72500台、79300台がそれぞれUF132A, 134で、72920, 79920台がそれぞれUF412, 413になっています。他の全金車を見ると、80系300番台はUF312~315と300番台の番号になっているのですが、何故か70系300番台はUF132A, 133と、それまでの車と同じ番号が付いています。
 アコモ改造車はどう記載されているかというと、72970台は「UF132A」、79600台は「UF134・413」となっており、クハ79920台の台枠のUF413が入っており、クハ79609がクハ79949を種車としていることを反映しています。クハ79609は後期改造車なので、「前半の3編成が作られた段階」では、アコモ車の台枠は「UG132・134」なのは正しいです。

 飯田線での流電ですが、窓の幅を揃える話としては、昭和40年代初頭の年末年始の臨時列車用に6両編成を仕立てた時に、両側がクモハ52001,002で、間に窓の狭い車(サハ48、クモハ42、クハ47100台等)を組み込んだ編成、両側がクモハ52003,004で、間に窓の広い車(サハ48034、サハ75100台等)を組み込んで窓の幅をそろえた編成を作ろうとした、という話が確か昭和58年のRP誌の飯田線特集にありました。一方で、狭窓と広窓の流電を連結したのは、流電のさよなら運転の時の編成が該当します。

記号についての余話
34036さん
 記号のうち、“適当”感の強い符号は貨車の荷重記号の「ムラサキ」ではないかと思います。荷重記号の由来については吉岡心平著「RM Pocket 16 プロフェッサー吉岡の私有貨車図鑑」P23にまず「ム」が定義されたことが記述されています。引用すると

記号「ム」は、昭和3年の大改番以前は馬を積載できる有蓋車を示す記号であったが、「ム」を付された有蓋車は大型であったことから、大型有蓋車のことを「ワム」と通称する習慣が生まれ、これが便利だったため、昭和3年の大改番ではこれを荷重記号として採用した。なお、当時の大型有蓋車には、少数ながら14トン車が存在したため、記号「ム」の範囲が14トンからとされたことはあまり知られていない。

とあります。「馬」が「ム」になったのは、歴史的仮名遣いで、馬は「ムマ」と標記したことに依ります。最初に「ム」が決定し、その後の「ラサキ」は、「ム」を頭文字にする頃の良い言葉を思いついた、という事情のようです。「キ」は荷重25トン以上の車を示しますが、昭和3年時点では「キ」に入る車は大物車以外ではごく少数で、タンク車ではオア27650形27650の1両だけでした。この車は昭和3年の改番で「タキ1」とはならず、「タキ1450」と飛んだ番号になっています。
なお、昭和3年改番以前の貨車の「オ」記号は「大型」を示す記号のようで、タンク車では他にオア27600形、27620形(昭和3年改番でタサ700形)がいるほか、長物車「オチ」がいて、ボギー車を別格とする考え方のようです。

私鉄の貨車でも由来がミステリアスなものがあって、地元の秩父鉄道の石灰石輸送車が「ヲキ」と、「ヲ」の符号が付いているのですが、この由来が今となっては不明です。「鉱石」を「コヲセキ」と発音した、あるいは英語の「ore」を「ヲアァ」と発音してそこから取ったのではないかという説が出ています。ただ、鉱石は歴史的仮名遣いでは「クワウセキ」と書くので、仮名遣いを無視して発音を優先したことになっています。
また、昨年写真を紹介した、熊本電鉄のアーチバ台車の由来である貨車の「ナ1形」は、長物車で、「ながもの」から符号「ナ」を取ったと考えられます。

18m級電車の置き換え情勢について
関東の私鉄の18m級電車の置き換えの情勢について、新たな動きが発表されています。
まず、東急池上線、多摩川線の7700形が養老鉄道に譲渡されることが先日の新聞で報道されました。7700形は、7000形として登場してからは60年になるのですが、1990年頃に機器を更新しており、機器については1000形と同程度の使用歴になっています。7700形に白羽の矢が立ったのは、元々3両の短編成で、無改造で導入できるからではないかと考えられます。
また、東京メトロ日比谷線乗り入れの東武20000系の転用工事の内容もRF誌で発表になりました。単純化すると、「TcMM’MM’MM’Tc’」から、先頭車と中央の電動車ユニットを抽出して「TcMM’Tc’」にするものなのですが、注目すべき点として「5扉車を3扉車に改造する」ことが発表されています。5扉車の入った編成は全て廃車にして、全3扉車の編成だけを転用すると考えていたので、5扉から3扉への改造は意外でした。ただ、ステンレス車を改造するので、外板の全貼り替えはかなりの手間になると考えられ、扉の部分は、日光線の205系イベント車のような扉があったことがはっきりわかる形態になるのではないかと考えらえます。
先日、金沢文庫の総合車両製作所に都営浅草線5300形が搬入されたこと報告しましたが、2両単位でトレーラーに載せられて運び出されています。また、昨日は先頭車が運び出されています。行き先は、改造ならば北野の京王重機、解体ならば北館林の津覇車両ではないかと思われます。
 

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