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雑型電車

 投稿者:クモハ73503  投稿日:2021年 4月23日(金)00時50分17秒
返信・引用
  皆さんこんばんは。

モハ80373さん大変参考になりありがとうございます。

確かに父は特にクモハ41やクハ55やクモハ12など戦前製の電車の事を雑型電車と呼んでいた記憶があります。

72系などの戦後製でも戦前型と混結されてましたから同じ範疇になるのでしょうね。

おそらくスハ43やオハ35などの旧型客車を○系と呼ばずに雑型客車と呼ぶのと同じような見方なのではないでしょうか。
 
 

Re: 正解があるとすればそれは本社

 投稿者:モハ80373 ◆WKtiTNsW9Q  投稿日:2021年 4月21日(水)13時28分16秒
返信・引用
  すぎたまさんへのお返事です。

> クモハ73503さんこんばんは。
>
> 大井工場の2003年の公開時、車輪の展示で「12000系」と書かれたものがあり、「近鉄」?とか思ったのですが、そんなはずもなく、クモハ12形のものを展示するにあたり、そのように「表記」していたという落ちでした。
> 一方、関東北部の工場勤務の友人は、M'車のことを「えむちょん」と呼んでおりましたね。
> つまり、国鉄の本社の考えた読み方と、現場の呼び方がまるで違っていたということなのではないかと思います。
> 戦前から戦後しばらくの、国鉄電車の形式は、「形式 42」とか、「形式 63」とか書かれており、決して「形式 42000」では無いからです。
> したがって、現場が「ななまんさんぜんごひゃくさん」と呼ぶのを、あくまで「正しい呼び方」とするのであれば、「形式 73500」でないとおかしいのではないかと考えます。つまり、73形ではなくて73000形であり、その500番台であるという認識です。そうすると、クモハ73503さんの父上様が呼んでおられた、「ろくまる」、「ななまる」というのは、厳密には間違いではないかと思えます(失礼すみません)。「ななまんさんぜんごひゃくさん」と呼ぶのが正しいのであれば、クモハ60は、「ろくまんがた」、モハ70は「ななまんがた」と呼ばないと、整合が取れないと思うわけです。
>
> なので、「正解」というものがあるとすれば、それはまあ、国鉄本社が想定したであろう呼び方、すなわち、「形式クモハ42」とあれば、クモハ42001は、「くもはよんじゅうにぜろぜろいち(まるまるいち)」と、形式と番号はわけて呼ぶのが正しいのではないかと思います。しかし、現場はまるでそんなのは無視していたということでしょう。
>
> では、一般のファンであるわれわれはどう呼べばいいのかということですが、それはまあ、現場同様好きに呼ぶしか無いのではないでしょうか。
> 小田急の形式で、2600系(けい)と呼ぶと、「2600形(がた)だ!」、と、いちいち訂正する人がいますが、「どう呼ぼうと現場同様勝手」ではないかと思います。だいたい小田急の例なんかでは、「公式文書」には違いない、「記念乗車券」に、9000型なんて字が使われていた時期もあるのです。
>
> 旧形国電の終焉期には、クモハ73 505なんて表記も出現していました。またクモユニ74とクモハユ74が、「形式かぶり」になっていて、これも「ななまんよんせんがた」と呼ぶと、工場、幕張電車区や千葉駅などでは、どちらの形式を呼んだのかわからなくなります。山陽電鉄では、割り当て車の63形を、そのまま付いてきた車番を尊重したのか、63800形と呼んだと、ピクトリアルの63形特集にありましたね。どのように発音していたのか、興味がありますね。
>
> もう一つ問題かなと思うのは、例えば「山スカ」の編成を、比較的若い世代の人に語るとき、「クハななまんろくせんがた+モハななまんいっせんがた+モハななまんにせんはっぴゃくごじゅうがた+クハななまんきゅうせんさんびゃくがたの4連が、スカ色に塗られていてさ」と言っても、なんのことやらわからないだろう(理解するのに時間がかかるだろう)と思うわけです。言葉というものは、出来るだけ多くの人に理解されないと、情報伝達、意思伝達、思想伝達などの意味をなしえません。例えば私が、ここで突然ヘブライ語で日本の旧形国電を語っても、かなりな人は意味がわからないでしょう。私もヘブライ語知りませんし…。なので、ある程度は共通理解が出来る読み方をするしか、無いのではないかとは思うところです。
──────────

ちょっと古い話題に、何を今さら感がないでもありませんが…汗

基本的には、各自が自由に呼んで、それが正しく車両を特定できるものであれば、それで構わないでしょう。
ただ、疑問に思われる方が出る部分でもあるので、ここであえて背景に立ち入りたいと思います。

旧型国電は、基本組み換え自由。架線の電気方式も一部のローカル私鉄等に乗り入れる場合等を除きDC1.5kvで同じということで、増解結の際、組み合わせも自由という感じでした。
昭和25/1950年、われわれの言う80系が登場して、独自の広幅の貫通幌に新仕様のARE式電磁ブレーキを装備して、固定編成で使用が開始されました。これも幌の問題は別にして他の旧型との混結はありましたが、ARE式電磁ブレーキは従来のAE式との混結では活かせなくなるほか、検査周期が長く取れるメリット(仕業検査は他の旧型は600kmごとが多いが、70・80系は800kmごと。また全検周期も他は2年なのに対し3年ごとと長い)が活かせないこともあり、極力80系は70系以外との混結を避けていたようです。
また、13両以上の編成はARE式電磁ブレーキ必須なため、旧型は70・80系のみ(ほかにはクモニ83、クモユニ74・82の一部が対応改造を受けた)ということで、結果的に80系(サハ75等を含む)が限定運用されていました。

1957/昭和32年のモハ90に始まる新性能電車になると旧型との混結は事実上不可能となり、また車体構造や用途と艤装(性能)との組み合わせごとに「系列」が定められるようになって、1959/昭和34年6月の称号規程改正により、3桁の数字により表されるようになりました。
ですから、厳密に言うと、72(73)系も、42系も、32(14)系も、80系も、本来の意味の系列に近い用法ではありながら、正式には部内ではいずれも「旧型」として扱われており、正式な呼称ではありません。系列は、厳密には新性能電車に対して定義されたものであります。

国鉄の現場では、実際にたとえば(クモハ)43015なら「よんまんさんぜん(とび)じゅうご」などと呼ぶのが原則ながら、形式を明確化して「よんさんのじゅうご」などと呼んだり、まんま「よんさんぜろいちご」だったり、わかりやすく柔軟に対応していたように記憶しています。
臨時列車の運転計画などに関して、旧型国電の場合、使用車両に関しては通常「旧型」と指定するのが原則で、車両を限定する場合も系列ではなく形式を指定してあることがほとんどでした。

旧型は、80系以外は「混ぜこぜ」で、比較的新しい車両ばかりになった晩年以外は混成するのが当たり前だった時代と、系列ごとに完全に区別して使う昨今と、背景の違いにより変化した部分でもあります。
 

初期の車内化粧板など

 投稿者:原口 悟  投稿日:2021年 4月17日(土)10時37分9秒
返信・引用 編集済
  スカセンさん、皆さんおはようございます
米押し達磨さん、お久しぶりです

旧形国電の旧2、3等合造車について
 RF70-3号内「省線電車の走るところ」での「クハ16550の車内塗りつぶし」について、同車が元クロハ16800だったとのこと、コメントで改めて気づきました。クロハ16800台は、RP誌の17m国電特集(02-9号)のクロハ16形の2等末期(旧1等廃止後なので厳密には新1等)の記事(P36,37)で、塗りつぶしの旧2等室内の写真があったことを思い出しました。また、クハ16500台に改番されてからのクハ16524の車内の写真がP50に掲載されており(1969.8.18撮影)旧2等室の座席の仕切りが「モケットを貼った板」であることおよび室内が全塗りつぶしであることが確認できます。私としては、「旧2等の証拠」としては、ロングシート裾の「卵形の肘掛け」が印象深いです。17m国電更新車や、キハ55,20、ナハ10系の室内の塗りつぶしのお話も興味深い点で、少し前のこの場で、73おやぢさんよりお話のあった「初期の車内の化粧板は、新製から10年ほど(当時の話題の中心だったモハ72、クハ79920台では、43-10改正の頃)までは新しさを保っていたが、この後、急速にくたびれてしまった」こととも符合します。73おやぢさんは、昭和40年代末に10系客車に乗った時、「くたびれた感じ」を強く感じてしまったとのことですが、この「10系客車の車内」は碓氷峠鉄道文化むらで見ることができます。写真は2016年5月4日に碓氷峠鉄道文化むらを訪問した時に撮影したナハフ11 1の車内で、当時、この場で保存されてからも20年が経とうとしていることもありますが、末期の10系客車を感じることができると思います。また、80系300番台は10系客車との共通点が多いので、飯田線で走っていた80系の車内もだいたいこんな感じだったとの参考になるかと思います。

RM Models 21-5号の常磐線72, 73形製作記事より
 RM Modelsの先月発売の号(5月号)に常磐線の72,73形の製作の記事が掲載されています(P48~55)。TOMIXの73系がリニュアールされたのに合わせて、新製品を使って製作されたもので、クモハ73096や、昭和45年頃に常磐線に在籍していた車から番号が選択されています。この中で気になったこととして、「モハ72938」が製作されているのですが、同車が「ドアコックが床下にある車」として、製品(鶴見線72系セットのモハ72920台)のドアコックのモールドを埋めたことが記述されています。同車は、72920台の後期型(モハ72937以降)なので、ドアコック蓋は腰板にあるのが正当です。
 また、モハ72000台から、72065と72313が選択されていますが、2位側の妻窓埋め込みの違いを表現しています。その中で「2位側妻窓の閉塞は初期車でも存在した」ことが指摘されています。モハ72改造時の原型は、72181までの前期改造車は、配電盤が前位の妻の幕板にあって、妻窓は1~4位のすべてが開閉窓、で貫通扉が無く、吹抜け、72200以降の後期改造車は、配電盤が2位側妻窓の位置に移動して、この窓が埋め込み、他は前期型と同じで、貫通扉の追加は後日の工事です。前期型の2位側妻窓埋め込みは、貫通扉追加工事に合わせて、配電盤を2位側妻窓に移設したためではないか、と考えており、72181までは、貫通扉の有無と、妻窓埋め込みは1対1に対応していると考えています。

昭和30年代の小田急1800形について
 RM Models21-5号では、小田急1800形の製作記事もあり、併せて昭和30年代の小田急1800形の写真も紹介されています(P119~126)。この中で注目なのが1954年11月23日撮影の、元モハ42型戦災復旧とされるデハ1811のカラー写真(P119)です。床下機器配置が偶数配置なので、元の車から、パンタグラフと床下機器との位置関係が変わっていないとしたら、元モハ42004となります。他、黄色と後の2色塗りのカラー写真等が紹介されています。
 

Re: 室内の淡緑塗りつぶし車

 投稿者:スカセン  投稿日:2021年 4月14日(水)20時50分38秒
返信・引用
  米押し達磨さんへのお返事です。

旧クロハの情報、ありがとうございます。
私も17m車時代の鶴見線に何度か行きましたが、更新車に出会えなかったのは、心残りです。
それから話し&時代は変わりますが、美しい72系新製車のニス塗の内壁が薄緑に塗り潰されるのは、大嫌いでした。
 

室内の淡緑塗りつぶし車

 投稿者:米押し達磨  投稿日:2021年 4月 8日(木)21時31分12秒
返信・引用
  原口さん皆さんこんばんは

`60年代初頭の京浜東北線の記憶では、17m車でもクハ16800番台は車内が塗りつぶし車ばかりでした。
混雑対策で旧2.3等車の仕切壁が撤去されており、元々塗装されていた旧2等部分に合わせ全体が塗りつぶされた様で、改番された16500番台も全車車内塗りつぶしだったはずです。
なお、クハ55800は京浜東北時代は旧2.3等間の仕切りが残存しており、旧2等部分は塗りつぶし、旧3等部分はニス塗りでした。
どちらも`64年1月に乗車が最後で、55800の阪和線時代はどうなっていたのか知りません。
なお11305、11307、16559の更新車は薄緑色の車内でしたが、最後に鶴見線で乗車した11307は塗りつぶしでした。
更新車の内装のビニール材のが褪色が著しく塗装されたものと思います。
キハ55や20、ナハ10系の更新前も同様理由で大半の車両の車内が塗りつぶされていましたね。
 

70系での「3本目のジャンパケーブル」の使用の情況、17m車末期の青梅・五日市線、新幹線博多開業時の回数券発売案内

 投稿者:原口 悟  投稿日:2021年 4月 4日(日)17時07分46秒
返信・引用 編集済
  スカセンさん、皆さんこんばんは

3本目のジャンパケーブルについて
 70系と80系の「3本目のジャンパーケーブル」について、かなり昔のこの場で話題になったことがあり、「放送関係の機能の追加によるもの」だったように覚えているのですが、記憶が怪しいので確認お願いします。
 改めて確認したところ、70系で3本目のジャンパケーブルを常用していたのは、神領電車区、およびそこから転出した松本運転所だけでした。混成される別系列の車も、横須賀線ではご指摘のように戦前形は2本のままで、転出先では、神領電車区では戦前形にも3本目のジャンパケーブルを追加しているのに対して、長岡運転所では2本だけでした。このため、神領電車区では、この地区独自の機能の追加のために3本目のジャンパケーブルを活用したと考えられ、もしかしたら、この場の創始時に話題になった、神領電車区の72系に行われた、100V回路の追加と、これに伴うモハ72形への、新性能車のような蓄電池箱の追加が、クハ79形と同じような蓄電池箱の追加がクハ76形にも認められたので、100V回路の追加に関係するかもしれません。

 上巻P14の写真は、確かに、同じように光が当たっているはずなのですが、クリーム色の色調がずいぶん違います。クリーム色1号への切り替えはずっと先(写真は1952年3月12日撮影)のはずで、同時期の他の写真を見ると、左のモハ32形のクリーム色の方が本来の色のようです。もしかしたら、当時のクリーム色は、褪色が早く、右のモハ43形は、かなり褪色したものかもしれません。

17m車末期の青梅、五日市線:RF70-3号内「省線電車の走るところ」より
 先日、古書店で昭和40年代のRF誌を何冊か購入しました。そのうち、RF70-3号は、「省線電車の走るところ」第6回「青梅・五日市線」(P48~)が掲載されていました。
 「省線電車の走るところ」は、1969年12月1日時点の状況の報告で、クモハ11形がまだ3両(11442 454, 456)残り、最後の活躍をしていました。また、後に富士急行に移籍するクモハ12050がいます。電動車はクモハ73形への交替が完了しつつあるのに対して、制御車の方はクハ16形が多く残っていて、「20mの電動車と17mの制御車」の組み合わせが一般的だった過渡期になります。
 所属電車中での注目する記述は、まず「室内の淡緑色塗装」で、「73122, 617, 16550等」が塗られていると記述されています。当時は、アコモA~C更新が行われる前なので、それとは別個の工事になります。73形では、常磐線に見られたことが報告されていますが、「17m車で車内が淡緑色に塗られた車がいる」ことは注目だと思います。
 3両のクモハ11形は、442は「通風器5個」、454は「通風器6個」でともにリベット付き、456は事故復旧で近代化改装された車として知られているものです。
 クモハ73形では、「73002, 015, 016, 019が大鉄からの転入車で運行窓が2桁」で、さらに、これらの車の中に63形時代の幕板の通風器(後位連結面側)が残っている車がいるとの記述があります。また、73002は貫通扉未整備車で、貫通扉の無い車が「かなり多い」と記述されています。他、クモハ73600台に、戸袋窓の保護棒が無くなっている車がいることが記述されており、戸袋の保護棒が無いクモハ73609の写真が掲載(1969年12月1日撮影)されています。
 クハ55形は、005, 006, 022, 036, 053, 073, 320の7両が在籍しています。
 「省線電車の走るところ」では、その線で使われている方向幕と方向板の写真が掲載されていますが、クモハ73600台の方向幕に、定期ではクモハ40型の単行だけだった、「武蔵岩井」の幕が収録されているのが注目です。

新幹線博多開業時の「回数券」の広告
 古書店では、RF67-7号も購入したのですが、この中に1975年3月の新幹線博多開業に合わせて発売される、「小倉―博多間回数券」のチラシが入っていました(写真)。最近のニュースで新幹線の回数券が発売終了するとのニュースを見ており、「回数券」に関するエポックとして、タイムリーなものに出会いました。11枚つづりで「8000円」とのことです。
 RF誌の発売と、回数券のチラシの間には7年半の間が空いていますが、RF誌は九州で発売、購入された後、回数券のチラシが挟み込まれ、その後古書店に売却され、古書市場を点々としながら関東まで流れてきたと思われます。
 

Re: 横須賀線に残ったクモハ43,53形の方向:RM Library 250「横須賀線 70系時代(下)」より

 投稿者:スカセン  投稿日:2021年 3月18日(木)20時11分32秒
返信・引用
  原口 悟さんへのお返事です。

原口さん・皆さますっかりご無沙汰しています。
私も、横須賀線70系時代を楽しく読みました。
そこで、三つ疑問を持ちました。
まず、上のP14の下の写真です。
モハ32と42系の並びですが、どちらも旧スカ色なのに両者は色調が異なります。
次に、下の表紙の写真です。
一位側のジャンパ線受ですが、クハ76は3本確認できますが、クハ47は2本しか確認できません。
それから、クハ58はスカセンで70系と組成されて営業運転されたのでしょうか?
上のP17の下の写真に、1953年にチタ区で撮影されたクハ58の写真がありますが、これは伊東線用でしょうか?
最後に、上のP28の下の写真ですが、70系の窓は当初から上段上昇式だったのに、全金車から上段上昇式になった旨の誤った解説があるのは残念です。
 

横須賀線に残ったクハ47形・ジャンパケーブルの格納など:RM Library 250「横須賀線 70系時代(下)」より

 投稿者:原口 悟  投稿日:2021年 3月 7日(日)00時18分59秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんばんは

RM Library 250「横須賀線 70系時代(下)」にまつわる話題として、横須賀線に昭和30年代後半まで残った「クハ47形」に触れたいと思います。

 70系に混じって昭和30年代も横須賀線に残っていた戦前型2扉車は、先日も触れた、クモハ43形の印象が強く、私としては、クハ47、サハ48形の印象があまりありませんでした。クハ47、サハ48形の写真も、昭和30年代に入ってからのものはあまり紹介されていなかったのですが、同号で何枚か紹介されました。
 表紙は、1961年4月16日に久里浜駅で撮影された、クハ47形とクハ76形が並んでいる写真で、クハ76形の方も関西から転入した、「掛けサボフック」を付けた車であることも注目ですが、クハ47型が新鮮でした。同車は、偶数向きで、前面は、助士席側の窓が2段窓で、手すりの配置が、ヘッダー上のものが、運転席窓、助士席窓上のかなり外寄り、両窓柱の中間付近に縦に短い手すりが付いていることから、後にクハ68210に改造されたクハ47072に同定されます。この手すり配置は、クハ68210に改造され、新潟に転属して、助士席窓が1枚窓に改造された後も変わっていないことが芝生さんの写真でも確認できます。
 P6にも、1959年4月4日に鎌倉駅で撮影された、クハ47形が写っている写真があるのですが、この車もクハ47072だとわかります。

 サハ48形は、昭和30年代に入ってからの写真は、関西型の車の昭和34年の写真がP20, 21に掲載されており、3扉改造後の写真がP37, 38に掲載されています。3扉改造後の横須賀線の在籍は1年程度しかなかったので、横須賀線時代の写真は珍しいものと思われます。
 なお、クハ68200、210、211も、横須賀線時代の写真をまだ見たことが無く、写真があったとしたら非常に珍しいものと思われます。

ジャンパケーブルについて
 以前のこの場で、クハ79100台(偶数向き車)の「助士席側腰板にあるジャンパ栓納め」の役割についての議論がありました。ジャンパケーブルは、奇数向き先頭車の方に常備され、このためのジャンパ栓納めが車体側に付けられるのが、現在に至るまでの標準フォーマットになっていますが、クハ79100台の助士席側腰板のジャンパ栓納めは、この標準フォーマットに反しているため、「どのような意味があったのか」というのが議論の始まりでした。そこで見つかった情報が、「昭和20年代までは、“基本編成の両側にジャンパケーブルを常備し、付属編成にはケーブルを付けない”という運用だった」とのものでした。その裏付けとして、偶数向き先頭車にジャンパケーブルが付けられている写真がいくつか報告されました。同号にもこれを裏付ける写真が確認できました。
 先日も紹介したP32の1955年8月14日逗子駅で撮影の写真には、まだ奇数向きだったモハ53005とともに、品川行き臨時列車のクハ16451が写っています。クハ16451はモハ53005とともに、奇数向きでありながら、ジャンパケーブルを付けていないことが確認でき、「ジャンパケーブルを常備しない付属編成」であることが伺えます。
 

横須賀線に残ったクモハ43,53形の方向:RM Library 250「横須賀線 70系時代(下)」より

 投稿者:原口 悟  投稿日:2021年 2月27日(土)22時48分21秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんばんは

先月に続き、RM Library 250「横須賀線 70系時代(下)」が発売になりました。その中で、以前この場で話題になった、飯田線のクモハ50002の「床下機器の配置」の由来に関係する、「横須賀線時代のクモハ43,53形の方向」について、若干の手掛かりがあったので報告したいと思います。

 P3から「13. 基本編成の方向と日中の区間運転」として、1959年2月改正での、6両編成への変更と日中の逗子―久里浜間区間運転の始まりについて記述された章があります。この中で、先頭車が「下り方(偶数車)が不足」したと記載されています。文脈では、6両編成化に関連して、偶数向き先頭車が不足したように書かれているのですが、おそらく、この後に記述されている、区間運転の始まりによる、一部6両編成の「TcMTsM+McTc」編成化の方が関連が深いと思われます。
 クモハ50002の方向については、「偶数車でありながら、床下機器が奇数配置であること」が何故なのか、が話題になったのですが、上記の区間運転開始のため、McTc編成を作るためにクモハ43,53形の方向をそろえたのではないか、という説が出され、この頃、伊東市区に転出した車との間で、偶数向きと奇数向きのクモハ43型の相互転属が行われて、偶数向きの車が田町に集められたような動きがあることが紹介されました。最終的に田町に集まったクモハ43,53形は、43002(51200), 43008(51202), 43014(51204), 43024(51026), 43032(51208), 53002(43018, 50000), 53003(43021, 50002), 53004(43020, 50004), 53005(43001, 50006), 53006(43012, 50008)の10両で、クモハ43形は偶数車で揃い、クモハ53形は53003, 005の2両が奇数車で残りました。この残った奇数車が方転工事されたのが、クモハ50002の床下機器配置が奇数配置である由来です。
 車号から見るると、もう1両、鶴見事故車であるクモハ50006(元クモハ53005)も床下機器が奇数配置であることが予想されるのですが、その証拠がP41の鶴見事故の写真で確認できます。「クモハ50006」という車号の直前までの車体が事故の衝撃で消滅しているのですが、「クモハ50006」の車号の下にCS5主制御器が確認できます。これが、クモハ50006が床下が奇数配置であった証拠になります。

 関連して、クモハ50006の改造前のモハ53005の写真がP32に掲載されています(1955/8/14 逗子駅で撮影)。更新修繕の前で、まだガーランドベンチレーター、げんこつ型尾灯で、駅のレイアウトから、この時は上り向き(奇数向き)であることがわかります。また、配管が、母線が公式側に降りる「逆配管」であることと、屋上配管にカバーが付けられている、古い形態が残っています。
 また、P5に1959年12月5日に蒲田―川崎間で撮影された、「モハ43形」先頭の横須賀線列車の写真が掲載されていますが、この車は、床下機器と配管が奇数配置で、下り側(偶数向き)先頭なので、奇数車の方向転換車とわかります。このため、写真の解説には「モハ43形」とあるのですが、実際は(昭和34年改番の後で、記号、番号の書き方も改番後のレイアウトなので)クモハ53003,005のどちらかです。

 クモハ43,53形が横須賀線に残ったもう1つの理由として、両書籍では記述されていないのですが、「サハの存在」があると思われます。両端Tcで2等車が入った6両編成を組むと、「TcMTSMMTc」となり、サハが入る余地が無くなってしまうのですが、サハ48形が残っているため、サハを組み込むためにクモハが必要になります。P41に記載されている「鶴見事故の編成」でも、「クハ76303-モハ70033-サロ85020-モハ70079-クモハ50006-クハ76069」の、区間運転編成を組み込んだ編成とともに「クモハ51204-サハ48029-サロ75016-モハ70094-モハ70042-クハ76039」の、クモハとサハを組み込んだ編成があり、両編成から「偶数向きのクモハ43,53形が集められた理由」が伺えます。

横須賀線の自動車輸送貨物について
 同号のP39から「24. 自動車輸送と鉄道貨物」の章が立てられ、日産自動車追浜工場からの自動車輸送が紹介されています。日産自動追浜工場近くの職場への通勤で「現在の自動車輸送」を見ているのですが、たまに追浜駅前で自動車輸送トラックを見ており、トラック輸送も行われていますが、主力は船舶輸送になっています。職場の隣の埠頭に1日1回、大型の自動車運搬船が来て、wikipediaにも項目のある北星海運所有、日藤海運運航の「日王丸」、「日清丸」、プリンス海運の「白虎」3隻の船がローテーションしています。日藤海運のHPを見ると、船の運航スケジュールを見ることができるのですが、追浜と、神戸、岡山の玉島、北九州の苅田を回っています。ちなみに「プリンス海運」は、かつての「プリンス自動車」が自社の自動車輸出に関連して設立した法人で、プリンス自動車が日産自動車に合併した後も、かつてのプリンス自動車の社紋が入った「ファンネルマーク」とともに「プリンス」の名を残した存在となっています。
 

関東省電の幕板の種別表示窓:RM Library 249「横須賀線 70系時代(上)」より、内田康夫作「後鳥羽伝説殺人事件」に見る芸備線三次駅

 投稿者:原口 悟  投稿日:2021年 2月 4日(木)01時38分35秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんばんは

関東省電の幕板の種別表示について
先日、RM Library 249「横須賀線 70系時代(上)」を購入しました。この中に、以前この場で話題になった、側面幕板に取り付けられた「種別表示窓」(半分が窓が空いていて、「急行」等の表示を引き出すもので、類似のものが飯田線、身延線に転出したクハ47型やクモハ42型の前面助士席側窓下に付いています)が確認できる写真が掲載されているのを確認しました。
 P7に1951年5月撮影の、代用2等車になっているサハ48022の写真と、同時期撮影の同じく代用2等車になっているサハ57010の写真が掲載されていますが、両車とも、幕板のほぼ同じ位置に種別表示が取り付けられています。また、P13にもう少し後の1953年10月撮影のサハ48022の写真があり、この時まだ代用2等車で、幕板の種別表示が残っています。
 同時期の写真が他にも掲載されているのですが、例えばP13の1950年10月撮影のモハ32020や、P14の同月撮影のモハ43022には幕板には種別表示は無いことがわかり、種別表示が付けられた車は「代用を含む2等車」に限られる可能性が有ります。

大船工場の職員輸送用車について
 同書には、大船工場の職員輸送車についての記述もあります(P36~)。1959年1月19日の木造省電モニ3414 - クヤ9000の編成と、同年6月17日撮影のモハ11424 - クハ16535の写真が掲載されています。

内田康夫作「後鳥羽伝説殺人事件」に見る芸備線三次駅
 最近BSで昔の2時間ドラマを見ており、当時の鉄道の様子に注目しています。内田康夫「後鳥羽伝説殺人事件」は「浅見光彦シリーズ」最初の作品として知られており、TVドラマ化がかなり早い段階から行われています。この話では、「最初の殺人事件の現場」が「芸備線の三次駅の跨線橋」で、TVドラマでも三次駅の跨線橋が実際に出てきます。何度かのTVドラマ化でその時々に三次駅の跨線橋が出てきますが、その周辺の情況が変化しているものもあり、変化していないものもあって、目を引く要素になっています。これまでに見た「後鳥羽伝説殺人事件」は

1990年1月16日日本テレビ放送「備後路殺人事件」(水谷豊主演)
2000年9月4日TBSテレビ放送「後鳥羽伝説殺人事件」(沢村一樹主演)
2009年4月10日フジテレビ放送「後鳥羽伝説殺人事件」(中村俊介主演)
2018年2月26日TBSテレビ放送「後鳥羽伝説殺人事件」(平岡祐太主演)

で、このうち前3作で三次駅の跨線橋が出てきます。3作の間でも20年近い間が空いているのですが、跨線橋を含む、三次駅の様子は全く変わっていないことが新鮮でした。これに対して、三次駅に入ってくる鉄道車両は年代を感じ、1990年版では国鉄当時の原型で首都圏色のキハ47形が走っているのに対し、2000年版では広島地域色の上が黄色のキハ47形が走っています。そして2009年版では、広島地域色は変わっていませんが、リニュアールされたキハ47形が登場します。さらに、三次駅は登場しませんが、2018年版では、朱色に戻ったキハ47形リニュアール車が登場します。このように、鉄道車両を「その時代を反映する風物」として注目している次第です。ちなみに一番最近のものでは最初の殺人事件は「三次駅の跨線橋」から「後鳥羽院御陵」に変更され、三次駅は出てきませんでした。

TVドラマでは、西村京太郎原作のドラマもよく見ていますが、これまでに見た「製作時期が一番古いもの」は、上記の水谷豊主演の浅見光彦シリーズで、一番最初の放送は1987年9月8日の「平家伝説殺人事件」でした。国鉄末期からJR初期の土讃本線と予土線が出ており、高架化される前の高知駅や、新製投入されたばかりのキハ54形0番台が出てきます。

(2/10追記)
先日、1987年放送の、浅見光彦シリーズ「平家伝説殺人事件」を紹介させていただきましたが、書き込みの直後の2月7日(日)にBS-TBSで、2005年12月26日にTBSテレビで放送された、沢村一樹主演の「平家伝説殺人事件」が放送されました。1987年の水谷豊主演「平家伝説殺人事件」からは19年後になります。舞台は同じ予土線沿線の四万十川流域にある、「藤ノ川」でこの地に出向くために、高知から土讃本線と予土線を乗り継いでいます。BS-TBS版で出てきた車両は、「キハ54形気動車が牽引する、トラ45000形の“トロッコ列車”」でした。
「平家伝説殺人事件」は、これはまだ見ていないのですが、他にフジテレビで1999年7月2日に放送された榎木孝明主演版と、2018年5月21日にTBSで放送された平岡祐太主演版があり、だいたい10年の間をおいて30年間にわたって4本が製作されたことになります。このため、土讃線南部から予土線の列車も、30年間の変化を追えることになります。

(2/13追記)
三次駅ですが、3回目の「後鳥羽伝説殺人事件」の後の2013年から2015年にかけて改築されています。このため、2009年までの放送で見られた三次駅は、駅及び周辺が大きく変化しています。また、2009年の放送と2000年の放送の間でも、三江線専用ホームだった「0番線」が無くなる変化が起こっています。また、三次駅構内には転車台があったのですが、東武鉄道の「SL大樹」運行に伴って鬼怒川温泉駅に移設されました。写真は、2019年8月18日に「SL大樹」に乗った時に、鬼怒川温泉駅で撮影した、元三次駅の転車台です。
 

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