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配管はこんな感じです

 投稿者:73おやぢ  投稿日:2018年 9月30日(日)18時03分44秒
返信・引用
  みなさん、こんばんは。
34036さん

●不思議な60110
正直申せば、私も「東鉄向けを転用したのではないのか」との疑念がありました。急行札差がない件は判定の絶対的条件ではないものの、ないのは田中車だけ(汽車製はちゃんと装備している)なので、可能性を一歩進める材料くらいにはなるかと思います。17年度分は総じて落成が遅延気味ですし、もし大鉄への転用が急な決定であったのなら、機器の吊り金具が東鉄形の可能性すらあり、まことに興味深い展開となるのですが、更新前の写真がないことには、手も足もでません。

●電線管の位置と本数について
この件を極めたわけではありませんが、写真からわかる範囲で年度ごとにまとめてみました。拙い図で恐縮ですが、奇数パンタ車の透視図です。なお、新車基準ですから、改造車や更新車はこの図と一致しないこともあります。

まず26年度車まではMSとBSが別箱(木製小箱のSH44)の振り分け配置で、電線管は独立して2本あります。モハ70形は妻に向かって左(1位)にまとめて2本あり、BSはストレートですが、MSは横断して山側(電気側)へ向かいます。ここで注意すべきはモハ80形で、大部分(一部は2本まとめもあり)は電線管自体が左右の振り分け配管となっていて、どちらもストレートです。理由はわかりませんが、合理的ではあります。
27年度車はMSとBSを同一箱としたSH427を山側(電気側)配置としましたが、配管は前年度までの2本が1本になっただけで、床下横断は変わりません。これがいわゆる逆配管で、27年度だけの特徴となっています。
28年度車以降は向かって右(2位)となり、ストレートにSH427へ向かいます。正規配管、あるいは標準配管とでもいうべき形態です。

「電気車の科学」誌の「床下を横断し断路器に配線」云々のくだりですが、日本語の解釈としては
「MS用の配管はいままで床下を横断していたが…」
「27年度車はMSとBSを同一箱にしたにもかかわらず、床下を横断しており…」
の、いずれにも解釈できます。まあ一応、記事の趣旨が「28年度車の変更点」の説明
だと思いますので、後者ではないかと忖度しますが。

興味深いのは吹田工場が施工した73形です。あいにく大多数が全金化されてしまったので、サンプル数の少ないのが難点ではありますが、改造時期により上記3例が昭和30年代まで存在しました。
東鉄も出場時点では電線管2本や逆配管がありましたが、早期に引き替えて28年度形に統一されています。この潔癖なまでの徹底ぶりは昭和30年代に大鉄から東鉄に転入した73形にも適用され、多くは引き直されてしまいました。一方、大鉄は無頓着で、昭和20年代に東鉄から大鉄入りした73123などは昭和30年代になっても逆配管のまま環状線に走っており、さながらシーラカンスのごとき存在でした。
さすがに電線管2本とSH44は淘汰対象だったようですが、そのほかは逆配管も含めて明確な(言い換えれば工作局主導による強い)指導はなかったということかもしれません。
 
 

床下機器とパンタグラフからの配管、平軸受の軸箱など

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月30日(日)11時19分0秒
返信・引用 編集済
  すぎたまさん、34036さん、皆さんおはようございます

断路器と配管について
 断路器とパンタからの配管の関係は、以前に母線が空気側、空気管が電気側に降りる配管(私がこの場で「逆配管」と呼んでいるもの)に関連して話題になったことがあります。新製車では昭和27年までの車、(証拠写真としては、RP00-5号の73系特集で掲載されたモハ72505の新製当時の写真、遅くまで残った車としては、モハ70形昭和27年度車の70043~048、「電線管2本」がわかるのは落成当初のモハ71001など)、更新修繕車では、先に話題にした、クモハ51001~010や、クモハ73形吹田工場更新車など)で、当時も、「母線が下りた、最初に接続されるスイッチが、空気側の方に寄ったところにあったため、空気側に母線が降りたほうが経路が短くなる」との考えが出ました。この時も情報をまとめて下さったのは73おやぢさんで、新製、更新の当初は関東、関西両方とも「逆配管」だったのが、関東の方は早期に修正したのに対し、関西は遅くまでそのまま残った、との話も伺いました。東鉄の配管の修正は、34036さんご指摘の「断路器をM.S.とB.Sをまとめてひと箱にした」工事を(次の全検時か?)追加施工した事が考えられます。となると、クモハ73形で「逆配管」で残った車(仙石線のクモハ73011など)に断路器の違いが見つかるかもしれません。

TR11台車と同時期の古典台車について
 台車の「軸箱の蓋」は、幌内と小樽の保存車の「アーチバ台車」でも違いがあったことに気づきました。平軸受の軸箱の蓋は「1枚板で両側にネジ止めの耳が付いている」ものがポピュラーですが、この中で、小樽の「キ800」の台車が軸箱蓋にリブが付いた古典的なものでした。写真上は、幌内と小樽の保存車のうち、アーチバ台車を履いていた車から、台車の写真を集めたものなのですが、このうち、「キ800」が、TR20よりもさらに古典的な台車であることに気づきました。訪問した時は「TR20」かと思っていたのですが、キ800の台車は、「軸箱の蓋」が違う他、「枕ばねがコイルばね」で、昨年紹介した、熊本電鉄の長物車ナ1のアーチバ台車によく似ており、「TR16」とされるグループの台車かもしれません。
 写真中央は、キ800の台車の軸箱の写真で、蓋は、一般的な平軸受の台車とは全然違う構造で、下でネジ止めするほか、上から板バネで支持されています。
 写真下は、「木造客車」関連で、「北海道博物館」に展示されていた、「大正末期の客車の車内風景」を再現した1/1ジオラマです。幕板に書いてある車号は、「ナハ24892」と書いてあり、ナハ22000系をモチーフとしたものです。北海道なので、写真中央に「ダルマストーブ」があります。
 

常総筑波の台車他

 投稿者:すぎたま  投稿日:2018年 9月30日(日)05時28分23秒
返信・引用
  原口さん、みなさんおはようございます。

常総筑波鉄道オハ801とオハフ803の台車について、外観から判断する限りでは、どうも以下のようであるのがわかりました。
「車両史編さん会 国鉄鋼製電車史「モハ63形」上巻」に掲載の図面によると、
オハ801は「明治45年式台車」(一応電動車用の改造?)のTR10(短軸)
オハフ803はTR11の初期形(EA3004図面によるもので長軸)
…のようです。イコライザの形状、TR11はリベットの数から判断しました。
木造車鋼体化のモハ50(中バリに残ったトラス棒の間隔が狭いのは電動車用台枠)の車体に、より古い台車を装着(軸距離2134ミリか?)ということのようですが、電動車用台車だったので、ブレーキワークを単純化するため、外側のブレーキシューを撤去したのでしょうか。

何に由来する台車なのかは、今となってはわかりませんが、西武の残り物の線も濃厚ながら、木製車の戦災車から発生したものを、当座の間に合わせに取り付けたものかもしれません。さすがに省がモハ50の張り上げ屋根車に、明治45年式台車は付けて使用しないと思うので…。

戸袋窓の件は、オハの写真をよく見返したところ、ドア埋め部右側の窓が固定窓(すなわち元戸袋窓)ですね。失礼いたしました。もっとも、それでいてドアを埋めて新設した窓は、開閉可能に見えるのが面白いです。
オハフのほうは、元戸袋窓も開閉可能にしている様子ですが、両端ドアの開く方向は、外-外になっており、車端部の窓は両側とも戸袋窓になっているというのも驚きです。どうしてこういう改造にしたんでしょうね?。既に台枠が変形しており、枕バリ部にドアステップを付けると、車体が崩壊しそうとでも考えたのでしょうか。

先の話題の、オハフ61 2619の台車の件は、一応台車としては撮影した写真があったと思うので、イコライザが太いかどうか、リベットの様子などを再度観察してみたいと思います。

失礼いたします。

http://princesscomet.net/

 

修正

 投稿者:34036  投稿日:2018年 9月29日(土)19時06分56秒
返信・引用
  修正のお知らせです。

下記のパラグラフの最下の文章に誤りがありました。
右・左が逆になっておりました。
お詫びして訂正させていただきます。


戦前の関東車では、写真を見比べてみますと奇偶に拘らず、
正面に向かって右側(運転台のある方)が電気側、左側(車掌台の方)が空気側であり、
M.S.は左側=空気側の台車の横に、B.S.は右側=電気側の台車の横にそれぞれ配置し、
パンタグラフが前にある場合、パンタグラフからの電線管は左右に分かれて降り、
右側の電線管は一つ箱を経由してM.S.の箱に、左側の電線管は直接B.S.の箱に接続されていると思います。

修正⇒

左側の電線管は一つ箱を経由してM.S.の箱に、右側の電線管は直接B.S.の箱に接続されていると思います。
 

お礼ほか

 投稿者:34036  投稿日:2018年 9月29日(土)15時10分3秒
返信・引用
  みなさん こんにちは

73おやぢさん

◆モハ40、モハ41改モハ51の向きに関する表現の件
ご提示およびコメントをいただきありがとうございました。

◆60110
戦時状況下、メーカーでの落成と実際の電装就役の状況をみると
偶数車が1両だけいるとしても、それがなぜ60110なのかの説明として
今となっては証明のしようもないでしょうが、
「日車製の60109-60111は、もともとは東鉄向けで計画されていたのではないか?
(従って60109、111は奇数向き、60110は偶数向き)
ところが、急遽大阪地区向けに計画が変更になった。」のように考えたくなります。


◆11110
ご教示ありがとうございました。
写真の車の車号判定のコメントもありがとうございます。
11108の写真と同じ形になっているわけですね。
ご説明で、11110の写真から山側が電気側で更新に際して床下機器の左右が入れ替えられていることが納得できました。
床下機器の配置というのは逐一レイアウトが決まっていて当然のように思われますが
抵抗器なども手前の方に出ているものもあれば、後ろの方に配置されて手前に機器が置かれていたり、
段違いに配置されているのでは、と思えるものがあったりで、実際には個体により結構バリエーションがみられますね。


ところで
今回ご指摘のあった断路器ですが、これはパンタグラフからの電線管の降り方とも関係するわけですね。
電線管の降り方に関しては、いろいろなバリエーションがあり、
かつて自分なりにその法則性の「解明」に取り組んでみたことがあったのですが、
その際には、結局よくわからず、「まあ、いろいろあるんだな」で、投げてしまった経験もあります。


戦前の関東車では、写真を見比べてみますと奇偶に拘らず、
正面に向かって右側(運転台のある方)が電気側、左側(車掌台の方)が空気側であり、
M.S.は左側=空気側の台車の横に、B.S.は右側=電気側の台車の横にそれぞれ配置し、
パンタグラフが前にある場合、パンタグラフからの電線管は左右に分かれて降り、
右側の電線管は一つ箱を経由してM.S.の箱に、左側の電線管は直接B.S.の箱に接続されていると思います。

母線(B=ブスライン)は編成すべてに引き通されるラインで海側で「ワタリ」ますが、
B.S.の箱の位置は奇遇に関係なく上の通りで、例外はないと思います。

関西の42系以降、偶数向きの電動車は奇数車と反対に、正面に向かって右側(海側)=空気側、
左側(山側)=電気側になりますが、M.S.は空気側の台車の横に配置されるため、その意味では
奇数車と反対側に配置されていると思います。B.S.も同様だと思います。
パンタグラフが後位にあるものは確証できていませんが、
B.S.=電気側、M.S.=空気側となるように降りているのでしょう。


戦前は、以上で例外はないと思いますが、問題は戦後です。
昭和26年度の新製車からでしょうか、パンタグラフからの電線管が、2本とも向かって左側で降りるようになります。
例えばモハ70。
ただ、M.S.が電気側へ、B.S.が空気側へと位置関係が左右逆転したように思います。
母線が空気側で引き通されることと、電気機器側に主回路のM.S.が来るのは合理的な気はします。
63の更新72も初期車はこのスタイルになっていると思います。

その後、新製車は28年度車からパンタグラフからの電線管は1本にまとめられて電気側に降りるようになり、
断路器もB.S.、M.S.とも一つの箱に収め、電気側に配置するようになったと思っています。
更新車についても28年度下期以降はこのスタイルで実施するようになったのではと思います。

下記文献(以前73おやぢさんがどこかで存在を喚起していたと思います)にある内容はこの時点での方針が示されているのだと思っていますが、①-(1)の説明などよく理解できないでいます。
B.S.、M.S.とも一つの箱に統合してのちの話なんでしょうか?

RP アーカイブ セレクション 37 63・73形電車の時代 1950~70

① pp105~108
「昭和27年度モハ63形更新改造工事」 <原典 電気車の科学 No.61(53-05)>
(表題は「昭和27年度」だが、「28年度」の誤り)

「4.艤装関係 (2)配管および配線」 の項

(1) パンタグラフより断路器に至る2インチ電線管は断路器と反対側の妻に配管し、
  側ハリ下を通って台車を過ぎて床下で横断し断路器に配線してあったが、
  これを断路器側として床下を横断しないように変更した。
(2) パンタグラフ上下用空気管は2インチ電線管と反対側とする。
  したがって空気管は妻床下で横断することになる。
(3) ビニールシース電線220?および100?は
  合成ゴムシース電線(仕様書SE126)によることにした。


② pp109~118
「昭和29年度における国鉄電車の改修計画〔電車関係〕」 <原典 電気車の科学 No.73(54-05)>

「2.車両保守特別修繕(経常費)表-2」 の項

(3) 電動車母線改良工事(継続) 実施81両(ほかに外注分70両)
  これは主回路および母線回路の地気焼損事故の多いのに鑑み、その絶縁度を強化せんとするものである。
  更新修繕の場合併施して施行する。その使用電線は100?のゴム絶縁ビニールシース電線で、
  特にパンタグラフから断路器までの立上部は主回路および母線回路を1本として220?の同電線を使用
  (屋上から妻窓上までは硬質ビニール管を使用する)ものである。
(4) 付随車母線改良工事(継続) 実施143両(ほかに外注分75両)
  制御車・付随車の更新修繕車につき前項と同様、その母線回路を100?ビニールシース電線に引き替え
  電線管工事を行うものである。


①は「63形の更新改造工事」としていますが、28年度下期以降開始された一般型にも当然当てはまると考えますし、
②の内容も「継続」工事であって、すでに28年度下期以降対象になっていたのだと考えます。

また、上記文献に示されている方針は、大井工場の外注更新車については守られているように思いますが
吹田や地方工場のは、なんだかちぐはぐなんですね。
先の盛岡工更新の11106など、電線管、空気管とも向かって右側でパンタから降りています。
電気機器の左右入れ替えをやらなかったので向かって右側=海側が電気機器のため電気管を右側で、は
理解できるにしても、空気管の方は指示違反ですね。
指示違反ではあるが、パンタを上げ下げするための空気管なので
運転台にきている空気管に接続するならこの方が合理的?なのでしょうか。

 

常総筑波鉄道オハ801~803について

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月29日(土)11時50分45秒
返信・引用 編集済
  すぎたまさん、皆さんおはようございます

 常総筑波鉄道オハ801~803の写真は、最近の出版では、「鉄道青春時代 - 国電(3)」P86に掲載がありました。こちらのオハ801の写真は運転台が右側を向いていて、すぎたまさん紹介の写真とは反対側でした。整備前の写真もあって、張り上げ屋根車だったことが確認できます。じつは、整備後の写真では、車体の屋根の表面の質感がかなり異なっていたので「屋根布を張った」と思っていました。確かに、更新前の写真と比べてみると、張り上げの雨樋、厳密には雨樋が張り付いていた痕跡と同じものであることがわかりました。興味深いことに、すぎたまさんの写真では、乗務員上の張り上げ屋根の雨樋跡が少し食い違っていることがわかり、RPアーカイブス29「私鉄車両めぐり 関東(1)」P24のオハ801の写真でも確認できるのですが、「鉄道青春時代」の反対側面写真の写真でも、点対象の位置になる、元の後位のほぼ同じ位置の雨樋が同じように下に食い違っています。
 中央扉の跡ですが、更新前はおそらくベニヤ板で塞いでおり、写真によっては木の質感がわかるものがあります。この時は戸袋窓は戸袋窓そのもので、下の窓にガラス不足の縦桟が入っています。これが、更新後は扉跡が一応鉄板できれいに整形され、元戸袋窓のガラスも普通のものになったのですが、下の段の窓が他の窓の窓と同様の位置に奥まってはいないように見えるので、一応上下窓のパーツは別のようで、内側の窓も撤去しているようですが、開閉はしないように思われます。

 オハ803は、「鉄道青春時代」に復旧後原型の写真(オハ801と編成を組んでいるもの)があり、この時はドアよりも外側の窓と、中扉を埋めた後の窓は、ベニヤで塞いでいるだけでした。写真は1954年7月16日の撮影なのですが、既に台枠下垂が起こっています。また、最末期の写真が保育社の「私鉄の車両8 関東鉄道」P92に掲載(鉾田線転属後の1968年1月撮影)されているのですが、初めてみた時に強い「垂れ下がり」感を感じたものです。

 台車ですが、TR11だと思って気にしていませんでした。「鉄道青春時代」にはオハ802の写真もあるのですが、こちらも軸箱蓋の形態が異なっていました。オハ801~803の台車が、常総筑波入線時に既にTR11よりも前の台車だったとすると、元の台車は、オハ801~803の抽出元と考えられる、戦災車が留置されていた常磐線の確か赤塚駅から、西武鉄道が自社用に車両を抽出した時に一緒に台車も持って行ったことが考えられます。TR10台車の由来は、入線が1948年末から1949年と、オハ61系の鋼体化改造が始まる前なので、鋼体化で部材になった鉄道省中型客車とは考えにくく、昭和15年ごろに鉄道省より入線した雑型客車と一緒に台車も何両分か入った?(水海道車庫で工事されたオハ803の場合)ものが由来でしょうか。

 先のTR11台車の刻印の続きですが、オハ61系の台車は元ナハ22000系なので、私の方で観察した台車と比べて数年前のものと考えられ、この間に刻印が変わった可能性も考えられます。以前、訪問を報告した宇津井峠鉄道文化むらは、オハ31系とオハ61系が両方ともいるので、次の訪問時に台車を見比べてみたいと思います。
 また、古い台車となると、鉄道博物館のナデ6141は明治末から大正初頭のものなので、もしかしたら、八幡製鉄所での製鉄が軌道に乗る前の、輸入した鋼材を使っているかもしれません。
 

常総筑波鉄道の戦災省電

 投稿者:すぎたま  投稿日:2018年 9月28日(金)04時26分49秒
返信・引用
  原口さん、みなさんおはようございます。

常総筑波鉄道の801号と803号の、比較的鮮明な写真を入手したので、貼ります。
古書店筋からの入手なので、著作権的な問題は無いと思われます(正確には撮影者の氏名を表示するべきですが、わからないので、「撮影者不明」とします)。

上がオハ801号です。
本車は中バリのトラス棒が残存しており、昭和15年より前に鋼体化されたモハ50が種車と思われます。また張り上げ屋根車であったようで、屋根が鋼板であり、元の雨どい位置に筋が入っていて、うっすらわかります。屋根に運転室脇から昇るための手すり状のものがありますが、側面は上2つのみになっています(限界の関係?)。屋根上のものは残存していますが、見事に元のモハ50のままですね。
中央のドアは埋められていますが、埋め方がいかにも「そのまま埋め」な感じです。しかし、戸袋窓だった窓も、開けられるようにはなっているように見えます。
床下のトラス棒ですが、間隔が狭く、高さも高めのようなので、やはりクハ65では無く、モハ50の車体なのでしょう。台枠形式はUF31形と思われます。
台車はDT10やTR11ではなさそうで、軸箱フタの形が古く、外側のブレーキシューが無いので、「片締めブレーキ」になっています。よってこれはTR10と分類するしか無いようにも思えます。いやに角張ったイコライザが目立ちますね(特に軸箱の上部分)。
乗務員室ドアは残っていますが、閉鎖されているようにも思えます。正面はわかりづらいですが、下部の「垂れ」がやや角張っているようです。モハ31系などよりもきっちり角張った垂れ下がりとでもいいましょうか。
中央ドアがあったところの左側、種別灯を埋めたようなあとが見えます。種別灯を使うような線区の車輌だったのでしょうか。

オハ801号の左側にちらりと写っているのが、リベット配置から見ておそらくオハフ802号と思われます。この車はやはりサハ36の復旧で間違いなさそうですね。

オハフ803号の画像は下ですが、本車はトラス棒が無く、台枠がゆがんでいます。
中央ドアは埋められていますが、ちゃんと窓が2つ設けられており、しかしその幅が若干狭いという特徴があります。手前側が元の運転室であったらしく、正面上部は継ぎ足したような感じで切妻になっており、乗務員室ドアの窓幅に近い寸法で窓が作られています。
2つのドアは窓1つ分ずつ両端に寄せられていますが、特に奥側の窓配置が乱れており、戸袋窓がやや幅広、車端よりの窓が手前側と寸法が異なるといった特徴があるので、中央部の窓2枚や、手前側の窓などと含めて、極めていろいろな窓寸法になってしまっています。
車体は画像左側に傾斜しており、台枠が中央部付近で垂下しているので、状態は良くなかったものと思えます。
台車はやはりTR10形に分類されるものに見えますが、オハ801のものに比べて、イコライザーが見た目カーブが緩やかで、ブレーキも両締めです。何かの流用なのでしょうが、来歴がよくわかりませんね。

以上のことから、どうも戦災省電の「車体のみ」を譲受し、心皿荷重が適当な台車と組み合わせたと思えますが、復旧時から同じ台車なのかなどは、私のほうではちょっとわかりません。
結局、オハ801→モハ50鋼板屋根張り上げ屋根車、オハフ802→サハ36形、オハフ803→クハ65の木製屋根車の復旧と思われます。オハフ803のトラス棒撤去が、鋼体化時なのか、戦災復旧時なのかは資料が無く不明です。しかし、様子から見て、どの車も戦災復旧客車の定義的なものからすれば、「B級車」(車体はかなり破損しているものの、原姿復旧が可能だったもの)に当たると思われます。例えば東急3600形になった元省電で、日国工業で車体を新製したものは、台枠のみ利用なので、「C級車」ということになります。ちなみに「A級車」は、「破損の程度が少なく、元の形式にほぼ完全な姿で復旧出来た車」(例:オハ35 694←82)です。

http://princesscomet.net/

 

武蔵野線の205系

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月26日(水)23時20分21秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんばんは

武蔵野線の205系の「スカート」と、「踏切なし」との関係
 前納さんとすぎたまさんの、「103系1000番台が前面強化されなかった」話を見て、武蔵野線の205系に似た話があったことを思い出しました。
 205系はJRになってから前面に「スカート」が取り付けられましたが、武蔵野線に新製投入された、0番台ではラストの5編成だけは例外で、スカートが付けられないまま現在に至っています。この理由として、「武蔵野線には踏切が全く存在しないため」との解説をどこかの205系特集で読んだことがあります。
 写真は、今年の5月23,24日に南浦和駅で撮影した205系で、上から中央・総武緩行線から転属した、ドア窓が「大窓」の編成(M2編成、5月23日)、山手線から転属した、中巻のサハも含めてドア窓が「小窓」の編成(M30編成、5月24日)、武蔵野線プロパーの編成(M65編成、5月23日)です。
 山手線の205系は、スカートが付けられたのですが、「山手線の踏切」は鉄道に関するクイズでよく出てくるもので、現在でも、田端―駒込間の山手線が下をくぐるところの近くにあり、以前は、池袋―目白間の西武池袋線が上を超すあたりの近くにもありました。
 

クハ115-130の細い窓の中桟について

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月26日(水)00時46分15秒
返信・引用
  写真掲載の関係で、別立てにします

クハ115-130の細い窓の中桟について
 クハ115-130も、撮影していたので写真を紹介したいと思います。
 確か115系掲示板の方で、「特別保全工事も更新工事も受けていない車」として、クハ115-130が話題になり、この時に「原型の115系0番台の特徴」として、「窓の中桟が細い」ことが紹介されており、クハ115-130を狙ったものです。写真は、2001年10月20日の帰りの通勤時に赤羽駅で上り列車の先頭に立っていたのを目撃して撮影したもので、車号は入っていませんが「Y430」の編成札がぶら下がっていることから、クハ115-130と確認できます。

 他、115系0番台およびクハ111の丸窓車に共通する特徴として、助士席側の運転台を折り畳んで客室として開放できることが挙げられます。この「客室として開放された助士席」の写真を撮影したいたので併せて紹介します。写真は2001年8月29日に当時の池袋行列車に乗った時のもので、クハ115-140(Y72編成)です。

 写真下は、当時入ったばかりのE231系の行き先表示なのですが、おかしなところがあります。総武緩行線の千葉行きの表示が出ているのですが、帯の色が緑色です。これは、2001年9月24日夜に「籠原駅」で撮影したもので、写真の車はE231系の近郊車です。確か、現在の湘南新宿ライン北行き最終列車の前身にあたる、新宿23:00発の列車で帰宅し、籠原駅で下車したところで、先行する上野発の籠原行電車が籠原駅の4番線に止っていたところを撮影したものです。これを見て、LED表示になって、行き先をコンピューター管理できるようになったので、首都圏の全行き先表示がコンピューター内にインプットされていて、そこから必要線区のものが抽出できるようになっているため、やろうと思えば別線区の行き先表示を出すことができる、と思ったのですが、実際はどうなのでしょうか。
 

165系新潟車の前面強化について

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月26日(水)00時31分2秒
返信・引用
  前納さん、すぎたまさん、73おやぢさん、34036さん、皆さんこんばんは

クハ401-83, 84および新潟の165系の、原型大型前照灯を残した前面強化について
 クハ401-83, 84ですが、「土崎工場での前面強化」の情報をかねてから知っていたところで、の「早期廃車予定」の記述を見たので、あれっと思いました。
 実は、「土崎工場での前面強化」の情報も、165系が健在だったころに確か115系掲示板で見たのが初出で、明確に文献に記述されたのは確認できていないところで、「早期廃車予定」をみたものです。

 新潟の165系ですが、前面強化がわかる写真を撮影していたので紹介したいと思います。
 以下の写真は、「ムーンライトえちご」が165系から485系に置き換えられる、2003年4月1日をはさんで、置き換え状況観察のため、前後数日にわたって新宿駅からの下り列車を観察した時のものです。
 写真上は、3月29日の下り列車の6両編成の中間連結部を撮影したもので、左がM2編成のクハ165-166、右がM1編成のクモハ165-76です。新潟の165系M編成は、M1編成が国鉄末期に松本から転入した編成で、新潟では珍しいシールドビーム車、M2~M4編成が新潟プロパーの編成、M5, M6編成が57-11改正で幕張から転入した編成です。左のクハ165-166を見ると、前面窓下の手すりと同じ位置に鉄板を貼り合わせて出っ張ったすじが確認できます。このことから、「原型ライトのままで前面強化を行ったこと」がわかります。また、右のクモハ165-76も、同じ位置に何となく修正跡のようなものが見えることから、こちらも前面強化が伺えます。
 写真中央は同時に撮影した、M1編成の反対側のクハ165-106、下は3月27日に撮影した、M5編成のクハ165-195です。クハ165-195も、前面手すり付近の外板のすじが見えることから、前面強化されていることがわかります。これに対して、クハ165-106の方は、外板にあまり変化が見られず、入念に辻褄合わせが行われているようです。
 また、改めて気づいたこととして、クハ165-195は、助士席側ステップ下にジャンパ栓納めが1つあるのに対し、クハ165-106, 166はジャンパ栓納めが存在しないこと、クハ165-105のステップ下の補強がゴツイことに気づきました。
 

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