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東横と東武

 投稿者:すぎたま  投稿日:2019年 3月22日(金)13時30分25秒
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  原口さん、みなさんこんにちは。

大手私鉄戦前のサハは、東横電鉄サハ1形(のちのサハ3350形)や、東武鉄道がSL時代の客車を電車のサハとして使用していた例があります。
ですが、やはりかなり希有な例でして、戦時中の物資不足から、サモハやサクハになっていた車はあったものの、完全なサハを製作して使用していた私鉄はほとんど見つかりませんね。
よって、私鉄への省電割り当てに際して、サハ78形は話題に上る程度のことはあったかもしれませんが、真剣に検討されたことは無いでしょう。
また電装品が不足していた時代なので、大東急でもモハ63の割当量数を50輌で希望し、全てモハ(クモハではなく)として、在来車はクハに改造して使う案もあったくらいですから、本音としてはモハばかり欲しいとも考えたかもしれませんが、大半の私鉄は、機器の違いから63系のみで編成と運用を組んで輸送力列車に充当し、浮いた在来車をその他の列車に回し、さらに小形車を地方私鉄などに譲渡するという流れをとるために、モハ-クモハの編成で割り当てを受けることで妥結したのではないかと推察します。
割り当てにあたり、辞退したのは京阪新急行(現在の阪急)と、西武鉄道(代わりに焼け電や木造車を大量譲受)があります(水面下では他にもありそう)。阪急については、製造中の車輌が相当数あったからとも言われています。
反対に割り当てを受けたのに失敗に終わったのは、やはり名鉄でしょうね。山陽も苦労して限界拡大したのに、その後の車輌は18メートル級などになっているのは、もともとの輸送量の関係でしょうか。

長距離用のオハ35形を使いこなせる私鉄があったら、より興味深いことになっていたでしょうが、当時の状況を文献で見る限りでは、ちょっと難しそうですね。さりとてオハ71を希望する私鉄も無いでしょうし…。
南海電鉄は、自社のサハ4801号が検査の時などは、国鉄からオハ35を借用したそうなので、そういう制度が整っていれば、もしかすると数輌の割り当てがあってもおかしくないかもしれません。
「きのくに」号直通存続のため、国鉄から485系を買わされそうになった南海電鉄。何かと国鉄との関係は深いですが…。

http://princesscomet.net/

 
 

モハ63形以外の「私鉄割り当て車」の可能性

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年 3月21日(木)23時57分25秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんばんは

63形私鉄割り当て車以外の「私鉄割り当て車」の可能性
 RP誌の今月発売号は「モハ63形私鉄割り当て車」の特集が予告されていますが、1月にパタゴニアに出張していた時、この「私鉄割り当て車」についてふと思ったことがあります。それが、「モハ63形以外の車が私鉄割り当てになる可能性はあったのだろうか」です。私鉄割り当て車は「モハ63形」に限定されていますが、「サハ78形」が割り当てが検討されたことはあるのだろうか、また、同時期に電車以外では、客車ではオハ35形、貨車ではワム23000形が製造されていましたがこれらの客車と貨車が割り当てられる可能性が有ったのではないか、と考えました。
 モハ63形が割り当てられた私鉄は、いずれも旅客輸送が電車一本であったため、旅客輸送補強のための割り当て車は「電車」となり、当時大規模に製造していた電車は「モハ63形」になるわけですが、一方で、都市圏でも2両編成を単位として運用していたか、現在のJR四国7000系のような、両運McにTcを連結する運用が主であり、確か戦前に付随車(牽引サハではなく、編成の中間に封入される車)を持っていたところはなかった(後述の、新京阪P-6の付随車として製造され、すぐに制御車化された522~526くらい?)ように思います。
 「オハ35形」の割り当てがあったとしたら、東武と南海が可能性が有るのではないかと考えられます。南海については実際に蒸気機関車牽引の列車が運行されており、元阪和クタ800形(出自は後の筑波鉄道で使われていた木造客車)を客車代用として使われています。この客車としてオハ35形が割り当てられる可能性が有ったのでは、と考えました。クタ800形は、後に南紀直通客車「サハ4801号」の種車になりましたが、蒸気機関車の方は同和鉱業片上鉄道に移籍し、「C-13形」になっています。また、東武は、貨物列車運行のために蒸気機関車を多く保有しており、これらの蒸気機関車を使って、客車列車を末端区間(現在、狭義の「東武伊勢崎線」「東武日光線」となっている、「スカイツリーライン」の先の区間)で運行することができたのでは、と考えました。
 「ワム23000形」を考えたのは、戦時中の汎用貨車製造は無蓋車に一本化(トキ900形)されていたため、有蓋車の製造が急務で、モハ63形と似た事情があったためです。ワム23000形の割り当てがあったとしたら、これも東武が有力と考えました。東武は貨物列車を多く運行しているとともに、後年、自社籍の「ワラ1形」を多く保有していたことから、当時、自社内貨物列車用に有蓋車を調達することも急務だったと考えられ、東武籍の「ワム23000形」が誕生する可能性が有ったのでは、と考えました。

京阪神急行電鉄への「モハ63形」割り当ての検討について
 モハ63形私鉄割り当て車ですが「京阪神急行電鉄への割り当ても検討された」との記述を見たことがあります。山陽や南海のように、路線規格がかなり異なる線へもモハ63形が入った一方で、京阪神急行電鉄へモハ63形が入らなかったのは、「P-6」が一因ではないか、と考えてみました。
 P-6については、最近の本ではRM Library 110「阪急P-6 -つばめを抜いた韋駄天-」がありますが、大阪―京都間の「新京阪鉄道」の路線に対して、京都以遠への延長を計画していたために、製造両数が多く(合計73両)、大阪―京都間ではだぶついていたこと、規格が大阪―京都間の路線規格に特化していたため、新京阪時代でも開業時の路線である千里線への転用が出来なかったという事情がありました。「京阪神急行電鉄」になってからも、「阪神急行電鉄」に由来する宝塚線、神戸線系統と規格が異なったことが有名です。
 モハ63形が京阪神急行電鉄へ入るとしたら、規格的にストレートに入線できる線は、新京阪鉄道に由来する大阪―京都間に限られると考えられます。モハ63形の割り当て条件には、「手持ちの小型車を地方鉄道へ供出する」こともありましたが、大阪―京都間へモハ63形が入ると、P-6が押し出されることになり、そのP-6が阪急内の他の線に入れないため、小型車(新京阪ではP-1と呼ばれた車など)の押し出しが難しいと考えられます。この「玉突きが難しい」ことが大きかったのではないか、と考えました。

金沢文庫レポート
 金沢文庫の総合車両製作所では、年度末の追い込みのように車両製造が行われています。
 まず、写真上は3月14日(木)朝に通勤時に撮影した埼京線E233系です。2月に1本落成したことを報告しましたが、この写真の撮影の1週間前に同じところに埼京線E233系を目撃しており、その後、間隔を置いて目撃したもので、もしかしたらこの編成は「3本目」かもしれません。
 写真中央はこの後、3月19日(火)に目撃した京急新1000系1600番台です。この編成の前、3月初めの確か上記の埼京線E233系目撃する前に、別に1600番台を目撃しており、前頭部の書き込まれた番号が「661」だったのを確認しました。これは、1600番台の「11本目」の編成ということになります。
 金沢八景駅では、高架駅舎が遂に完成しました。高架駅舎の営業はパタゴニアへ行っていた最終の1月26日に始まったのですが、高架西口の開通はまだだったのですが、3月中旬に運用が始まりました(写真下)。シーサイドラインの駅舎も完成し、3月31日に営業開始の予定です。
 

福塩線105系の製作

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年 3月16日(土)20時17分8秒
返信・引用
  皆さんこんばんは

先日紹介した富山港線17m車の製作より前に、福塩線の105系4両編成を製作していました。

 105系は、鉄道コレクションから各線のバリエーションが発売されてはいるのですが、全て2両編成のセットです。このため、福塩線に投入された当初の4両編成の製作には、中間車の改造が必至となり、これまでにも趣味誌に製作記事がいくつか紹介されています。単純化すると、運転台側に別の車体の反対側を切り継ぐのですが、屋根も微妙な修正が必要になります。
 福塩線の4両編成の製作は以前から構想してはいたのですが、工作の手に長らくついていなかったところ、パタゴニアから帰ってきてから間もなくジャンク品として「サハ105に改造済みの車体」とともに福塩線105系のジャンク品をいくつか見つけ、これを機会にこれらのジャンク品を購入して福塩線4両編成を作ることにしました。
 写真上が製作した4両で、「クモハ105-7 - サハ105-3 - モハ105-3 - クハ104-7」を選択しました。サハ105の方が改造済みのジャンク車体で、モハ105の方を新規に中間車化改造しました。切り継ぎラインは、一番前の扉の前の戸柱にとりました。加工した後に、この部分の通風グリルをTAVASAの103系通風グリルで追加しました。妻面手すりはTAVASAパーツから別体化しました。
 塗装は、黄色5号に青20号の帯なのですが、発色を優先して、先に黄色5号を塗装し、帯を残してマスキングして、青20号を塗装する、という「帯を塗装する」という点からは奇怪な方法を取りました。塗装は、うまくいったところもあればうまくいかなかったところもあり、出来のばらつきが目立ちました。当時は「シルバーシート」はクハ104だけだったので、くろま屋のインレタを該当箇所に転写しました。
 方向幕は、当時は「福山―府中」などの両側表示だったのですが、鉄道コレクションではJR以降の頃の「行き先だけ表示」が表現されています。ステッカーは、製品の調達が出来なかったので、今のところ製品の「福山」のままにしています。
 写真中央は4両編成を組んだところです。なお、中間車の屋根は、先頭車のままでは微妙に短い(前頭部の分だけ微妙に短い)ため、趣味誌に紹介の加工では「屋根も切り継ぎする」方法が使われていましたが、私の方では、「端に0.3mmプラ板の帯材を追加して削り出す」方法を使いました。
 写真下は、これまでに製作した新旧の福塩線の車両を並べてみたものです左から105系、70系300番台(鉄道コレクション・1977~81年)、青20号のクモハ51062-クハ68062(リトルジャパンモデルズのクモハ40平妻車を加工・1974-77年)です。青20号の戦前型時代は、McMcTc'の3両編成だったので、編成としては完結していないものです。また、福塩線の20m戦前型は、1970年頃から走っているのですが、クモハ51062、クハ68062はともに末期の転入(1974年)で、しかもクモハ51062の方は青20号になったのは最末期(1976年4月の時点でまだぶどう色2号の記事があり)なので、70系も転入して70系と戦前型の混成になっていた過渡期のほうが時期としては近いです。
 

富山港線の600V省電の製作

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年 3月10日(日)19時12分55秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんばんは


鉄道模型は、最近は貨車を作っていたのですが、先日久しぶりに旧型国電を製作したので紹介したいと思います。
 製作したのは、富山港線が架線電圧を1500Vに昇圧(1967年4月1日)する前の600Vだった時代の末期に転入した17m省電です。この時代の情況は、RP83-11号(特集 去りゆく旧形国電)の富山港線の記事(P42~47)で記述されていますが、写真頁P28にこの時代のクモハ11224の写真(1966年8月)があります。この写真を基に、クモハ11224―クモハ11420-クハ16401の3両編成を作りました(写真上)。クモハ11420は、RP83-11号P28の写真のクモハ11224の次に連結されている車で、クハ16401は、当時所属した4両のクハ16のうち、モハ30系のクハ16219は当日別の車と編成を組んでいることが明らか(RP83-11号P31の写真)で、残り3両(16401, 409, 523)のうち、写真が見つかったクハ16401を選択しました。

 写真中央は、クモハ11420とクハ16401です。ベースとしたのは、KATOのクモハ11-クハ16鶴見線増結セットです。鶴見線セットはモハ50系のうち、リベットのある前期の鋼体化車が表現されているのですが、クモハ11420、クハ16401とはいくつかの違いがあるために加工を行いました。加工内容は:
(1)鶴見線セット(McTc')に対して、クモハ11420(Mc')、クハ16401(Tc)は、それぞれ逆向きですが、富山港線転入に際して方転を行いました。このため、床下機器は床下機器の両側の台枠横梁を分割線にして前後を入れ替えました。これに伴って床板と室内板の取り付けの爪がずれるので、爪を全部切り取って真鍮線を埋め込んで固定しました。クハ16401の方は前後を入れ替えただけですが、クモハ11420の方は空気側のMG,CPとエアタンクを前後入れ替えて配置しなおしました。また、車体にはジャンパ栓納めに元の方向の名残(クハ16401のジャンパ栓納め(P31のクハ16219の写真から)とクモハ11420のジャンパ栓納めの台座(クモハ11224の写真から))があったので、KATOのジャンパ栓のパーツを使って加工しました。
(2)クモハ11420、クハ16401はともに片隅運転台です。KATO製品は全室運転台なので、乗務員扉後ろの窓を修正しました。助士席側は800mm幅のため、前に2mm程彫刻刀で広げ、運転席側は窓幅は同じで前に1.6mm程広げると共に後ろをプラ板とプラペーパーで埋め、窓を前にずらしました。窓ガラスは、運転席側は元の窓ガラスを使い、助士席側は、Little Japan Modelsのクモハ40の800mm幅の窓のガラスを転用しました。これに対して、全室運転台の仕切りを模している室内仕切りは、ライトユニットを兼ねているために加工はできず、そのまま取り付けています。
(3)屋上配管は、逆向きなので、母線と空気管を引き直しました。後述のクモハ11224と併せて屋上を前面の両方を引き直しています。避雷器は、クモハ11224の方がひと世代前のパイプ型を付けていたことがわかるので、KATOのパイプ型避雷器のパーツ(元々はEF68形電気機関車用)を付けました。
(4)前面手すりは、両車とも写真が見つかった(クモハ11420は、「国電車両写真集」P142の1955年2月21日の写真の他、更新修繕2の後の写真、クハ16401は南武線時代の正面から撮影した写真)ので、これを基に手すりを付け直しました。クモハ11420の方は前面貫通扉枠の手すりのレイアウトがかなり独特で、特にシルのところの縦の手すりが無いため、別付の手すりの穴を埋めました。
(5)側面の扉の形態は、クハ16401の方は資料が無いため、KATO製品の全て2段窓の形態を流用しました。これに対して、クモハ11420の方は、全てHゴム1枚窓になっていたので、窓ガラスを後述のクモハ11224から転用する等行って形態を変更しました。
(6)600V時代の富山港線は、社形時代に由来する、自動連結器を使っていました。KATO製品は密着連結器のため、連結器を交換しました。使ったのはTOMIX TNカプラーの樽見鉄道ハイモ295用(JC6360)で、他のTNカプラーに比べて車体長さの短い車に使うため、カプラーポケットが小さく作られています。しかし、DT10,11,TR11台車は、軽快気動車よりも軸距がずっと長いため、カプラーポケットをさらに削り込んで台車と干渉しないようにしました。床板との固定は0.4mm真鍮線を埋め込みました。なお、富山港線と、可部線の自動連結器を付けていた17m省形は、連結器の脇にエアホースを2本付けているのですが、可部線の車は連結器胴受の外側に付いているのに対し、富山港線の車は連結器胴受の直上に付いています。エアホースは銀河モデルのホワイトメタルのパーツを持ってはいるのですが、TNカプラーのユニットに取り付け代が無いことと、TNカプラーの首振りに干渉する可能性が有るため、今のところ取り付けは省略しています。

写真下は、クモハ11224と、40年後に富山港線を走ったキハ125形です。車体規模としてはほぼ同程度(キハ125の方が少し小さい)ですが、キハ125の方はオーバーハングがより長い上に台車も小さいので、普通のTNカプラーが付いています。
クモハ11224は、リベットの多い車なので、KATOの南部支線セットのクハ16007の車体を使い、クモハ11248の動力ユニットと屋根板を組み合わせました。富山港線には、クモハ11200台は11224の他、228,242が所属しており、3両とも写真が見つかったのですが、11224を選択したのは、KATOで南武支線セットとして発売したクハ16007と手すりのレイアウトが全く同じことが理由の1つです。
扉は、公式側は全て2段窓だったことがわかったのですが、KATOのクハ16007は、扉がエラーで形態がクモハ11248とまったく同じになっています。この形態から、「全て2段窓」に修正しました。パーツはLittle Japanのクモハ40キットの交換用扉を使いました。

なお、元モハ50系の客用扉ですが、前述の「国電車両写真集」のクモハ11420の写真等から、更新修繕1の時点では、モハ50系への鋼体化の時の扉をそのまま残した車が多かったようです。更新修繕2の時には標準の扉がHゴム支持の1枚窓になっていたため、遅くまで残ったモハ50系列の車はHゴム1枚窓の扉が多く見られるような印象があります。

富山港線の昭和30年代の2色塗りについて
 富山港線で昭和20年代から30年代にかけて行われていた2色塗りは、過去に何度か「謎の色」として触れてきましたが、最近富山港線の車両の情報を調査していたところ、「クリーム色1号と青4号」としている記述を見つけました。クリーム色1号は横須賀色のクリーム色ですが、「青4号」はWikipediaの「国鉄色」の項目でも記載されていないものです。この番号の色は日光モデルから発売されており、解説は「2等車帯(戦前)」となっています。等級帯は「1等白帯・2等青帯・3等赤帯」として知られていますが、2等青帯は昭和24年に切り替わったことがわかりました。新しい方の色は水色に近く、GREENMAXのカタログでは青22号が代用指定されています。これに対して前の青帯の色は、青が濃く、「どのような色」だったか、モデラーや模型メーカーの間で議論され、「鉄道省2等車青帯」等の色が発売されています。Models IMONのHPに、日光モデルの青2,3,4号の缶を開けて色を比較した写真があるのですが、青3号が「紺色」なのに対して、青2号はやや緑がかっており、青4号は青3号よりも明るい、「青色」に近い色です。青15,20,22号の比較写真もあるのですが、この中では青4号は青20号に近いのですが、青20号よりも明るく、くすんだ感じです。

金沢文庫レポート
 金沢文庫の総合車両製作所で、3月初頭にE353系を目撃しました。ダイヤ改正を控えているところから、この車が最後のE353系の落成と考えられます。また、先週末に埼京線色のE233系を目撃しました。以前報告したE233系とは別の車で、相模鉄道乗り入れのための運用増加分の製造が本格的に始まったと考えられ、この車とは別の鋼体と考えられるものが工場の奥に並んでいました。
 私鉄関係では、京急1000形1600番台の製造が進んでおり、先日「661」の番号の車が工場内に待機しているのを目撃しました。1600番台の通算11本目になります。他、京成3000系も目撃(総合車両製作所製造か、日本車両から回送されたものかは不明)しています。また、2月末に阿武隈急行の在来車(8100系)置き換えのための阿武隈急行仕様のE721系(AB900系)の最初の車が落成したのですが、手前の車庫の中に入っているのを目撃しています。
 

台枠への興味(その5)古典客車

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年 3月 3日(日)11時19分38秒
返信・引用
  最後に、古典客車から、幌内鉄道い1(小樽市総合博物館)と開拓使号(鉄道博物館)を紹介します。結果的に共に幌内鉄道由来で、古典客車のなかでも「超古典客車」になります。どうも中梁だけが鋼製(時代から、”錬鉄”か)で、横梁等の他の構造部材は木製のようです。

保存車両としては、明治末期から大正期の木造車両が空白域で、電車では鉄道博物館のナデ6141、JR東海博物館のモハ1035くらいで、客車では存在しないと思われます。このため、「直接観察できる対象が存在する」という点では、木造車が空白域になります。

「木造車の台枠がどんなものだったか」は、どこかに写真があったことを思い出し、調べてみたところ、RP84-2号(特集 EF58形電気機関車)ありました。P40に「暖房車マヌ34形の生い立ち」で、当初SGの無かったEF58形の冬季の暖房確保のため、「2120形蒸気機関車のボイラー+トキ900形無蓋車の鋼材と連結器+戦災木製客車のTR11台車」でマヌ34形が製造されたことが記述されており、「戦災木造客車」(中型木造客車のもの、1953年3月21日、小名浜で撮影)の写真が紹介されています。オハ61系へは「部材を利用」になった中型客車のものですが、木造車の台枠がよくわかるものだと思います。これを見ると、側梁は車体の幅からはかなり内側(TR11台車の側枠に近い)で、その外側に三角形の部材が付いて、その上に側柱が立っていたと思われます。また、側梁はオハ61系への鋼体化でも「寸法は同じ20cmチャンネルのため、利用に都合が良い」ものです。
 

台枠への興味(その4)スハ43系

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年 3月 3日(日)10時57分18秒
返信・引用
  スハ43系から、スハ43 717(小樽市総合博物館)とスハ45 20(三笠鉄道村)を紹介します。

スハ43系の台枠は「UF135」になりますが、「UF116」から、構造に大きな変革が起こりました。詳細はRP02-6号(特集 スハ43系(1))P14にありますが、

(1)中梁の高さが25cmから20cmに縮小されるとともに、横梁が「中梁の横に接合」から「中梁の上に渡しがけ」に変わった
(2)側梁が「側梁の外向きアングルに長土台の内向きアングルを組み合わせてその中に側柱を立てた」構造から、「中梁と同じ20cmチャンネルを内向きにして、上面に欠き取りを作って側柱を差し込む」構造に変わった

がメインになります。(2)の側梁への20cmチャンネルの使用は、明らかに先日紹介のオハ61系鋼体化客車の「側梁を10cm上げて接合した」構造を持ち込んだものです。横梁が中梁の上に乗った構造は上のスハ43 717の写真で様子がわかります。台枠の一番上の面が横梁だけになったためか、床板の構造は「根太をレール方向に乗せ、その上に床板を枕木方向に貼る」構造になっています。
中梁の構造の変化が、「中梁のレール面からの高さを下げる」方向に働き、このために「ブレーキ関係の設計が苦しくなった」ことがRP02-6号の解説でも記述されていますが、オハ61系の方でも「キハ40,45形気動車(後のキハ08,09形気動車)の設計時、「エンジンをぶら下げるための高さ」がスハ43系では不足した」ことが知られています。
 

台枠への興味(その3)オハ35系

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年 3月 3日(日)10時31分14秒
返信・引用
  オハ35系から、オハ36 125(写真上)と、オハフ33 451(写真下、ともに小樽市総合博物館)を紹介します。両車とも戦後製になります

オハ35系の台枠は「UF38」になりますが、スハ32系のUF30とともにRP04-7号(特集 オハ35系(1))P54に図が紹介されています。UF38は、昭和17年度から、車軸発電機の変更により、寸法が微修正され、形式が「UF116」に変わり、オハ36 125とオハフ33 451はUF116に変更になってからの車になります。大きな変化としては、UF30に存在した「斜めの補強」が無くなりました。
床板の貼り方は、「枕木方向」に変わっています。両車との戦後製のため、「戦後になってからの変化」か、「オハ35形になってからの変化」かは不明です。
 

台枠への興味(その2)スハ32系

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年 3月 3日(日)10時17分9秒
返信・引用 編集済
  スハ32系から、スエ32 1(元マユニ31 12:三笠鉄道村、写真上)と、オエ61 309(元マニ36 2004 - オハ53 1 - オロ35 1小樽市総合博物館、写真中央、下)を紹介します。

スハ32系の台枠は「UF30」ですが、心皿の少し内側に斜めの補強材が入っているのが特徴です。両車との、この「斜めの補強」に注目して写真を撮影しました(写真上、下)。両車とも、床板の貼り方は、レール方向です。
 

台枠への興味(その1)魚腹台枠車

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年 3月 3日(日)10時06分31秒
返信・引用
  皆さんこんにちは

台枠と床板について、手持ちの写真から参考になりそうなものを集めてみました。昨年の三笠鉄道村と小樽市総合博物館の訪問の時の観察を中心として、オハ31系列から紹介したいと思います。

写真上は三笠鉄道村のスエ30 41、中央と下は小樽市総合博物館のスエ78 5です。横梁のなかには魚腹状の中梁の天地に合わせるように三角形をしているものがあります(写真下)この時代は、横梁は中梁の横に貼り付けられていたのですが、後述のスハ43系列になって大きな変革が起こります。台枠の上に根太を載せ、その上に床板を貼るわけですが、根太を枕木方向に中梁、側梁を渡すように乗せ、その上に床板をレール方向に貼る方法と、横梁を渡すように根太をレール方向に乗せ、床板を枕木方向に貼る2種類の方法が発生することになります。この2両はともに床板がレール方向になるのですが、スエ78 5の方は戦災―オハ70系列復旧を挟んでいるので、原型ではない可能性が有ります。
 

木造車台枠

 投稿者:すぎたま  投稿日:2019年 2月24日(日)15時52分14秒
返信・引用
  原口さん、新参者さん、みなさんこんにちは。

床板の張り方は、客車でも2通りあるようで、オハニやオハユニの荷室では枕木方向、客室は長手方向なんじゃないかと思われますが、いかがでしょうか。

画像として、国鉄制式木製客車最後の残存車と言われていた、土崎工場に残されていたナエ17248号の画像が入手出来ましたので張ります。上原庸行氏撮影(著作者人格権に基づく表示)、1971年です。
本車の台枠構造は、木造車の標準的なもので、側構から一段引っ込んだところに台枠側梁が出ています。手前側のステップの蹴込み面がそのまま台枠側梁部ということになります。
柱を支える材が、側面の側梁上に点々と見えるように思えますが、これは木根太なのかもしれません。木製車は文字通り木造なので、車体から台枠が分離出来、したがって鋼材は車体に全く通っていないそうです。これも台枠を流用しやすくしていた理由の一つでしょうね。

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