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ちょっとした話です

 投稿者:すぎたま  投稿日:2018年 9月24日(月)15時02分2秒
返信・引用
  みなさんこんにちは。

>原口さん
TR11の「ヤワタ YAWATA」という銘ですが、日中線(会津若松区)のオハフ61 2619でも確認しました。ただ、SEITETSUSHOという銘は無かったように思います。鋼材の都合で切れてしまったのか、元から無いものを使ったのかは不明です。便所の反対側台車だったのが幸いでした(笑)。
常総筑波鉄道のオハフ(オハ)801と803の横がよくわかる写真を入手しました。また後ほど貼りますね。オハ801はやはりモハ50張り上げ屋根車復旧に思えますね。

>前納さん
103系1000番台が、前面強化されなかったのは、武蔵野線への転用計画が検討されたため(武蔵野線には踏切が無い)ではないでしょうか。クハ105形に改造された車輌には、前面強化工事が行われていますし。
103系1200番台も見た目されていないように見えます。乗り入れ運用からすると、踏切が少ないから??
謎ですね。

http://princesscomet.net/

 
 

11110

 投稿者:34036  投稿日:2018年 9月23日(日)22時08分56秒
返信・引用
  皆さんこんばんは

大井工場が施行したモハ30の丸屋根更新車のうち運転台を残したものには、モハ30300⇒モハ11100の外に、昭和28年度に施行された11108、11110、11113の3両がありました。

1953-1954(昭和28-29)年度改造車を奇数車と偶数車で分けて表示すると

奇数車                 偶数車
1953(昭和28)年度
11103 ← 11013 53.12.16 幡生     11106 ← 11032 54. 5.31 盛岡
11105 ← 11021 53.11.30 幡生     11108 ← 11040 53.11. 9 大井
11107 ← 11041 54. 3. 8 幡生     11110 ← 11006 54. 3.12 大井
11109 ← 11043 54. 3.27 幡生
11111 ← 11045 53. 7. 9 幡生
11113 ← 11011 54. 5. 9 大井

1954(昭和29)年度
11115 ← 11015 54.12.10 盛岡     11112 ← 11026 54. 8.24 豊川
11117 ← 11035 55. 2.25 長野     11114 ← 11004 54. 9.21 豊川
11119 ← 11023 55. 3.31 幡生     11116 ← 11022 54.11. 2 豊川
                    11118 ← 11042 55. 2.25 盛岡
                    11120 ← 11016 54.11. 6 長野


奇数車のうち11103-11111の5両は何れも幡生工場の改造車ですが、改番対照は改造日に拘らず旧番号昇順で揃っており、予め計画番号が与えられていたことが伺われます。

11106と11113の2両は、改造が遅れて落成が1954(昭和29)年度にずれ込んではいますが、1953(昭和28)年度の計画車であったとみなしてよいのでしょう。(11108と11110は1953(昭和28)年度内に改造落成している)

28年度計画として、宇部・小野田線用の5両(幡生工場分)と仙石線用1両(11106 盛岡工場分)の計画があったが、これに 東鉄分(大井工場分)として奇数車1両(11113)と偶数車2両(11108、11110)が追加になったと考えられます。

28年度下期以降60形を皮切りに戦前型の更新工事が開始されました。
大井工場では28年度下期まで63形の更新工事が残留したものの、自工場分は試作的なもの以外は外注(日車、汽車、東急、豊川)を基本スタンスとし、通常の更新工事は行わない中で、11形の更新をそれも3両(11108、11110、11113)のみ、大井工場が行うというのは、一体どういう事情によるものであったのでしょう?

実はこの中で以前から気になっているのが11110で、床下が明瞭に確認できる写真を見たいと思っているのですが、残念ながら実見に至っておりません。

11110は晩年は中原区所属で南武線で使用されていました。
「我が心の飯田線・旧形国電画像編」に「クモハ11110(東ナハ)1964.4.12 中原電車区」として掲載されている写真がありますが、ほぼ正面からに近い角度での撮影であり、車号は確認できません。
1964.3.31現在の中原区の配置表によれば、11形100代は何れも偶数車で11110、11112、11126、11128の4両が配置されています。しかし写真の車は「運行窓」を持っています。一方で11110は、運行窓は持たないはずの車なのです。こうした理由から、写真の車は少なくとも11110ではないでしょう。

実は車号は確認できないのですが、いろいろな条件を照らし合わせて、これまで趣味誌上で公開された写真の中で11110であろうと思われる写真として、次の2点をあげることができます。

◆RP 721(02-09)【特集】戦前製旧形国電17m鋼製車 p.39
撮影場所:1964.3.15 南武線 南多摩-府中本町 多摩川の鉄橋のたもと 南多摩寄り 偶数向き 運行窓なし

◆RP アーカイブ 4 東京圏国電輸送 1960~70 p.53 右下カット写真
撮影場所:1964.7.19 南武線 中原区そばを走行中 背景から偶数向き ジャンパ栓の在りようからも偶数車 運行窓なし

上記写真は2枚とも①③サイドが見えていますが、角度がきつく、床下を判断しきれないのですが、中央付近に電動圧縮機らしきものがみえていると判断してよさそうなのです。

であるとするならば、偶数車にもかかわらず、①③サイドが空気側ということになります。すると困った問題が起こります。大井工場の更新車であれば、更新時期からして床下機器の左右が入れ替えられていてしかるべきです。

実際僚車である11108は、床下機器の左右が入れ替えられていることが確認できます(下記写真)。

◆RP 520(89-12)【特集】大阪環状線 p.83
撮影場所:1961.8.28 陸前原ノ町駅

ただしキャプションにそうあるが、車号は読み取れない。
②④サイド側が見えていて空制機器(つまり偶数車であるので更新に際して床下機器の左右を入れ替えている。)。運行窓なし。
<11108は更新後暫く山手線で使用されていたが、仙石線に貸し出しとなり、のち正式に仙台区に転属した。>

上記写真の車は、床下機器の左右の入れ替えを行っていること、前面幕板部分の処理、リベットの在り方等からも盛岡工場更新とは思われず、写真の車は11108に間違いないと思われる。

なお、盛岡工場の更新施行車は偶数向きでも更新に際して床下機器の左右を入れ替えていない。
実際同時期更新の11106の写真が下記で確認できる。

◆RP 721(02-09)【特集】戦前製旧形国電17m鋼製車 p.25
撮影場所:1959.3.23 陸前原ノ町区
車号確認可、②④サイドが見えていて電気側

11110の床下機器の左右入れ替えが行われていないとの仮定のもとですが、
(その可能性が高いと考えている。それゆえ確実に床下が確認できる写真をみたい。)
これはどのように考えたらよいのでしょう?

①28年度施行の筈が、非常に遅れてしまったために、床下入れ替えを取りやめた。
もう一つは、ちょっと考えにくいかもしれませんが、大井工場が他工場(たとえば盛岡)へ施行を外注した可能性、を考えるのですが、どうでしょうか。

そういう目でみると、施行の所作、たとえば前面幕板部分の施行の仕方(鋼板のつなぎ方やリベットの在りよう)などに合点がいくところと、そうでないところ、パンタグラフからの電線管の降り方などがあり(11106と11110では異なる)、考えあぐねています。

もし上記のような可能性があるのなら、もう一両奇数車である11113(⇒22100)もそうした可能性が出てくるわけですが、こちらは奇数車であるため、床下機器の入れ替えは判断材料になりません。
11113も、22100改造前がみてみたいのですが、まともに判断可能な写真を見ることができていません。

なお、11113と思われる写真としては下記があります。

◆鉄道青春時代 -国電(Ⅱ)p.63
南武線 武蔵溝口-津田山間
ただしキャプションにそうあるだけで車号は確認できない。

あと、下記の写真も11113ではないかと考えていますが、車号は確認できません。

◆RPアーカイブ 17「国電復興時代 1950」p.111 「買収国電を探る 南武線」
 

明治44年改番と昭和3年改番についての情報追加、製鉄所のタンク車など

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月22日(土)21時05分36秒
返信・引用
  皆さんこんばんは

明治44年改番と昭和3年改番の情報追加
 少し前に車両の「記号」が話題になりましたが、旧型国電の「モハ30」等の形式の由来となった昭和3年の改番、および電車の創始期の「ホデ」等の記号の由来となった明治44年改番の「原典」となった「鉄道公報」を掲載しているところが見つかりました。
 貨車の研究で、吉岡心平氏とともに知られる、福田孝行氏のHPの「貨車の玉手箱 福田孝之のホームページ」中の「貨車の資料・おまけ」に「鉄道公報から」の項目があり、主に貨車に関する「達」が元のプリントの画像のPDFファイルの形で掲載されているのですが、この中に明治44年改番を規定した「達20」および昭和3年改番を規定した「達380」が収録されています。これを見ると、先に話題にした電車、貨車だけでなく、機関車についても記号が規定されています。昭和3年改番では、機関車でも蒸気機関車の「C」「D」、電気機関車の「ED」「EF」等の記号が設定されており、電車に関する項目も、「旧型国電車両台帳」P424に掲載されている記述が確認できます。明治44年改番の記述も同様に「旧型国電車両台帳」P422」の記述を確認できます。

 また、明治44年改番で、国鉄に合同した旧私鉄の出身者の間で対立が起きたことを紹介しましたが、その原典となる記述も発見しました。
 RM01-12号(通巻219号)の「私有貨車セミナー」は連載第100回で、これを記念して貨車の「改番」を特集し、各々の改番での会社の新旧番号が記載されています。この中に、明治44年改番時の思い出話が掲載されています。引用すると


 運転でも工作でも、どなたもご存じないと思うのが、車両の番号整理のことです。明治39年国有鉄道方が出来、40年から買収された鉄道会社の事業が、段々一緒になって来て、その時私が客貨車の仕事をやっていたが、当時、客貨車の番号の整理が、最初に起った問題である。番号の整理について、運転部長の岩崎彦松氏(元山陽鉄道の技師長)と工作課長の畑精吉(元鉄道作業局記者課長)との間に意見の相違があった。畑氏は、どうしても各車種ごとに番号をつける。岩崎氏はコンセキューチブ・ナムバーで、全部通し番号にするというのである。その間に立って、一番困ったのは自分と故小畴寿君です。しかもご両人は、直接話ををすることをしないし、運転課長の田中富士夫氏も斡旋をしないので、会議書類を突き返しているだけです。しかもお互いになかなか譲らないのです。一年くらいああでもない、こうでもないといった結果、岩崎氏の意見が通って、現在の通し番号になった経緯があるのです。(後略)
松縄信太談「国鉄の回顧」
日本国有鉄道(1952)より


の記述です。ここで注目されるのが、73おやぢさんが指摘されている「運転」と「工作」の対立が、担当者の「国鉄に合同した私鉄の出身」に関連するように記述されていることです。これに対して、電車では、明治の買収で合同した鉄道で電車を運行していたのは「甲武鉄道」だけなので、他の車両のような「出身鉄道毎の路線対立」は考えにくいのですが、「甲武鉄道」と「鉄道作業局」、さらには電気機関車が有名ですが技術を導入した会社の代理店(イギリス系、ドイツ系、アメリカ系)の間での勢力争いがあったことが考えられます。このため、「部局間の路線対立」として記述されている要素は、かなりのものが国鉄成立前の各私鉄に由来することが考えられます。
 合併した会社内で、元の会社に由来する路線が並立して長く残るのは、私鉄の合併や、他多くの分野で多く見られることで、鉄道関係で見た記述では、「常総筑波鉄道」と「鹿島参宮鉄道」が昭和40年に合併して誕生した「関東鉄道」が、車両番号システムが長らく常総筑波系と鹿島参宮系が並立していたこと(最近ではRPアーカイブス「関東の私鉄」に収録されている、私鉄車両めぐり「常総筑波鉄道」「鹿島参宮鉄道」「関東鉄道」で確認できます)や、労働組合が常総筑波と鹿島参宮に由来する2団体が並立していること(1996年のRP誌増刊「関東地方のローカル私鉄」)が挙げられます。

製鉄所所有のタンク車について
 先日の書き込みで、「タサ700形」の最初の車が八幡製鉄所所有であったことを紹介しましたが、「製鉄所が何故タンク車を持つのか」怪訝に思った方がおられると思います。これについては、「製鉄」という工業が、多数の部門が集まった「巨大コングロマリット」であることが関係しています。
 製鉄の原料は「鉄鉱石」「コークス」「石灰石」で、先の北海道の出張で室蘭を訪れた時に、この3原料をモチーフとしたクッキー「鐵の素クッキー」を購入したのですが、この中の「コークス」は、石炭を蒸し焼きにして作ります。この時に「石炭ガス」が発生し、昔は都市ガスの原料になっていたのですが、他にも「ベンゾール」の原料にもなります。「ベンゾール」は、ベンゼンのことで、貨物輸送の種別としては「ベンゾール」とよばれるのですが、石炭鉱業の主要な製品として広く生産されていました。現在、「Gas to Liquid」を示す「GTL」ということばがありますが、ベンゾール製造もGTLの一種です。コークス製造の副産物としてベンゾールが生産されるので、コークスを生産する製鉄所ではベンゾール輸送の需要が発生することになり、このため、製鉄所を基地としてベンゾール専用のタンク車が運用されることになります。タサ700形は大多数が「ガソリン専用」ですが、タサ700~702は「種別なし」(タンク車の誕生時、輸送するものが石油だけだった時の名残)なのですが、製鉄所所有であることから、ベンゾールを輸送していた可能性大です。製鉄所が「ベンゾール専用タンク車」を所有していた例は、室蘭の輪西製鉄(後の新日鉄室蘭)があり、東室蘭駅常備、「新日本製鉄」所有のタム3250形、タサ1100形ベンゾール専用タンク車がありました。また、東室蘭駅、八幡製鉄所に関連する西八幡駅常備のベンゾール専用タンク車は関連業者のものがけっこうな数存在しており、九州では、三池炭鉱関連で、大牟田駅常備のベンゾール専用タンク車がいました。
 ベンゾール専用タンク車は首都圏でも運用されており、「太くて短いタンク」で有名だった昭和電工所有のタム3251, 3252や、以前に模型製作を紹介した、タキ6450、タキ14400形がいて、新興から郡山、勿来へのべbbぞーる輸送に使われていたのですが、一応製鉄所はあった(新日鉄君津や日本鋼管(現在のJFEスチール)の扇町の製鉄所など)のですが、こちらは石油化学関連の可能性が高いです。京浜工業地帯からのベンゾール輸送が昭和61年に一挙に縮小されたらしく、この年にベンゾー専用タンク車が一挙に廃車されています。
 

クハ401-83・84の件

 投稿者:前納浩一  投稿日:2018年 9月22日(土)20時53分40秒
返信・引用 編集済
  原口さん、みなさん、こんばんは。

クハ401-83・84は、大形前照燈のまま前面強化されています。平成4/1992年の成田線の踏切事故を受け、翌年から始められた前面強化工事ですが、その事故よりも前に強化工事を受けていました。新潟の165系も同様です。なので、決して「廃車が近いから工事を見送った」などということはありません。
この工事は運転士の安全を図るため、平成7/1995年3月までに施工されたと思います。未施工の車両があれば、労使問題にも発展しかねないです。ですので、先頭に立つ車両で強化未施工の車両は、301系などを除き全車施工されたと思います。(103系1000番代が施工されなかった理由は未確認ですが…)

雑誌に曖昧な話(説)が載っていたのですか? ちゃんと現車の前面を見れば、強化されているのはハッキリ分かることなのに、ちょっと無責任ですね。
 

返)60110

 投稿者:34036  投稿日:2018年 9月22日(土)19時45分40秒
返信・引用
  みなさん、こんばんは
73おやぢさん

60110の件、
 ①プレスアイゼンバーン「大阪の省電2」
 ②「鉄道史料」第9号
ともに手元にない資料です。ご紹介ありがとうございました。

17年度大鉄向けの 60106-60111(6両)のうち60110だけは新製当初から完全な偶数車だった可能性があるということですね。

更新前の写真が確認できたとして、
偶数設計(①③=山側 電気、②④=海側 空制)であれば、それは確信できそうです。
その場合、理由としては、やはり6両中1両は偶数向きの必要があった、ということになるのでしょう。

逆に
奇数設計(①③=海側 空制、②④=山側 電気)であった場合、下記のような可能性が残ることになりますね。

その1 奇数向きで落成し、運用を開始したが、その後方向転向の必要が生じて方転した。
その2 奇数向きで落成予定であったが、急遽1両だけ偶数向きにする必要が生じた。
    しかし急であるため、機器配置の変更がかなわず、奇数設計のまま製造、それを方転する形で落成した。

60110が仮に当初奇数向きで運用についていたとしても、ご呈示いただいた文献①によれば、昭和20年1月13日の時点では既に偶数向きだったのですね。

「関西の国電50年 履歴編」によれば、次のように記載されています。
             製造年月         使用開始
60109-60111(日車):18年2月23日-3月31日 18年3月11日-4月15日
60106-60108(汽支):18年7月31日      19年3月2日-4月28日(順不同)

特に汽支の分の使用開始が遅れたのは電装が遅れたためでしょうか。戦時中の非常事態で、事故や故障にともなう車両のやりくりの関係で、向き変更の要請が生じた可能性もありそうには思えます。

ところで、もしも60110が当初奇数向きだったとして方転したのなら、番号と向きは一致することになるので、(床下が)奇数設計だとしても、「国電配置表の奇偶の法則によらない運転台の向きの紹介」の対象外となる可能性はないでしょうか?

たとえば関西の
モハ40改モハ51は、新車号の偶奇に関係なく偶数向き
モハ41改モハ51は、新車号の偶奇に関係なく奇数向き
であったわけです。
つまり、車号の奇偶と向きが一致しているものと、そうでないものがあったわけですが、
これらの車両については、「鉄道史料」第9号の「国電配置表の奇偶の法則によらない運転台の向きの紹介」ではどのような表現になっているのでしょうか。「モハ41001~41055が奇数車設計、モハユニ44001~44004が偶数車設計」などと同じような説明になっているのでしょうか?
 

ガーランドベンチレーターのクモハ51形など

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月19日(水)23時50分9秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんばんは

クモハ51形の更新修繕のメニューとガーランドベンチレーターについて
モハ80373さん、47063さん
 クモハ51形の更新修繕について、「旧型国電50年(2)」P112~116に記述がありました。ガーランドベンチレータについても記述があり、昭和20年代末の更新修繕時までは51001~51011, 025, 031(表でがグローブの記述だが、本文ではガーランドの記述), 042がガーランドベンチレータのままだったのが、昭和34年までに010以外の車がグローブベンチレーターに交換され、010だけがガーランドベンチレーターで残っていました。このため、先の書き込みでのガーランドベンチレーターで残った車の書き方はちょっと微妙でしたので訂正したいと思います。
 P116の表と見比べてみると、昭和28年9月までの更新車がガーランドベンチレーターで残ったようですが、ガーランドで出場した最後の車の51028が昭和28年9月18日、グローブで出場した最初の車の51027が同年10月2日と間に2週間ほどしかないので、途中でグローブベンチレーターへの設計変更の訓令が出たとしたら、ずいぶんと急な変更になります。
 「旧型国電50年(2)」の記述では、他にも過渡的なものを感じさせる記述があり、51011以降のガーランドベンチレーター車は当初は鋼板屋根のままだったこと、29年3月までの車はベンチレーター間の踏板が残ったこと、ベンチレーターが前寄りと後寄りの違いは更新修繕が昭和29年8月と9月の間で区分されること等の記述がありました。
 モハ80373さんご指摘のクモハ54001も運行窓が2桁である件は、こちらでも確認が取れました。34036さんが、クモハ54形のうち、クモハ54001だけが更新修繕が先行したことを指摘されており、クモハ51形と同時期の更新修繕であることが運行窓2桁である理由と考えられます。
 4扉改造車のクモハ31形ですが、「旧型国電50年(2)」P173,174の記述では、更新修繕1は行っているのですが、更新修繕2を行ったのは3両のみで、この3両だけがグローブベンチレーターになっていました。クモハ51形も「001, 004, 007, 010が早期廃車予定」で工事されなかったとの記述はあるのですが、010以外の車は他のガーランドベンチレーター車と同時期にグローブベンチレーターになっているようです。4扉改造車と併せて、ガーランドベンチレーターで残った車は、「早期廃車予定のため」という記述をよく見るのですが、何だかんだで昭和40年代後半から50年ごろまで使われています。

 余談ですが、「早期廃車予定のため、更新工事を行わなかった」とされる話は、新性能車にもあり、403系のクハ401-83, 84がヘッドライトが原型大型で残った理由の1つとして紹介されていることがあります(最近のRP誌の415系特集など)。ただ、もう1つの説として、「土崎工場で原型大型ライトのまま前面強化を受けたため、JRになってからの前面強化(通称「鉄仮面」)の対象から外れた」とする説もあり、新潟地区の165系が末期まで原型ライトを残した理由にもなっています。また、115系では、クハ115-130が、特別保全工事も更新工事も受けないで2000年のE231系投入まで走り続けています。更新工事を受けていない車は2段窓の中桟の幅が確か25mmと狭い(特保車以降の車は確か幅が30mm)のが特徴で、この情報を知ってから、現車を確認しました。

TR11台車の八幡製鉄所の刻印について
 先日紹介したTR11台車の八幡製鉄所の刻印ですが、NEKO MOOK 402「トワイライトゾーンManual11」に参考になる記述がありました。
 同号P202~は吉岡心平氏による「タサ700形のすべて」ですが、最初のタサ700形である「タサ700~702」の所有者が「製鉄所」であることが記述されています。同車は大正14年10月に日本車両で製造された、「最初のボギータンク車」であるオア27600M44形27600~602なのですが、写真がP202に掲載されており、所有者として単に「製鉄所」と書かれており、その下に(上戸畑)と書かれています。また、「製鉄所」は当時は国営で、民間に払い下げられて「日本製鉄」になったことが記述されており、「製鉄所」は、現在「八幡製鉄所」と呼ばれている製鉄所のことだとわかります
 これを踏まえて刻印を見ると、社紋の右にまず「SEITETSUSHO」と続き、その横にさらに「YAWATA」と書かれていることは、会社の名前が「製鉄所」で、この製鉄所が「八幡」に所在することが表現されていると解釈できます。また、社紋も、刻印とオア27600型の写真のものと同じであることが確認できます。

都営5500型直通運用の開始
 先月の趣味誌で、都営5500形が、都営線内限定運用から運用に入ったことが報告されていましたが、今週から乗り入れ運用も始まったことを確認しました。昨日(火曜日)には、朝の通勤時に5502編成を目撃し、今朝は5504編成を確認し、乗車しました(写真)。
 金沢文庫の総合車両製作所では、東急新7000系とともに、京成新3000系が待機しています。東急では、10月末に7700形のさよならイベントを計画しており、それに向けた最後の新7000系の新製が行われたと考えられます。また、7700形は養老鉄道への譲渡が発表されていますが、最近の岐阜新聞に「3両編成3本、2両編成3本」であることが掲載されていました。
 

クモハ51のガーランドベンチレータ残存車

 投稿者:47063  投稿日:2018年 9月19日(水)15時43分5秒
返信・引用
  いつもはROMだけですが、ひとつ教えてください。クモハ51のうち、ガーランドベンチレータで最後(1970年代頃まで)まで残った車両は、51010以外にいたのでしょうか?他にもいたような書き込みがあるので、気になりました。  

クモハ51記事に関して

 投稿者:モハ80373  投稿日:2018年 9月18日(火)09時51分50秒
返信・引用
  クモハ51だけでなく、飯田線で80系全金車引退後の最終置き換えまで残ったクモハ54001なども、運行灯窓2桁でした。
また、昭和49 (1974) ~ 50年頃までにさかのぼれば、片町線などにガーランド型ベンチレーターのロングシート省型電車が残っていました。
 

60110

 投稿者:73おやぢ  投稿日:2018年 9月17日(月)17時09分46秒
返信・引用 編集済
  みなさん、こんばんは。
34036さん

冷静に考えると、60110は不思議な車です。当時、東京に幌枠付きの転入車があると、在京マニアは好んで追い掛け回したそうですが、60110は東鉄に転入しているにもかかわらず更新前の記録はないようで、よくよく不運な車だったようです。ここでは刊行物からわかる60110の向きを2件紹介します。

まず、プレスアイゼンバーン「大阪の省電2」に昭和20年1月13日の編成メモがあり、60110は宮原区所属で明石方(偶数向き)に連結されています。

次に、「鉄道史料」第9号に昭和26年1月1日現在の国電配置表が掲載されています。配置表の末尾に奇偶の法則によらない運転台の向きの紹介があり、60形は次のように記されています。もちろん昭和26年なので、戦災廃車の車号は出てきません。

60026・60028…奇数並
60090~60094…奇数車設計
60102・60104・60106…奇数並
特に指定なきものは番号通りとする。

とあります。並と設計の文言の違いは明記されていませんが、モハ41001~41055が奇数車設計、モハユニ44001~44004が偶数車設計などとあるので、設計とは奇偶の関係なく同一方向で製作し、基本的に将来もそのまま、というグループを指しているようです。そうすると並とは、現在は運用の都合などでとりあえず番号とは逆向きである、ということでしょうか。悩ましいのは、並の構造や機能に関する記述がなく、設計との区別がはっきりしないことです。例えば60090と60102とは具体的にどこが違うのか、といった素朴な疑問は残ります。

まぁそれは別の問題としても、ここでは60110になんらの言及もないことに注目です。この資料(おそらく本庁製作)を100%信頼すれば、60110は番号通り正真正銘の偶数車ということになります。そうすると、「関西の国電」履歴編の60090~60111の欄で、冒頭に全車奇数向きとあるにもかかわらず、60110の項だけ偶数向きとの注記が入る不自然さは、解消されるのではないでしょうか。

更新後の60110を見ると、幕板の急行札差がないことに気づきます。60106が東鉄で更新後も札差が存置されていること、更新を施工したメーカーがメニューにない改造を勝手に行うことは絶対にない、の2点から60110は新製時から札差がなかったと考えられます。もっとも、札差の有無で東鉄向けか大鉄向けかを判断できるのは平時のことで、資材節約が叫ばれるご時世とあれば、最初から省略された可能性も否定はできません。現に田中製の60100~60105には札差がありません。

とはいえ、60090以降は全車奇数車にしてくれという大鉄側の意向は、需給上の明確な理由があるはずですから、そこへ1両だけ偶数車(昭26配置表を尊重すれば)がまぎれ込んでいるのも不思議な話です。当初目的通り全車奇数として大鉄へ投入したが、電装時、あるいは昭18~20の間に「やっぱり偶数車が1両必要だ」として、60110を奇→偶へ急遽方転との可能性もないとはいえませんが、もはや証明するすべはなさそうです。
 

北海道レポート(その8)TR20台車と古典台車

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 9月17日(月)12時24分41秒
返信・引用
  今回の訪問では、「TR20台車」を多く見ました。

 写真上は小樽のジョルダン雪かき車キ718のTR20台車、中央は同台車の揺れ枕吊りとブレーキの拡大です。
 両博物館とも、「雪かき車」が多く保存されており、単線用ラッセル車のキ100、複線用ラッセル車のキ550、ロータリー車のキ600、ジョルダン車のキ700、マックレー車のキ800が揃っています。TR20は、ロータリー車以外の雪かき車に装備されていますが、各形式ともTR41台車と混用されています。以前キ100形の特集を鉄道誌のどこかで読んだことがあるのですが、キ100形の場合、木造車の鋼体化でキ100形に編入された車があり、TR20台車とTR41台車を単純に番号で分けられなくなっています。
 TR20台車については、RM誌の「私有貨車セミナー」で特集されたことがあるのですが、「TR20」と称する台車は意外と広い概念で、短軸、長軸や心皿荷重が区分されずにまとめられており、いわばTR11よりまえの明治45年型等のイコライザー台車を「TR10」として一括しているのに近いです。

 写真下はさらに古典台車の明治期の輸入台車です。明治25年(1892年)に当時の北海道炭鉱鉄道手宮工場で製造された客車「い1」は大正15年(1926年)に定山渓鉄道に譲渡され、末期は豊羽鉱山の通勤用車として使われていたのを、昭和38年に国鉄に変換され、苗穂工場で復元されました。この客車が作られた時は、まだ上記の八幡製鉄場は存在してなく、日本国内でも近代的な製鉄が始まったばかりの頃なので、鋼材は全面的に輸入で、台車もアメリカの「ハーラン・アンドホリングスウォース社」より輸入しています。写真でも、軸箱の上の部分に刻印が読み取れます。写真でもうかがえますが、台車は車体に対してずいぶん小ぶりで、客車の全景は、工場で仮台車に乗っているような感じがします。
 

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