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瀬戸内色

 投稿者:前納浩一  投稿日:2018年12月23日(日)14時03分57秒
返信・引用
  すぎたまさん、みなさん、こんにちは。

細かい指摘になりますが、常磐線の新色が出たのが昭和58/1983年で、瀬戸内色は57-11改正で登場した115系3000番代で採用された色ですので、瀬戸内色のほうが先に登場しています。

ちなみに、瀬戸内色も間違って「クリーム1号と青15号」と紹介した記事があり、それを鵜呑みにして模型を作った会社があったようですが、詳しいことは管理人さんのブログに書いてありますので、そちらを参照なさって下さい(笑)。

それと、JR九州の415系も似た色ですが、青20号ではなくて、常磐線の415系1500番代と同じ青23号だそうです。でも、下関駅で瀬戸内色の115系と九州の415系が並んだ時、一生懸命見比べたのですが、良く分かりませんでした。
また、JR九州の415系1500番代はもっと明るい青で「青25号」となっていますが、一説には「小田急の青帯の流用」とも言われています。回り回って元の色を採用したということになるのでしょうか?!
 
 

モハ50系列の台枠、ナデ6141の台車の刻印について

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年12月23日(日)13時39分26秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんにちは

モハ50系列の台枠について
新参者さん、初めまして
 私にとってのモハ50系列台枠についての記述の初見は、RP84-10号(特集 国電80年(2))で、P44~45「鋼体改造車―モハ50形」中に、

初期のものは台ワクの外側に側梁を増設して、2800mm幅とし、後期のものは側梁を外側に移設して車体幅を合わせている。トラスロッドは中央の2本を残し、外側の2本を残したものもあれば、全部取り外したものもある。

との記述があります。
 これに対して、「旧型国電50年(1)」では、「トラス棒」の変化に注目しており、「3本」から、「左右2本だけ」に変化し、台枠の形式がUF31からUF112、UF32からUF113への変化と関連するように記述されています。
 これを踏まえると、モハ50系列の台枠の変化は「側梁の“追加”から“移設”への変化」と「トラス棒の減少」の変化が起こっていることになりますが、「台枠の形式の変化」が、「何が変化したのを反映」したのかがわかっていない、ということになります。このため、台枠の変化が「トラス棒の減少」「側梁の外側への移設」の順番で起こり、台枠の形式変化が「トラス棒の減少」の段階で起こっていたとすると、「UF112」が「UF31」と同様に、「側梁が外側に追加」の形態をとっていることがあり得ると考えられます。
 また、トラス棒の減少の段階も、1段階だけでなく、2段階(4本から2本と、2本から0本)あったと考えられ、これを踏まえると、台枠の変化が側梁の変化を加えた3段階あるいはそれ以上の段階を踏んだ変化が起こっていることが考えられ、「UF31からUF112への変化」が「どの段階の設計変更を反映したものか」を調べる必要があります。

ナデ6141の台車の「刻印」の報告
 昨日は大宮へ鉄道模型のイベント「さいたま模型フェスタ2018」へ行ってきたのですが、併せて鉄道博物館へ足を伸ばし、「ナデ6141」の台車の刻印を調べてきました。
 以前、幌内と小樽に保存されている車両の「TR11台車」の刻印を報告しましたが、より古い車として「ナデ6141」に注目しました。三笠と幌内のオハ31系列の車に「SEITETUSHO YAWATA」の刻印があり、八幡製鉄所で製造された鋼材を使っていることがわかりましたが、八幡製鉄所は、建築から本格操業までかなり長い期間がかかったことから、「古い台車では八幡製鉄所以外の鋼材を使っているのではないか」と考えたのが調査の動機でした。
 写真上は、この、ナデ6141の台車の刻印で、結局「SEITETUSYO YAWATA」が確認でき、八幡製鉄所の鋼材でした。ナデ6141は1913年(大正2年)製造で、台車は「明治43年式」なので、明治末年頃には八幡製鉄所の鋼材生産が安定していたことが伺えました。
 写真下は「開拓使号」の台車の刻印で、小樽に保存の幌内鉄道の客車と同じ、幌内鉄道の客車なので、共通のものがあります。
 

省モハ50の台枠について

 投稿者:新参者  投稿日:2018年12月19日(水)00時25分40秒
返信・引用
  皆様の博識をお借りしたく、書き込みをさせて頂きます。

省モハ50の台枠がUF31からUF112へ変更となりましたが、UF112についての記述と図面について良く解らないところがあります。

こちらの皆様には、釈迦に説法の感がありますが、UF31の成り立ちとして元台枠であるUF13の幅が2180mm程度であり、その外側に枕木方向の延長材とそれに溝形材をレール方向に周回させて幅2800mmの台枠を得ています。

UF112についての記述で、鉄道ジャーナルの古い連載記事「車輛と共に30年」で「従前は外側に部材を足していたのを資材節約の為元台枠を外に出した」と言うような記述だったと記憶していますが、車両史編さん会発刊のオハ71の上巻にあるUF112の図面は、UF31同様UF13由来の側梁の外に新側梁が新設されています。
ただし、UF112の横梁は、UF31の様なUF13の横梁延長では無く、2800mm幅の側梁に合わせて交換されているように見えます。
この図面通りであるならば、あんまり資材節約には寄与していない気がします。または、図面がUF31の追加手直しに留まり、”旧側梁は無いという注意書”がこの書籍では抜けてしまったか。
この辺りについて、ご教授頂けたら幸いです。

木製客車のUF12が幅2800mm有ったのに、狭幅車からの継続とは言えUF13に幅2800mmの車体を載せていた事実には結構驚きます。
 

冗談みたいな常磐線新色

 投稿者:すぎたま  投稿日:2018年12月17日(月)20時36分4秒
返信・引用
  原口さんこんばんは。

常磐線の401・403・415系の新色ですが、あれも結構とんでもない理由で決まったとか。
あれは新幹線の色そのものなわけですが、つくば万博の際に、常磐線の中距離電車がアクセスに使われるわけだから、イメージアップを、ということで、何かいい新塗装の案は無いかと模索していた時、綾瀬駅に入線している(してきた?)小田急9000系を、当時の国鉄幹部が見て、「あの色はいいな。あれにしよう」と決めたとか。
それで、403系を1本当時結構流行っていた(例えば185系とか)クリーム色10号と、青20号に塗って、新塗装としたのだそうです。
ところが、「鉄道ファン」誌には、誤植で「クリーム色1号、青20号」と書かれていたからか、某エンドウ社のHO鉄道模型は、一部が「クリーム色1号、青20号」で出荷されてしまい、今ならリコールになりそうなものですが、結局そのままとなり、たまに中古で出ているのを見かけます。クリーム色1号、青20号はその後の「瀬戸内色」ですよね。

まあ、色の決定というものは、案外あれこれ考えてということではなく、ぱっとの思いつきで決まるものなのかもしれませんね。
たばこのケースから、というもの、当時は会議室が煙でもうもうでしたでしょうから、半ば当たり前なのかもしれません。

http://princesscomet.net/

 

47-3以降の富山港線

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年12月17日(月)00時28分45秒
返信・引用
  47-3以降の富山港線も表現してみました。

 47-3改正で、富山港線の運用は、Mc単独運用が無くなり、4両編成4本だけになりました。また、ラッシュ時も、4両編成2本が城川原で交換するように合理化されました。写真上はこの頃を表現したもので、先頭からクモハ40076―クハ79928―クモハ73363―クハ79244です。
 昭和49年から、クモハ73、クハ79の半鋼製車を置き換えるため、クモハ73形全金更新車、クハ79920台が順次転入しました。写真中央は置き換え過渡期の昭和50年ごろを表現したもので、先頭から、京阪神緩行線から転入したクモハ73049とクハ79920、昭和49年に一番最初に横浜線から転入したクモハ73013、半鋼製車で最後まで残ったクハ79220です。
 クモハ73、クハ79が全金車に統一されてからも、クモハ40076は残っていたのですが、昭和55年に御殿場線からクモハ73043、クハ79939が転入して置き換えられました。写真下はこの状態で、先頭から、御殿場線から転入したクモハ73043とクハ79939、続くのはクモハ73117とクハ79934です。この結果、クモハ73、クハ795両ずつの体制になったのですが、59-2改正でクモハ73、クハ79が1両ずつ(クモハ73117とクハ79934)廃車になり、残り8両で60-3改正による475系への置き換えが行われました。
 

色の由来、クモハ2段重ねなど

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年12月16日(日)23時59分42秒
返信・引用
  皆さんこんばんは

「色の決定」など
すぎたまさん
 丸ノ内線の色については、確かRP誌の里田氏のコラムの連載でも触れられており、「たばこの缶」の色がヒントになったこと、この時の「缶」を地下鉄博物館に寄贈したことが記述されていたように覚えています。丸ノ内線の電車についてはRF誌の連載記事も読んでおり、300形登場時、「遊園地の電車のようだ」とあまり評判が良くなかった、との話があったとの記述を覚えています。この時のたばこの銘柄について、Wikipediaを見ると「ベンソン&ヘッジズ(Benson & Hedges)」とあるのですが、私としては、先の書き込みで紹介したカーレース「F1世界選手権」の「ジョーダン・グランプリ」のメインスポンサーで、黄色をベースとしたカラーリングが馴染みでした。このため、ベンソン&ヘッジズは「赤」というイメージがあまりありません。
 先の新幹線とハイライトの話題でも触れましたが、「会議の場にたまたまその色のものがあったから」という理由で決定したものがけっこうありそうです。

 「色」については、「再現性」が問題になり、「マンセル値」が指定されていても、その通りに再現するとずいぶん感じの違う色になることがよくあります。1つの原因として、「屋外で日光の下にあるとき」と「室内での色」が光の状態の違いから、かなり感じが変わることで、「模型での色の再現」に頭をひねる要素になります。また、またカーレースの話になるのですが、現在のカーレースはテレビで見ることが多く、F1世界選手権では1970年代後半からテレビ視聴がかなり多くなっています。このため、車体の色を「テレビ(当時のブラウン管式)で見た印象」の方に合わせることが一般的で、「マクラーレン」の「マールボロ」のカラーをサーキットに出向いて現車を見ると、赤が「ピンク色がかっている」色になっていた、という話を聞いたことがあります。すなわち、テレビで見ると、マールボロの「赤」に見えるように調整している、というものです。
 「マンセル値」では、飯田線の快速色が、マンセル値をそのまま出力すると、腰板の濃青色が緑色に近い色になり、鉄道コレクションの飯田線快速色の製品では、湘南色とほとんど変わらないような色合いになっています。実際、RP83-4号の飯田線特集号で、昭和30年代前半に飯田線快速色の流電と湘南色の80系が並んで写っている写真では、両車の色の違いはほとんどわからず、飯田線快速色が「湘南色」と呼ばれても信じてしまうほどです。「旧型国電50年」P32に飯田線快速色のクモハ52005の写真(1959年11月22日撮影)が掲載されていますが、湘南色のような色合いです。同じ写真がRP83-4号にも掲載されているのですが、こちらはもう少し青みがかっています。このため、飯田線快速色は、今となっては「謎」なものになっています。

三鷹事件時のモハ63形2段重ねの編成について
 私も、編成表を見た時、「モハ63形が2両連続していること」が変わっていると思いました。確かに、当時は桜木町事故前で、「隣の車に行く」ことがあまり考えられていなかったと思われ、増結として、「単純に1両連結する」のは有りだと思いました。この方針が180度転換するのは桜木町事故の時で、これがこの場で話題になったのが、「京阪神快速線80系のクハ86背中合わせ編成」で、「何故クハ86形背中合わせになったのか」に対して、4両増結編成を作るために、大垣電車区から80系が借り入れられたのですが、「借入車を方向転換」してまでクハ86形背中合わせの編成を作っていたことが確認され、「隣の車に移動できることを徹底するためではないか」との説が出ました。

富山港線のMc単独運用について
 「モハ63形2段重ね」から思いついたのが、富山港線で見られた、McMcTcの編成でした。こちらは、Mc単独運用が設定されていて、増結運用に入るものです。始まりは昭和30年頃の社型が元南武のクモハ2000形、元鶴見臨港のクハ5500形が主体になった頃で、昭和42年の昇圧で、クモハ73、クハ79形になり、47-3改正での大幅な運用見直しで無くなっています。
 以下、写真は模型で再現したもので、上は昭和42年昇圧当時のMcMcTc編成で、クモハ73007―クモハ73355-クハ79244です。富山港線に転属した73系は、クモハ73355と、関西由来で詳細が不明なクモハ73007以外、昭和28年になってからの改造で、貫通扉の戸袋窓が整備されていた車なのですが、クモハ73355は「企画室コン」の「首都圏の72系」で、「貫通扉が未整備」との記述がありました。このため、1両単独運用では、「貫通路の締切が出来ない」(もしかしたらクモハ73007も同様)という問題が発生したと思われ、もしかしたらMc単独運用には入らないように考慮されていたかもしれません。また、クモハ73形では、クモハ73355だけが2段窓改造(クハ16219の部品を利用か?)されたのは、「貫通扉が無いことに対して貫通扉取付を併せて行ったため」である可能性も考えられます。
 写真中央と下は、47-3改正直前の3両編成を表現したもので、中央はBONA FIDE PRODUCTSの真鍮キットを君立てた、クモハ73305―クモハ73355-クハ79240、下はTOMIX製品加工のクモハ73361―クモハ73363-クハ79244です。47-3改正までは、ラッシュ時は3両編成2本と2両編成2本が運用に入り、下奥井、城川原、東岩瀬で交換していました。
 

色の由来

 投稿者:すぎたま  投稿日:2018年12月16日(日)14時24分30秒
返信・引用
  原口さん、みなさんこんにちは。

湘南色のもとは、「ハイアワッサ号」ではなかったでしたっけ?。
丸ノ内線の赤は、誰かの奥さんが来ていたカーディガンの色では?。
それら「鉄道ファン」誌などに出ていた話だったような気がしますが…。

丸ノ内線の赤は、当時評判が悪かったようで、今の「高輪なんたら」と同様のようですが、丸ノ内線はその後定着したのに、高輪のほうはあれだけ反対があるとどうですかね。

古い資料を入手しまして、甲武鉄道引き継ぎのデ963形院電ですが、当初の形式記号は「ろは、は」などのひらがな記号、のちにデとデニになります。しかし当時すでに付随車があり、それらも「デ」のままであったという記録になっています。著作権的に問題が無いことがわかれば(年代的に)、もう少し詳しく説明出来るかと思います。

失礼いたします。

http://princesscomet.net/

 

昭和50年ごろの関西の旧型国電など

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年12月16日(日)12時11分37秒
返信・引用
  皆さんこんにちは

先日紹介した、「アルファベータブックス」の「1970年代~80年代 続・関西の国鉄アルバム」から、旧型国電関係の写真を報告したいと思います。

京阪神緩行線の旧型国電は、P18(吹田―東淀川間、撮影日の記載は無し)とP19(岸辺ー千里丘間、1975年8月9日)の2枚が紹介されています。どちらもクハ70300台昭和31年型が先頭に立っていますが、P19の写真の方は、2両目がシル、ヘッダー付きの全金車で、しかもエンド標記がパンタグラフとは反対側に付いているので、エンド標記が書き換わった後の「モハ72018」です。また、この写真は上記のとおり「1975年8月9日撮影」と京阪神緩行線の旧型国電の最末期であることと、モハ72018が所属していた末期の明石電車区ではクハ79形が非常に少なく、奇数向きのクハ79は「クハ79395」しか存在しませんでした。また、クハ79395は、1-3位側は、前から3番目の扉だけ黒Hゴム支持であることが芝生さんの写真から確認でき、写真の車も同じ特徴を持っていることから、この車は「クハ79395」と確定します。3両目はモハ72500台で、1―3位側の前から2番目と一番後ろのドア窓が黒Hゴム支持です(一番前の扉は不明)。明石電車区のモハ72500台はあまり情報が無いのですが、少なくとも「モハ72707」が、前から2番目と一番後ろのドア窓が黒Hゴム支持で(一番前の扉は黒Hゴム支持)候補車になります。4両目は3扉の偶数向きのクハ55形で、戸袋窓が白Hゴム支持になっています。該当するクハ55形は、004,012の2両がいるのですが、どちらも1975年11月5日廃車です。違いとしては、009は裾リベットが1列、012は2列、ベンチレーター数が009は8個、012は7個(一番前のものが無し)という違いがあるのですが、ロングなのでここまでの確認はできません。5両目はモハ72000台奇数車のノーシルノーヘッダーの全金車です。1975年8月9日の時点で残っていた車は72021,079の2両です。72021は、「吹田工場」の改造車なので、前位の2連窓が扉の方に寄っていることで区別ができます。また、72079は1-3位側の前から3番目の扉が黒Hゴム支持でした。
P18の写真のクハ79形は、1―3位側のドア窓が一番前と前から2番目だけが白であとは戸袋窓を含めて黒です。また、「鋼製雨樋」であることが確認できます。このため、79453か79463ではないか(両車ともHゴムの色の資料は無し)と考えられます。

 片町線はP78~79の見開きの淀川電車区でのクモハ60163を先頭とした5両編成の写真(1976年12月18日撮影)、P79上の放出駅でのクハ79100台を先頭にした写真(1975年7月7日撮影)、P80上の四条畷駅でのクモハ73108を先頭にした写真、P81上のクハ79055を先頭にする写真(1975年7月19日撮影)の4枚です。
 クモハ60163の写真では、「シルバーシートマーク」が付いていることが注目されます。片町線でのシルバーシート設定は確か1976年10月1日だったので、それ以降の写真であることが確定します。2両目はモハ72920台で、1976年12月18日の時点で残っていたのは72954,956,961,963の4両で、このうち72954が、1―3位側の前から3番目と一番後ろのドア窓が黒Hゴム支持で、写真の車と同じ形態で有力候補です。3両目はサハ78形の、扉が1方向に開く300番台です。前位に向けて扉が開くので、残り1両になっていた、「サハ78375」と同形態です。また、左側の円形にクモハ73型が写っており、助士席窓の底辺が異様に高い形態がわかるのですが、この車は助士席窓がHゴム支持になっていた「クモハ73081」です。写真があまりに遠景で、Hゴムがわからず、木枠で底辺が高い、飯田線のクハ68400のような形態だと思ったのですが、昭和51年12月と最末期だったので、「クモハ73081」に同定しました。
 P79の写真のクハ79形は、当時の79100台の所属自体が79242だけになっていたので、「クハ79242」に自動決定します。
 P80の写真のクモハ73108の次の車は、サハ78形で、戸袋窓がHゴム支持なので「サハ78516,517」であることがわかります。
 P81の写真のクハ79055に続く車はモハ72500台の、戸袋窓に保護棒が残っている車、3両目はモハ72920台です。

 阪和線は、P110の、クハ55を先頭とする1975年6月15日撮影の写真、P114-115見開きの1974年11月30日撮影のクハ76―クモハ50-モハ72920台―クモハ60ノーシルノーヘッダー車の4両編成、P116の1975年6月1日撮影の紀ノ川橋梁を走る70系4両編成、P117の1974年2月撮影の山中渓―紀伊間を走る70系4両編成の写真が掲載されています。
 P110の写真ではクハ55形は平妻の0番台です。阪和線には001と007の2両がいましたが、007の方は前面の運行表示窓、戸袋窓をHゴム化しており、1-3位側の中央扉が黒Hゴムでした(田中さんの1975年2月の写真)。P110の写真の車は、クハ55007の方に形態が一致するのですが、1―3位中央扉が白hゴムである点が違いです。このため、田中さんが撮影した1975年2月から、P110の写真の1975年6月15日の間に入場して窓ゴムを交換したと考えられます。
 P114-115見開きの写真では、同じページのEF15形牽引の貨物列車が注目でした。貨車が「3軸ボギータンク車」を連ねており、専用種別が「石油類(除くガソリン)専用)と読めるので、「タキ55000形」であることがわかります。貨物列車は、先頭からEF15―ヨ6000―ワム90000―タキ55000が5両―タキ1500or3000が2両―ワフ21000―補機のEF52形の編成です。また、タンク車は全て「丸善石油」の社紋が確認できます。丸善石油は、和歌山から少し南の「下津」に製油所を持っており、最寄りの下津駅、加茂郷駅常備のタンク車がありました。「トワイライトゾーンMANUAL10」掲載の昭和54年4月1日の私有貨車常備駅名一覧表によると、「タキ55000形」が下津駅に55007~55011,55013~55015,55019~55025の15両が常備されていたので、その一員だとわかります。なお、丸善石油下津製油所は1982年1月に閉鎖されています。
 ちなみに、「丸善石油」の社紋は、2枚の円板の並びで、左側は赤い縁取りに「Z」の文字、右側は同じく赤い縁取りに「ツバメのマーク」でした。以前貨車関係の情報を調べていた時、「幼少の頃、「黒いタンク体に赤い鳥のマーク」の車が怖かった」との思い出を紹介していた方がいて、「その貨車は「丸善石油」か「キグナス石油」ではないか」とのコメントが有りました。「キグナス石油」の1987年までの社紋は「月に白鳥」の図案でしたが、キグナス石油(および全身の日本漁網船具)のタンク車は数が少なかったので、「編成単位で赤い鳥のマーク連なっている」のは上記の阪和線の貨物列車のように、丸善石油の方が有力と考えられます。

シルバーシートについて
 クモハ60163に「シルバーシート」のマークがついていたことを紹介しましたが、線区によっては旧型国電が残っている間にシルバーシートの設定が間に合ったところがあることが、末期の旧型国電では注目されます。片町線が1976年10月設定だったほか、横浜線と南武線が1977年10月1日で、旧型国電末期の1年くらいシルバーシートマークが付いていました。

 「シルバーシート」が最近話題のNHKの番組「チコちゃんに叱られる」で取りあげられたことがあります。

Q:なぜ高齢者のことを「シルバー」と呼ぶのか

に対して、

A:たまたま銀色の布地が残っていたから

という答えで、間に何もないと飛躍していますが、この間に「シルバーシート」が入ります。すなわち、昭和48年に「老人優先席」を設定した時、色分けをする座席のモケットが、新幹線用のシルバーグレーの布地だけが余っていたため、優先席用に転用したというもので、これに合わせて「シルバーシート」の名前が設定されました。座席の方はその後[優先席]の名前が一般化して、「シルバーシート」の言葉は使われなくなっていきましたが、ここから高齢者を「シルバー世代」と呼びことが派生し、こちらの用法は今に至っていることになります。

また、「チコちゃんに叱られる」で取り上げられた鉄道関係のものに「新幹線の色」があります。

Q:なぜ東海道新幹線の色は青と白

A:色を決める会議の席にあった煙草の箱が青と白だったから

というもので、会議の場に「ハイライト」の箱があり、その色に由来するとのことです。
煙草の箱に由来するものとしては「湘南色」も、会議の場で「オレンジと緑色」のパッケージの煙草の箱があり、この色に決まったとのことで、「ミカンと葉の色」の理由は後付であるとの話を見たことがあります。他に、地下鉄丸ノ内線の赤も煙草のパッケージに由来するとの話を聞いたことがあります。
 たばこのパッケージの色は、特徴的なものが多く、私が昔からよく見ているカーレースでは、たばこメーカーがメインスポンサーになった色の車が1990年代までよく見られました。「F1世界選手権」の「マクラーレン」の「マールボロ」の赤と白のカラーリングが有名ですが、「ロータス」の「JPS」の黒と金色のカラーリング、同じくロータスの「キャメル」の黄色1色も知られています。
 

三鷹事件事故車のゆくえ

 投稿者:すぎたま  投稿日:2018年12月12日(水)17時36分39秒
返信・引用
  73おやぢさんこんにちは。

再審が決定するのかどうか、まだわからないので、あまり踏み込んだことは書けないところもあるかと思うのですが、とりあえず再審関係の資料を入手しました。
それには、動力を有しているのは4輌という記載がありました。
よって
モハ63は4輌で、残りはサハ39とクロハ65ではないかと思われ、おそらく73おやぢさんがご呈示の、NHK出版「三鷹事件」に掲載されている編成表が正確なのではないかと思えます。
この資料には、後部のクロハorクハの前照灯が点灯していた話とか、運転台の切り替えスイッチが、1号車が切、7号車が後になっていないと回路が形成されない等の矛盾を指摘しています。
全体的には最低3人いないと、この事件は発生させることは困難で、竹内さん一人で出来ることでは無いのは、鉄道ファンの目から見ればもう明らかかと思いますね。これらが裁判官たちに、どう理解してもらえるか(例えば現代の人だから、7両は全てホロで貫通していると誤解するとか)が、再審になるかどうかの鍵の一つと思えます。

ということで、やはり「モハ63形下巻」のモハ63830は630の誤記で、それをさらに重複して記載してしまったのでは無いかと思えます。

別件。
モハ63ジュラルミン車について、その製造中を示す写真が掲載されている書籍(「科学朝日」)を入手しました。窓枠もジュラルミン製という記述があり、写真で見る限り、砂型から窓枠を取り出しているようにも見えるので、窓はどうなっていたのか…。
また窓の金具も、別途鋳物で作られている様子が見えるので、ジュラルミン車には独特な装備があったようにも思えます。無電装のモハ63400(のち900)が赤帯2本で試運転している写真もあります。
昭和22年発売の雑誌2ページなので、業務著作とすれば、著作権は消滅しているはずですが、転載可能でしょうかね。

失礼いたします。

http://princesscomet.net/

 

モハ63形下巻と三鷹事件

 投稿者:73おやぢ  投稿日:2018年11月27日(火)17時53分26秒
返信・引用
  みなさん、こんばんは。
すぎたまさん

三連休に「モハ63形下巻」を入手したので、まずは三鷹事件の項を見ました。
破損車が具体的な復旧年月とともに記載されているので、最初は「もしかしたら、本当かも」と思いましたが、よく見ると不自然でした。問題の車両の復旧日は、
63630…昭和24年12月、63830…昭和25年11月26日
となっています。一方、同書42ページに、大破した63630はモデル更新車として昭和25年11月26日に完成した旨の記載があります。同じ本で異なる記述は困ったものですが、63630のモデル更新は明らかな史実ですから、そうすると、ここでも63830マボロシ説も含めて、63630…63830に関する、何らかの錯誤がありそうな気がします。

編成の後部2両が早い段階で切り離されたのは、全く不思議です。当該編成は交検終了後に留置線へ転線し、翌朝の仕業に備えたのですから、鉄道関係者の目線なら転線時の先頭車こそ、まず調べるべき対象ではないでしょうか。留置線据え付け時の停止手配や転動防止手配がどうなっていたのかが、重要なはずです。暴走編成の先頭車(63019)こそ最有力証拠満載の“犯人”であるとするのは、いかにも警察・検察目線といえそうです。

 

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