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秩父鉄道100形鋼体化スケジュール

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年 5月18日(土)23時54分40秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんばんは

 秩父鉄道100形の製造は、自社木製車の台枠を順送りにしながら行われたことが知られていますが、台枠がどう流用されていったのか考えるため、excelシートを作ってみました。デハ100形とクハニ20形、クハ60形のシートを以下に貼り付けますので、excelに貼り付けてください。データはタブ区切りになっています。年月日はexcelに貼り付けるとオートコレクトがかかって表示が変わるので注意してください。また、クハニ20形のシートの方で、並びがずれたら「改造年月日」をそろえてください。

改造前 改造年月日 改造後
1950/10 デハ101
1950/10 デハ102
デハ10 1951/4 デハ103
デハ11 1952/8 デハ108
デハ12 1951/4 デハ104
デハ13 1953/7 デハ109
デハ14 1952/12 デハ110
デハ15 1952/12 デハ111
デハ16 1952/12 デハ112
デハ17 1952/2 デハ105
デハ18 1952/2 デハ106
デハ19 1952/4 デハ107
デハユニ41 1953/4 デハ113

入線前 改造前 改造年月日 改造後
クハ11 1953/4 クハ65
クハニ21 1953/7 クハニ21
クハニ22 1951/5 クハニ22
クハニ23 1953/7 クハニ23
クハニ24 1951/5 クハニ24
1952/9 クハニ25
1952/9 クハニ26
1953/2 クハニ27
1953/2 クハニ28
クハユニ31 1953/4 クハユ31 クハニ29(2)
南武モハ108 クハ21 1954/2 クハニ30
クハ23609 サハ23609 省サハ25010 クハ31 1953/10 クハ66
ホデ9 ホデ6108 ナデ6108 デハ6258 デハ二6470 サハ23637 サハ23629 省サハ25029 クハ32 1953/10 クハ67
クロハ6193 サロハ6193 サハ6193 省サハ25135 クハ33 1953/10 クハ68 クハニ29(1)

クハニ20、クハ60形の方は、改造前の省電時代の番号変遷と、改造後の番号変遷を併記しました。
 この中で注目なのは、元ホデ1形である、サハ25029に由来する台枠がどこへ行ったか、だと思いますが、改造年月日で並べなおしてみると、省木造車と南武社形は改造では最後に回っていることがわかります。このため、機器が標準化されている自社車両から鋼体化を行い、いろいろ違うところがある外来の車を後へ回す考えが伺えます。
 また、「車体」としては、デハ14, 17~19が弘前電気鉄道(後の弘南鉄道大鰐線)に移っていますが、これも含めて、鋼体化スケジュールを考えてみると、

(1)デハ100形、クハニ20形の車体を2両分準備
(2)デハ10,12、クハニ22,24が入場して機器を車体に移植、新デハ103,104、新クハニ22,24として秩父鉄道へ送り返し
(3)残った車体から台枠を流用して次の車を製作
(4)デハ17, 18, 19, 11が入場して機器を車体に移植、新デハ105, 106, 107, 108として秩父鉄道へ送り返し

だと思うのですが、ここでデハ17,18,19の車体は鋼体化へは流用されず、弘前電気鉄道へ回されています。そしてこれに代るかのようにクハニ25, 26が新製扱いで落成しています。さらに少し後にクハニ27, 28も新製扱いで落成して、弘前電気鉄道へ行った4両の車体と同じ分の鋼製車体が代替として新製扱いで落成したことになります。この後も大体4両単位で鋼体化が行われ、最後に鉄道省からの譲渡車が鋼体化扱いで更新され、更新が完了します。この中から余った車体となった元南武モハ108が弘前電気鉄道へ移籍しています。

ここで鋼体化されたデハ100形とクハニ20、クハ60形ですが、以前にも触れた、「両運Mcと片運Tc」として落成しています。このため、Mcを常用し、Tcを補助的に使う、私鉄での伝統的な車両の使い方で車体が設計されたことが伺えるのですが、McとTcがほぼ同数であることが変わっています。両運Mcと片運Tcの組み合わせでは大抵Mcの方がずっと多く、新京阪P-6や、阪和モタ300形、南武モハ150形や、現在でもJR四国7000形も同様です。
 
 

秩鉄の古台枠

 投稿者:新参者  投稿日:2019年 5月 4日(土)02時28分39秒
返信・引用
  こんばんは、皆様。

>原口様
いつもながら、ストックに感謝いたします。
ご呈示いただいたクハ二2Xの台枠とクハ二29の台枠は多分に元車種は別形式
(同型車で無い)と思われます。

クハ二29の方はUF31と同じく、旧側梁→延長材→新側梁となっているようで、
新旧側梁間が広めです。
クハ二2Xの方は、中梁→横梁に延長材→旧側梁→支持延長材→新側梁のように見えます。
新旧側梁間が狭めです。

クハ二29は元クハユ31と言われていますので、クハ二2Xよりも後に鋼体化されたのでしょうか?

どのみち木造車からの台枠ですから、博物館の記念物級な事には変わりませんが。
 

季刊J-Train「電車区訪問記」総集編発売

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年 5月 3日(金)20時32分27秒
返信・引用
  皆さんこんばんは

季刊「J-Train」で連載していた、昭和30年代を中心とした電車区の訪問記をまとめた「電車区訪問記 1960-70」が発売されました。
 「電車区訪問記」は過去何度かこの場でも紹介させていただきましたが、私の方で雑誌発売時の追跡から漏れたもの、総集編をまとめるに当たって追加された記事等があります。以前にこの場で報告したものとしては、津田沼電車区で偶数向きに方転されて使用されていたクハ79921の写真(P24)があります。
 雑誌では見ていなかったものとしては「陸前原ノ町電車区」があり(P11~19)、個々の車両の写真が紹介されていない、他の章とは異なる構成です。配置車両表は昭和37年と43年のもので、写真もほぼ同時期の、元宮城社形モハ2320形の末期で、省電は貫通化改造をされていない頃と、73系転入直後の、茶色が多く残っていた頃のものが多いのですが、17m車が貫通化改造された、17m車末期の頃の写真(P17)もあります。
 他、追加された記事は、電車区ではなく、路線で章立てされており、また、訪問した各電車区の構内配線図と空中写真が掲載されています。
 以下、注目した点を紹介します

(1)大垣電車区の美濃赤坂・垂井線用車(P121)
 訪問は昭和37年3月末のことで、当時はクモハ40050, 069、クモハ12000の3両体制でした。RP誌の20m級3扉車特集で紹介されたクモハ40050の「小さなスノープロー」をクモハ40069が装備しています。このスノープローは台車の方では車体の方に支持されています。

(2)富山港線の社形(P134)
 クモハ2000形の車号は、雑誌掲載時のままになっています。「クモハ2003」となっている車は、「クモハ2006」、「クモハ2010」となっている車は「クモハ2000」が正当と考えられます。

(3)「クモハ50」の記述
 飯田線のクモハ50の記述(P100-101)が鋼体化モハ50形の内容になっています。鋼体化モハ50形の解説が続き、最後に「昭和34年の改番で「クモハ50」に改番された」と記述されており、「クモハ50」が勘違いされたままになっています。

(4)クモハ50002への改造前の「クモハ53003」時代の写真
 「大船電車区」(P59~68)にクモハ50002の改造前の「クモハ53003」の写真があります(P66)。以前この場で、「クモハ50002が偶数番号なのに床下機器が奇数配置なのか」質問をしたことがありますが、写真は、クモハ50へ改造される直前の昭和38年ですが、偶数向きになっていることが確認できます。

(5)埋め込みヘッドライトのクハ16形
 「昭和30年代」という時期からか、埋め込みヘッドライトのクハ16形の写真が多く見つかった印象があります。クハ16以外ではクモハ60010(P53)があります(1963年9月7日撮影)。旧型国電の末期では外付けのLP402が一般的になりましたが。それまでにあった「砲弾型」や「埋め込み型」が電灯の大容量化による交換で標準化された格好になります。埋め込み型は、大型の前照灯向けへモディファイされて阪和線のクモハ60001や北関東ローカルのクモハ41044等で見られましたが、砲弾型はまったく見られなくなっています。
 

秩父鉄道クハニ20形の台枠(その2)台枠の延長工事の痕跡など

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年 5月 3日(金)12時37分27秒
返信・引用
   写真上は中梁の「延長切り継ぎ部」と考えられるものです。手前の中梁の下面と側面に当て板が付けられ、リベットが打ちこまれています。奥の中梁にも、同じようにリベットが打ちこまれているのですが、下面の「当て板」が見られないのが異なっています。木造車に対して2mほどと長くなっているので、もう1か所接続部があることになります。
 写真下は床板の貼り方を見たものです。客車では台枠の上に角材を載せてその上に床板を貼っているのですが、この車の場合、横梁の横に角材を載せる金具を付け、その上に角材を載せています。このため、台枠から見るとその上に直接床板が貼られた格好になります。

 なお、飲食店にはもう1両、ワム80000形が利用されており、クハニ20形と併せて道に向けてコの字型にレイアウトされています。この車は標記が確認でき、写真のように検査標記に「1-12 広島」の文字が読めます。また、車号は「281374」と読めました。
 

秩父鉄道クハニ20形の台枠(その1)内側と外側の側梁の関係

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年 5月 3日(金)12時11分49秒
返信・引用
  皆さんこんにちは

新参者さんより三峰口のクハニ29の解体の情報が寄せられましたが、実は私も観察をしようと連休中に出向こうと考えていたところでした。気を取り直して、もう1両、残っているクハニ20形の床下を観察してきたので報告したいと思います。

 もう1両のクハニ20形は熊谷市内で飲食店として利用されています。この車は中央で切断されてL字型にレイアウトされているのですが、「据えつけているところ」を見たことがあり、飲食店としても30年以上の営業になります。
 写真上が新参者さん指摘の「二重台枠」です。構造は、内側の台枠の外側にL字型の金具を取り付け、そこに外側の台枠が取り付けられています。なお、車両の要目(RMアーカイブス33 私鉄車両めぐり・関東(2)掲載の木造車時代の車両の要目(P72,73)と現有車の要目(P76,77))を見ると、木造車から鋼製車になった時に幅はだいたい2600mmから2800mmに広がり、全長は15.3mから17.6mとなっています。内側の台枠から約10cm外側に外側の台枠が付いているのですが、木造車時代も外板よりも10cmくらい内側に台枠があるように見えるので、台枠を作った時に、元の側梁から10cmくらい外側に梁を付け直したと考えられます。
 写真中央は、上の写真で奥に見える側梁と横梁の接続部分に接近したものです。側梁と中梁を接続する三角形の当て板の内側に溶接跡のようなものが見え、もしかしたら側梁を外側へ移設した時に間に挟み込んだ部材の溶接痕かもしれません。
 写真下は、客用扉の部分です。ちょうど元はステップが付いていたところになるのですが、ステップを切り上げるに当たって、外側の台枠の間を継ぎ足すように部材を挟み込んでいます。この部分の外側の台枠を紫綬する金具は、写真上のものとは形が異なっているように見えます。
 

秩父鉄道クハニ29

 投稿者:新参者  投稿日:2019年 5月 1日(水)23時18分39秒
返信・引用
  皆様、こんばんは。
残念ながら5月から解体になります。近づくことができなくなってしまい、詳しく観察できなかったのが残念です。

この車両の鋼体化では登場時ステップ付きということもあり、UF31(UF115)とよく似た二重側梁が採用されています。
この元台枠は公式説明とは異なり、秩父自社木造車ではないかと言われていますが、もし公式どおりサハ25由来であったら、UF31等の参考になったかもしれません。
気づくのが遅すぎました。
 

富山港線の元南武社形クモハ2000形の形態分類

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年 4月30日(火)00時36分31秒
返信・引用
  皆さんこんばんは

昭和30年代から昇圧までの富山港線の主力車両だった元南武社形クモハ2000,2010形の細部形態の違いを表現した図を作ってみました。

元南武鉄道モハ150形は、150~159の10両がいたのですが、戦災廃車になったモハ157以外の9両が可部線に転属して、昭和20年代後半の可部線の主力をなしていました。そのうち、浜松工場の事業用車になったクモハ2002、クエ9424になったクモハ2004、クハに改造されて早期に廃車になったモハ2005以外の6両が昭和30年代初頭に富山港線に転属しました。ここまでの過程で両運転台の整備あるいは片運転台化、省標準機器への交換が行われ、富山港線では、どこかしらの形態の違いが発生していました。
最も特徴的なのが、雨樋縦管の位置で、原型は雨樋が無かったのが、雨樋の整備が行われた時に縦管のレイアウトに変化が起こりました。確認できた位置は、

両側客扉の車体中央寄り:2000, 2010
両側客扉の車体後位側:2006, 2007
両側乗務員扉の内側:2003
車体角近くの側面側:2011

で、扉の形態(腰板のくぼみが3分割と分割なしに分かれ、分割なしは2000, 2007)と組み合わせると、2000と2010、2006と2007も区別できるので、車号がわからないくらいのロングの写真でも区別が可能です。
また、パンタ側の昇降ステップのレイアウト(2000は公式側の写真が見つからず、不明)も基本的には乗務員扉の後ろ側なのですが、雨樋が乗務員扉の前にある2011は雨樋が支障するため、ステップが乗務員扉の後ろに付いています。また、2006が、雨樋は支障しないのになぜかステップが乗務員扉の後ろです。
側灯は、一番前の扉の外側肩の幕板にあるのが一般的ですが、2006だけが位置が少し下がってヘッダーの下になっています。
床下機器は、CS5制御器は共通ですが、その前にある、表に見える抵抗器は大型2個が大多数ですが、2006は小型4個です。また、その前の各種の機器は違いがあって、台車の横にあふれている機器の配置とともに個々の車でかなり違っています。
テールライトはげんこつ型が基本ですが、2006の後位だけが埋め込み型です。この車は一旦後位運転台を撤去しているので、運転台復旧の時に新しいものが取り付けられたと考えられます。また、同様に運転台復元が原因か、乗務員扉の形態も異なっています。

図面を書いてみて気づいたのですが、クモハ2000形は、床下機器の標準化がかなり進んでいます。CS5制御器については、RP00-5臨時増刊の慶大鉄研号と、その補遺で触れられているのですが、「南武鉄道モハ150形としての新製当時からCS5を装備していた」という記述があるそうです。少なくとも昭和20年代の可部線時代にはCS5でした。
なお、DT30台車は、形態の似ているDT11台車をベースにして、ホイールベースを詰めるモディファイをして、ボールドウィン台車風にしました。
 

付随車と制御車の「分化」あるいは「独立」

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年 4月27日(土)09時13分12秒
返信・引用 編集済
  皆さんおはようございます

 以前この場で制御車の「ク」と、付随車の「サ」の符号の由来について、電車の技術的発展との関連を踏まえて議論されました。その過程で、鉄道院―鉄道省では、まず、現在の区分では「制御車」となる車が、“付随車”と名付けられて、「トデ」の符号が付けられ、さらに「ク」と改められたこと、その後で、現在の区分では「付随車」となる車が誕生して、区別のために制御器の有る車が「ク」、制御器の無い車が「サ」と改めて符号が付けられた、という過程が確認できたのですが、同時期の私鉄を見ると、「付随車」と「制御車」を積極的に区別していないところが多いことに気づきました。

 写真は、最近中央東線特急から撤退したE257系のクモハE257(2014年1月22日、松本駅で撮影)ですが、この形式の運転台は、増結、解放の時だけに使用が限られ、このために「クモハ」と制御電動車の形式が付けられていながら、運転台の機能は簡易的なものになっています。昭和戦前の制御車の使い方も、クモハE257形に似て、関東の省電では営業運転では中間封入で、運転台の使用は連結解放時に限られていました。また、私鉄では、両運のモハが運用の主体で、制御車はラッシュ時の増結に限られていました。この使用状況では、制御車と付随車を積極的に区別する必要性に乏しい、という事情も考えられます。
 当時の「付随車」と「制御車」の考え方がわかる例として、「新京阪鉄道」の「P-6」の符号があります。当初は形式符号をつけていなかったところ、鉄道省から「形式符号をつけよ」とを勧告され、「デイ100」の形式符号をつけたことが知られています。電動車は「デ」の符号が付けられましたが、制御車は、「制御車」ではなく、「付随車」から「フ」の文字が取られて「フイ500」「フキ500」の符号が付けられました。また、新京阪鉄道(あるいは京阪合併後の新京阪線)では運転台の有る車を「付随車甲」、運転台の無い車を「付随車乙」と呼んでいた、という情報もありました。これらの事柄から、新京阪鉄道では「運転台はあるがモーターが無い車」を「制御車」としては認識してなく、「付随車」として認識していたことがわかります。また、「イ」の符号も、P-4, P-5が「デロ」、P-1が「デハ」の符号が付けられたことから、最新の形式に「イ」、その前の形式に「ロ」、さらにその前の形式に「ハ」と順番で付けられたと考えられます。
 また、武蔵野鉄道と合併前の旧西武鉄道では制御車を付随車をまとめて「サ」の符号をつけていました。これは、自社の車の定義に「付随車」の用語と「サ」の符号を鉄道省から導入したことを示しています。「制御車」と「付随車」を区別しない私鉄はけっこう多く、車両の解説で「制御車と付随車を区別していない」という注釈をしばしば目にします。
 “制御車を「増結用」として使う”という目で見ると、確かに「付随車」という用語は当てはまります。また、「制御車」と「付随車」を区分しないということは、車両の運用上積極的に区別することに乏しい、ということになります。“「制御車」を積極的に区分する必要に迫られる”ことは、“「制御車」が積極的に先頭に立って営業運転をする”状況が発生した時、と考えられ、時期の下限は「80系湘南電車」の運転開始になるのではないかと思います。80系は「中間電動車の誕生」が特筆されますが、「制御車と付随車の分化」という点でも注目すべき点ではないかと思います。
 

南部支線、鶴見線17m旧国の製作

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年 4月26日(金)00時06分18秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんばんは

先の富山港線17m旧国に続き、南部支線と鶴見線の17m旧国を製作したので紹介したいと思います

 KATOの17m旧国は、「南部支線セット(クモハ11248-クハ16007)」「鶴見線セット(クモハ11425-クハ16426)」「鶴見線付属セット(クモハ11443-クハ16480)」が発売されたのですが、手すりと箱サボ枠の別パーツ化だけで済むかと思ったとところ、重加工を要求される点が多かったことがわかり、加工に手が付かないまま保留していました。その間に先の富山港線の方に鶴見線増結セットの方を転用しています。

 写真上は鶴見線17m車で、基本セットの加工です。これは手すりと前面箱サボの別パーツ化だけです。加工をためらったのは、付属セットの方が重加工を要求されたためで、基本、付属セット共に「全室運転台でリベットのある車体」で模型化されているのに対し、「クハ16480」はノーリベットであるため、「リベットを全部削り落とす加工」が必要になります。また、鶴見線の末期(昭和44年以降)では、リベットのあるクハ16400台は16426の他、奇数向きの16449だけだったため、別番号に書き換えるのも不可で、結局リベット削り落としが必須になります。このため、「窓枠を修正して半室運転台化」の方が楽と考えて、付属セットを富山港線に転用した次第です。

 写真中央は南部支線17m車ですが、こちらはクハ16007に重加工が要求されます。すなわち、以前にも紹介している、「ドア形態がクモハ11248と全く同じになっている」点がエラーで、プレスマークの無いHゴム窓になっている非公式側中央と公式側前の扉を、Little Japan Modelsのクモハ42の2段窓ドアに交換し、さらに非公式側一番前の扉をプレスマークの無いHゴム窓の扉に交換しています(写真下)この扉は、鶴見線時代から、昭和52年頃までは2段窓の扉でしたが、その後交換されていることが確認でき、最後の全検時に交換されたと考えられます。

 避雷器は、鶴見線セットの方はパイプ型(LA13)、南部支線セットの方はリブのあるドラム缶型(LA15B)が付いています。これは、鶴見線セットの方が微妙で、「昭和47年時点」とすると、ドラム缶型(リブの無いLA15A)に交換されていた可能性が有ります。昭和40年代前半は、避雷器は過渡期で、それまでの箱型(LA12)、パイプ型(LA12)、亀の甲型(LA13)、釜飯型(LA15)がドラム缶型に交換されていった頃で、当時の旧型国電はけっこういろいろな避雷器を付けていたことが確認できます。これらのうち、釜飯型は山陽本線を走るEF60形に遅くまで残っていて、国鉄末期に高崎に転属した時にドラム缶型に変わっています。これは、ドラム缶状のカバーは、避雷器に高電流が流れて弾け飛ぶ破片を防ぐ目的があり、関東内陸は雷の発生が多いことと関係があります。

 パンタグラフは、首都圏の旧形国電で一般的だった「灰色のPS13」を搭載しましたが、「大井工場ではいつ頃からPS13が灰色になったか」は不明瞭です。富山港線の73系は、パンタグラフが灰色で、首都圏からの転属車によって持ち込まれたと考えられるのですが、先日報告した17m車は、パンタの色がわかる写真が見つからず、とりあえず黒のままにしています。富山港線へは昭和40年に転属しているので、当時既にパンタのグレー化がされていたとしたら、富山港線でもグレーだったと考えられますが、「お客様の部屋」の元関西旧国利用者さんの写真を見ると、昭和43年時点の鶴見線17m車では、まだ黒のようで、昭和47年時点ではグレーに変わっているように感じます。

 なお、鶴見線の17m車最終期のモハ50系列を「リベットの有無」で区分すると、クモハ11400台では、全10両中、リベット有は425, 427, 429, 441, 443, 451の6両、無は452, 476, 491, 509の4両で、リベット有の方が多かったのですが、クハ16400台では、リベット有は上記の426, 449の2両だけで、リベット無は455, 476, 482, 510, 514, 521, 532, 538, 542, 548, 551, 552の12両とずっと多いです。

「西部警察」に見る、昭和50年代の首都圏の電車について
 「西部警察」を放映していたのは、昭和53年から59年で、山手線の南半分の周辺が主なロケ地だったようで、当時の首都圏の国電や私鉄電車がよく出てきます。地方ロケでも鉄道が出てきて、「九州横断大捜査網!」では、先に紹介の三井三池鉄道関連では、「ヤードを埋め尽くす石炭車」が出てきます。また、「日向市から福岡市への移動」に475系急行「日南」が出てきます。
 急行型電車では、確か昭和57年中の放送回で、「東京から宇都宮への出張」で、455系急行の映像が出てきて、急行「まつしま」辺りで宇都宮へ出かけたという設定になっていたようです。
 他、「九州横断大捜査網!」の少し後の回で、浅草駅でのロケがあり、電車に乗るところを「外から撮影した場面」から「中から撮影した場面」に転換するのですが、別の列車で撮影したようで、「外からの撮影」では7800形だったのが「中からの撮影」では8000系に変わっていました。
 他に電車で覚えているのが、「西部警察」に先行する番組の「大都会」で、昭和50年に放送された会で、「熱海への出張」で登場した電車が「原型大型ヘッドライトの113系湘南電車」でした。東京口の113系湘南電車は冷房化のために車両の差し替えが活発だったこともあって、原型ヘッドライトの車はかなり早い段階で無くなっており、昭和50年でも最末期だったと思います。
 旧型国電では、「太陽にほえろ!」で鉄道が取り上げられた回として有名な1984年11月23日放送の第625回「四色の電車」で、容疑者の自宅を家宅捜索した時に、壁に貼ってあった鉄道写真の中に「大糸線のクモハ43810」の写真があったのを見つけました。
 

訂正その他

 投稿者:新参者  投稿日:2019年 4月19日(金)22時17分2秒
返信・引用
  >すぎたまさま
そうでした、66ですね。昭和58年の引退直前にクハ66000で身延線を乗りつぶしたっけ・・。

その後新日本紀行がアーカイブされていることが判り、該当を探しましたが見つかりませんでした・・。
番組構成が「新日本紀行」とは異なり(普通、事象の背景やインタビューが入るハズ)、ひたすら列車ばかり追っていたので、風景撮影(最近でも深夜に流れるような)に近い位置づけだったやつかもしれません。
 

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