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直列運転?

 投稿者:すぎたま  投稿日:2019年12月31日(火)11時40分31秒
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  原口さんこんにちは。

阪和線での2モーター運転ですが、もし本当だとすると、「直列制御」しかできないことになりますね。
モーターの端子電圧は750Vでしょうから、2個モーターにしてしまうと、並列につなぐと理屈の上では1500Vが1個のモーターにかかってしまいます。
したがって、2個モーター車は直列制御しか出来なくなると思うのですが、そうすると鈍足になるわけで、そのあたりどうしていたのだろうと思います。
戦後の車輌事情が悪い時期、小田急でも「片肺電車」と称する2個モーターの車輌があったそうですが、当時は並列運転が可能な状態では無かったようなので、問題無かったということなんでしょうか。
なんか認識間違っていますかね…。

http://princesscomet.net/

 
 

阪和社形の「2個モーター」の記述

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年12月29日(日)23時37分16秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんばんは

秋以降、古書店で鉄道関係の本をいくつか購入しているのですが、確か以前この場で話題になったことがあるJRRの「大阪の国電」を購入しています。関西に新製投入された省電の「方向」についての記述があるのがこの場でも話題になったのですが、この中で阪和社形モタ300、モヨ100形について気になる記述がありました。

 阪和線の阪和電鉄時代の記述はP20~24、および資料ページのP62~64にあるのですが、この中に、「阪和電鉄時代、電動車の大多数は“2個モーター”に減らされていた」との記述があります。これは、阪和電鉄の開業と、昭和戦前の「恐慌」が重なったために会社の経営状況が極めて苦しかったことと関係しており、整備がままならず、回生制動を装備したモタ325~327を超特急「黒潮」用として重点整備した以外、使用可能な部品の不足から、「2個モーター」に減らした、というものです。クテ705,706のモタ321,322化と、モタ300形最後の3両のモタ328~330のモーターも、在来車から外して転用したもので、最初から2個モーターで落成した、とあります。阪和電鉄時代の「2個モーター」の記述は、「鉄道史料」の「阪和盛衰記」にもあったかもしれませんが、私としては、初めて見たものです。
 また、阪和電鉄の経営状況にも触れられていますが、RP87-12号でも詳述されており、天王寺駅付近の高架橋など、初期投資がかさんだことと、開業と恐慌が重なったこと等による経営難が続いたことが大きく影を落としたことが記述されています。さらに、「大阪の国電」では、開業時の経緯が、当時の2大政党、政友会と民政党の対立が持ち込まれた、極めて政治的色彩の強い鉄道計画だったことも記述されています。また、RP87-12号には、「阪和電鉄は社史を発行しなかった」ことが記述されており、車内の情勢を記述する資料が極めて少ないことが記述されており、このために、上記の「2個モーター」等、車両整備体制など、社内の情勢が「伝聞」でしか伝わっていないことが阪和時代の車輌動向の資料を極めて乏しいものとしています。
 経営状況に関連して、阪和電鉄当時について、あまり評価が高くない既述が古い雑誌で多く見られます。「大阪の国電」でも記述がありますが、他にRPアーカイブスに収録された昭和20年代末の阪和線のレポートや、「阪和盛衰記」も、「超特急」の運転と併せて、あまり評判が良くありません。
 なお、超特急「黒潮」の運行の開始は、モタ325~327が落成した昭和10年のことで、1運用で済む(2連の牽引車が機織り運用をする)ため、最低限の両数が重点整備されたことになります。

 昭和15年に阪和電鉄は南海電鉄に統合され、「南海山手線」になるわけですが、南海になってから、「2個モーター」から「4個モーター」への復元が行われた、と「大阪の国電」で記述されています。4個モーター化と同時に、Tc車の投入も進められ、いわば「0.5M車による運転」から「1M車にT車を連結した運転」へと切り替えられたことになります。後に南海山手線買収の時、南海電鉄は「山手線の輸送力強化のために重点投資してきた」ことを理由として、「一部の車両の買収免除」を新製したことがRP87-12号で記述されていますが、車両増備(モタ3000形、クタ7000形、クタ600形)だけでなく、かなりの数の大出力モーターも購入していることになるので、確かに現在の南海本線系統と比べても結構な投資になることが伺えます。
 

RM Models Archive「鉄道車両ガイド 国鉄70系電車」の発売

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年12月29日(日)01時00分28秒
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  先日、RM Models Archive「鉄道車両ガイド 国鉄70系電車」が発売になりました。

注目点としては、押し込みベンチレーターを取り付けたモハ70047の写真が掲載された(P40)ことです。モハ70047は、仙石線の押し込みベンチレーター取り付けの記述から漏れることが多く、文献からは「押し込みベンチレーターへの交換が行われた」という証拠が見いだせない状況であったため、初めて「文献で押し込みベンチレーターの取り付けが確認できる」記事が掲載された、と言えます。
モハ70047が押し込みベンチレーター取り付けの記述から漏れるのは、仙石線へのモハ70形の転入が、「京阪神緩行線から3両転入した(70123, 124, 125)」ことだけが紹介されること、ベンチレーター取り付けはこの3両のの年月日記述だけがあること(70047は、履歴簿にベンチレーター改造の記述が無いようで、「鉄道史料」では、「新前橋電車区時代に改造か」と推測されている)、中部山岳ローカルへ転出した車は3両(70047, 123, 124)であることで、それぞれ「3両」という共通性が有るため、モハ70047に記述が及ばないことが考えられます。

また、前面の形態についても記述が多く、先に紹介した、広島運転所での「角のRが強いHゴム窓への交換」が記述されているほか、特異車として、木枠窓でも、左右で木枠の厚みが異なるクハ76033(P27)、窓の天地が小さく、幕板の手すりと窓上辺との間の間隔が広いクハ76064(P27)の写真があります。また、ワイパーが唯一吊り下げ式のクハ76037(P27, 55)の記述もあります。
 

院電創始時の機器

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年12月29日(日)00時44分3秒
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  もう1冊購入したRF誌(69-1号)の方の記事は、ホデ1形1~10が記述されていました。電気機器は、マーケットストリート鉄道105号およびナデ6141のゼネラル・エレクトリックではなく、シーメンスで、だいぶ違ったものが付いていたことになります。ホデ1形の新製は明治42年(1909年)で、台車も、イコライザー式でない、かなり異なったものが付いていました。院電はしばらくシーメンスとゼネラル・エレクトリックが並立していたのですが、第1次世界大戦の勃発(1914年8月1日)によって海外品の輸入が途絶し、技術的にはゼネラル・エレクトリックの系列に一本化されることになります。また、モーターも、国産化が図られることになります。RF68-7号の日立電鉄デワ101訪問も、元々は、この「最初の国産モーターの追跡」が動機だったと記述されています。最初の国産モーターは大正5年(1916年)から11年(1922年)にかけて300台近く作らましたが、「50馬力」と出力が小さいためにこのモーターを装備した車は早期に付随車化されています。

ついでに、RF68-7号には、「京浜急行車両70年史 1」として、草創期の京浜急行の車両が紹介されているのですが、その中でのクハ27(P20)が、前面3枚窓で、窓の上辺が円弧を描いている、マーケットストリート鉄道105号と同じレイアウトになっており、製造も「天野工場1911年製と、105号と同年です。
 

ナデ6141の床下

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年12月29日(日)00時27分23秒
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  併せて、ナデ6141の床下も観察しました。

写真上は少し前にも触れた、側梁と車体の支持部の様子です。側梁は車体外板よりも少し内側で、側梁から三角形の金具を外側に突き出し、そこで外板を支持しています。木造車の時代は、この「三角形の金具」を伸ばすことで車体の幅を広げたことになります。

写真中央は空気圧縮機でしょうか、「生きていた国電木造ボギー車」でも、「空気圧縮機はいわくありげなものが逆転機と並んで付いている。同車の人の話ではこの圧縮機はまことに具合がよく、転属になって以来ほとんど手を加えたことはないそうである。」との記述があります。

写真下は「碍子の屋号」です。何かの植物をかたどったもので、実は、これと同じものを12月1日に東武鉄道南栗橋車両センター一般公開で休憩車として使われていた東武8000系8111編成でも観察しました。この碍子を製造したメーカーは50年以上にわたってこのタイプの碍子の製造を続けていたことになります。

なお、床下機器の碍子は、国鉄では205系、東武鉄道では10000系まで使われていることを確認しているのですが、最近の車両からは無くなっています。近い将来、床下から碍子が無くなる可能性が高くなってきました。
 

鉄道博物館のナデ6141の運転台機器

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年12月29日(日)00時13分55秒
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  帰国してから、マーケットストリート鉄道105号とホデ1形の運転台について報告しようと考えていたところ、しばしば訪れている古書店でRF68-7号と69-1号の表紙の目次が目につきました。RF68-7号の方は「生きていた国電木造ボギー車」、RF69-1号は「国電最初のボギー車とその生涯」で、早速購入し、記事を確認しました(写真上)。この少し後、12月21日に、大宮のソニックシティで開かれた鉄道模型関係のイベントに行くのに合わせて、鉄道博物館を訪れて、ナデ6141を観察しました。

写真中央は、運転台仕切りを挟んで撮影した、ナデ6141のコントローラーです。向こう側に「GENERAL」の文字が見え、これもゼネラル・エレクトリックの製品と確認できました。
写真下は、2位側の外側から撮影した、運転台の様子です。RF68-7号「生きていた国電木造ボギー車」は、当時日立電鉄デワ101として現役だったナデ6141の訪問記(1968年9月25日)で、運転台の様子が

「運転台は開放型であるが、中央背面に仕切りを設けてあり、まず古物の主幹制御器が目を引く。砲金の鏡板にはゼネラル・エレクトリックの文字がはっきり鋳出してあり、製造年は不明であるが恐らく当初のものと思われる。右手にはウェスチングハウス式と明記された三菱製のブレーキ弁が付いており、これは大正15年製と昭和5年製であったが、ブレーキ装置に本車を含めた同族がウェスチングハウスの自動式を採用した最初のものと言われている(国電発達史より)。このほかの機器としては圧力計と、芝浦製のカノピースイッチがついているくらいで、今の電車から見ると運転台はまことに質素なものである。」

とあり、現在のナデ6141と同じ状況が記述されています。
「ゼネラル・エレクトリックのコントローラであること」が、105号とナデ6141と共通で、ナデ6141は大正3年(1914年)で、一応ナデ4161の方が少し新しいことになります。しかし、当時甲武鉄道由来の単車から、制御機器を外し、ボギーの新造車に転用することが行われており、甲武鉄道の単車の制御機器はゼネラル・エレクトリックなので、写真のコントローラーは、ナデ6141として新製された時に輸入されたものではなく、甲武鉄道単車から転用されたもの、もしかしたら同じ鉄道博物館に展示されている元甲武鉄道デ968から転用されたものの可能性が有り、この場合、明治37年(1904年)から明治39年(1906年)製造の車なので、こちらの方が一段階古いことになります。
 

マーケットストリート鉄道105号の運転台機器

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年12月28日(土)23時30分51秒
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  写真上は105号のコントローラーです。コントローラーの蓋の手前に「GENERAL ELECTORIC CO.」と、鋳出しされています。また、右奥の方に「No.1736」でしょうか、製造番号らしいものが刻印されています。
写真中央は、右側の窓柱近くにレイアウトされている、ブレーキ関係のいろいろなハンドルです。
写真下は、これらの機器の説明です。同時期の日本国内の保存車と併せて見比べてみてください。
 

院電創始時の面影をもとめて:サンフランシスコ・メトロミュージアムより

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年12月28日(土)23時17分59秒
返信・引用
  皆さんこんばんは

12月に入って用務でアメリカへ出張していました。
久しぶりにサンフランシスコを訪問したのですが、フェリーターミナル近くにあるメトロミュージアムに行ってきました。ミュージアムには、現在のサンフランシスコ市営鉄道(MUNI Metro)の前身の1つの「マーケットストリート鉄道(Market Street Railway Company)」の105号車の運転台部分のレプリカが展示されています(写真上)。3枚窓で半円形の前面は、「最初の院電」であるホデ1形によく似ており、製造時期も、写真中央の105号の解説にあるように、105号は1911年、ホデ1形は1909年(明治42年)と近く、運転台もホデ1形によく似ているのではないか、と考えました。
写真下は、オープンデッキの外側から運転台を撮影したところで、運転台部分がオープンデッキになっているところもホデ1形とよく似ており、「当時の電車の趨勢」が伺えます。

鶴見線の2桁運行窓のクモハ11形について
千ツヌさん
 遅ればせながら、鶴見線の17m車については、RP86-11号P30, 31に最終時(1972年11月14日)の所属車の形態分類が紹介されており、クモハ11400台は「441, 452は運行窓が2桁」と記載されていました。また、クハ16400台の方も、2桁運行窓については記述が無い(2桁運行窓の車がいなかった)代り、元クロハ16800だった車(16510, 514, 532, 528, 542, 548, 552)のうち、「514, 532, 542, 552の4両は通風器が2:4に分かれている」と記述されています。
 

東海道線の115系

 投稿者:クモハ73503  投稿日:2019年12月27日(金)22時37分46秒
返信・引用
  皆さんご無沙汰しております。

最近辻堂駅を利用する事が時々あるのですが、改札口からホームへ下りる階段の壁にかつての辻堂駅の写真がパネルとなって沢山展示されているのですが

この中で1枚気になる写真がありました。

恐らく東京方面行きの電車だと思いますが開き残しがある状態で開いている半自動用の取っ手付きの扉

窓はRの付いた非ユニットサッシなのに天井のベンチレータは押込み式

さらにうっすらと読める車番がモハ115-62等々

撮影が昭和40年頃となっているのでかつて高崎線と東海道線を直通運転をしていた列車ではないかと思うのですけれど。

その後東北新幹線の工事などで南北分断されましたが時代は変わって再び上野東京ラインとして高崎線東北線と東海道線の直通運転が復活しましたね。

まさにこの115系の写真は今で言う元祖上野東京ラインを写した貴重な物なのでは?と思いました。

肖像権だか何だかでこのパネルを写してこちらに載せるのは不味いかなと思いまして写真は無しで失礼します(笑)

しかし現在では辻堂に来る上り列車は終電近い時間帯以外はすべて高崎や前橋や小金井や宇都宮など。

中には黒磯なんて強者もいます。

東京駅や上野駅で座れなくなったと眉をひそめている利用者も多いのではないのでしょうかね。
 

鶴見線クモハ11400

 投稿者:千ツヌ  投稿日:2019年12月 5日(木)09時19分54秒
返信・引用
  皆さん、おはようございます。
73おやぢ様
ご回答、ありがとうございます。28年12月豊川更新のクモハ11452と決めました。もう一両の偶数クモハは、テ-ルライト位置・三桁運行灯で整った“いかにも東急更新的”です。
額縁の件ですが、491も無く不思議に思っていました。
73おやぢ様、悩みの一つが解消しました。廃業した“フクシマ”のクハ16より更新する予定です。
ありがとうございました。
 

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