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冗談みたいな常磐線新色

 投稿者:すぎたま  投稿日:2018年12月17日(月)20時36分4秒
返信・引用
  原口さんこんばんは。

常磐線の401・403・415系の新色ですが、あれも結構とんでもない理由で決まったとか。
あれは新幹線の色そのものなわけですが、つくば万博の際に、常磐線の中距離電車がアクセスに使われるわけだから、イメージアップを、ということで、何かいい新塗装の案は無いかと模索していた時、綾瀬駅に入線している(してきた?)小田急9000系を、当時の国鉄幹部が見て、「あの色はいいな。あれにしよう」と決めたとか。
それで、403系を1本当時結構流行っていた(例えば185系とか)クリーム色10号と、青20号に塗って、新塗装としたのだそうです。
ところが、「鉄道ファン」誌には、誤植で「クリーム色1号、青20号」と書かれていたからか、某エンドウ社のHO鉄道模型は、一部が「クリーム色1号、青20号」で出荷されてしまい、今ならリコールになりそうなものですが、結局そのままとなり、たまに中古で出ているのを見かけます。クリーム色1号、青20号はその後の「瀬戸内色」ですよね。

まあ、色の決定というものは、案外あれこれ考えてということではなく、ぱっとの思いつきで決まるものなのかもしれませんね。
たばこのケースから、というもの、当時は会議室が煙でもうもうでしたでしょうから、半ば当たり前なのかもしれません。

http://princesscomet.net/

 
 

47-3以降の富山港線

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年12月17日(月)00時28分45秒
返信・引用
  47-3以降の富山港線も表現してみました。

 47-3改正で、富山港線の運用は、Mc単独運用が無くなり、4両編成4本だけになりました。また、ラッシュ時も、4両編成2本が城川原で交換するように合理化されました。写真上はこの頃を表現したもので、先頭からクモハ40076―クハ79928―クモハ73363―クハ79244です。
 昭和49年から、クモハ73、クハ79の半鋼製車を置き換えるため、クモハ73形全金更新車、クハ79920台が順次転入しました。写真中央は置き換え過渡期の昭和50年ごろを表現したもので、先頭から、京阪神緩行線から転入したクモハ73049とクハ79920、昭和49年に一番最初に横浜線から転入したクモハ73013、半鋼製車で最後まで残ったクハ79220です。
 クモハ73、クハ79が全金車に統一されてからも、クモハ40076は残っていたのですが、昭和55年に御殿場線からクモハ73043、クハ79939が転入して置き換えられました。写真下はこの状態で、先頭から、御殿場線から転入したクモハ73043とクハ79939、続くのはクモハ73117とクハ79934です。この結果、クモハ73、クハ795両ずつの体制になったのですが、59-2改正でクモハ73、クハ79が1両ずつ(クモハ73117とクハ79934)廃車になり、残り8両で60-3改正による475系への置き換えが行われました。
 

色の由来、クモハ2段重ねなど

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年12月16日(日)23時59分42秒
返信・引用
  皆さんこんばんは

「色の決定」など
すぎたまさん
 丸ノ内線の色については、確かRP誌の里田氏のコラムの連載でも触れられており、「たばこの缶」の色がヒントになったこと、この時の「缶」を地下鉄博物館に寄贈したことが記述されていたように覚えています。丸ノ内線の電車についてはRF誌の連載記事も読んでおり、300形登場時、「遊園地の電車のようだ」とあまり評判が良くなかった、との話があったとの記述を覚えています。この時のたばこの銘柄について、Wikipediaを見ると「ベンソン&ヘッジズ(Benson & Hedges)」とあるのですが、私としては、先の書き込みで紹介したカーレース「F1世界選手権」の「ジョーダン・グランプリ」のメインスポンサーで、黄色をベースとしたカラーリングが馴染みでした。このため、ベンソン&ヘッジズは「赤」というイメージがあまりありません。
 先の新幹線とハイライトの話題でも触れましたが、「会議の場にたまたまその色のものがあったから」という理由で決定したものがけっこうありそうです。

 「色」については、「再現性」が問題になり、「マンセル値」が指定されていても、その通りに再現するとずいぶん感じの違う色になることがよくあります。1つの原因として、「屋外で日光の下にあるとき」と「室内での色」が光の状態の違いから、かなり感じが変わることで、「模型での色の再現」に頭をひねる要素になります。また、またカーレースの話になるのですが、現在のカーレースはテレビで見ることが多く、F1世界選手権では1970年代後半からテレビ視聴がかなり多くなっています。このため、車体の色を「テレビ(当時のブラウン管式)で見た印象」の方に合わせることが一般的で、「マクラーレン」の「マールボロ」のカラーをサーキットに出向いて現車を見ると、赤が「ピンク色がかっている」色になっていた、という話を聞いたことがあります。すなわち、テレビで見ると、マールボロの「赤」に見えるように調整している、というものです。
 「マンセル値」では、飯田線の快速色が、マンセル値をそのまま出力すると、腰板の濃青色が緑色に近い色になり、鉄道コレクションの飯田線快速色の製品では、湘南色とほとんど変わらないような色合いになっています。実際、RP83-4号の飯田線特集号で、昭和30年代前半に飯田線快速色の流電と湘南色の80系が並んで写っている写真では、両車の色の違いはほとんどわからず、飯田線快速色が「湘南色」と呼ばれても信じてしまうほどです。「旧型国電50年」P32に飯田線快速色のクモハ52005の写真(1959年11月22日撮影)が掲載されていますが、湘南色のような色合いです。同じ写真がRP83-4号にも掲載されているのですが、こちらはもう少し青みがかっています。このため、飯田線快速色は、今となっては「謎」なものになっています。

三鷹事件時のモハ63形2段重ねの編成について
 私も、編成表を見た時、「モハ63形が2両連続していること」が変わっていると思いました。確かに、当時は桜木町事故前で、「隣の車に行く」ことがあまり考えられていなかったと思われ、増結として、「単純に1両連結する」のは有りだと思いました。この方針が180度転換するのは桜木町事故の時で、これがこの場で話題になったのが、「京阪神快速線80系のクハ86背中合わせ編成」で、「何故クハ86形背中合わせになったのか」に対して、4両増結編成を作るために、大垣電車区から80系が借り入れられたのですが、「借入車を方向転換」してまでクハ86形背中合わせの編成を作っていたことが確認され、「隣の車に移動できることを徹底するためではないか」との説が出ました。

富山港線のMc単独運用について
 「モハ63形2段重ね」から思いついたのが、富山港線で見られた、McMcTcの編成でした。こちらは、Mc単独運用が設定されていて、増結運用に入るものです。始まりは昭和30年頃の社型が元南武のクモハ2000形、元鶴見臨港のクハ5500形が主体になった頃で、昭和42年の昇圧で、クモハ73、クハ79形になり、47-3改正での大幅な運用見直しで無くなっています。
 以下、写真は模型で再現したもので、上は昭和42年昇圧当時のMcMcTc編成で、クモハ73007―クモハ73355-クハ79244です。富山港線に転属した73系は、クモハ73355と、関西由来で詳細が不明なクモハ73007以外、昭和28年になってからの改造で、貫通扉の戸袋窓が整備されていた車なのですが、クモハ73355は「企画室コン」の「首都圏の72系」で、「貫通扉が未整備」との記述がありました。このため、1両単独運用では、「貫通路の締切が出来ない」(もしかしたらクモハ73007も同様)という問題が発生したと思われ、もしかしたらMc単独運用には入らないように考慮されていたかもしれません。また、クモハ73形では、クモハ73355だけが2段窓改造(クハ16219の部品を利用か?)されたのは、「貫通扉が無いことに対して貫通扉取付を併せて行ったため」である可能性も考えられます。
 写真中央と下は、47-3改正直前の3両編成を表現したもので、中央はBONA FIDE PRODUCTSの真鍮キットを君立てた、クモハ73305―クモハ73355-クハ79240、下はTOMIX製品加工のクモハ73361―クモハ73363-クハ79244です。47-3改正までは、ラッシュ時は3両編成2本と2両編成2本が運用に入り、下奥井、城川原、東岩瀬で交換していました。
 

色の由来

 投稿者:すぎたま  投稿日:2018年12月16日(日)14時24分30秒
返信・引用
  原口さん、みなさんこんにちは。

湘南色のもとは、「ハイアワッサ号」ではなかったでしたっけ?。
丸ノ内線の赤は、誰かの奥さんが来ていたカーディガンの色では?。
それら「鉄道ファン」誌などに出ていた話だったような気がしますが…。

丸ノ内線の赤は、当時評判が悪かったようで、今の「高輪なんたら」と同様のようですが、丸ノ内線はその後定着したのに、高輪のほうはあれだけ反対があるとどうですかね。

古い資料を入手しまして、甲武鉄道引き継ぎのデ963形院電ですが、当初の形式記号は「ろは、は」などのひらがな記号、のちにデとデニになります。しかし当時すでに付随車があり、それらも「デ」のままであったという記録になっています。著作権的に問題が無いことがわかれば(年代的に)、もう少し詳しく説明出来るかと思います。

失礼いたします。

http://princesscomet.net/

 

昭和50年ごろの関西の旧型国電など

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年12月16日(日)12時11分37秒
返信・引用
  皆さんこんにちは

先日紹介した、「アルファベータブックス」の「1970年代~80年代 続・関西の国鉄アルバム」から、旧型国電関係の写真を報告したいと思います。

京阪神緩行線の旧型国電は、P18(吹田―東淀川間、撮影日の記載は無し)とP19(岸辺ー千里丘間、1975年8月9日)の2枚が紹介されています。どちらもクハ70300台昭和31年型が先頭に立っていますが、P19の写真の方は、2両目がシル、ヘッダー付きの全金車で、しかもエンド標記がパンタグラフとは反対側に付いているので、エンド標記が書き換わった後の「モハ72018」です。また、この写真は上記のとおり「1975年8月9日撮影」と京阪神緩行線の旧型国電の最末期であることと、モハ72018が所属していた末期の明石電車区ではクハ79形が非常に少なく、奇数向きのクハ79は「クハ79395」しか存在しませんでした。また、クハ79395は、1-3位側は、前から3番目の扉だけ黒Hゴム支持であることが芝生さんの写真から確認でき、写真の車も同じ特徴を持っていることから、この車は「クハ79395」と確定します。3両目はモハ72500台で、1―3位側の前から2番目と一番後ろのドア窓が黒Hゴム支持です(一番前の扉は不明)。明石電車区のモハ72500台はあまり情報が無いのですが、少なくとも「モハ72707」が、前から2番目と一番後ろのドア窓が黒Hゴム支持で(一番前の扉は黒Hゴム支持)候補車になります。4両目は3扉の偶数向きのクハ55形で、戸袋窓が白Hゴム支持になっています。該当するクハ55形は、004,012の2両がいるのですが、どちらも1975年11月5日廃車です。違いとしては、009は裾リベットが1列、012は2列、ベンチレーター数が009は8個、012は7個(一番前のものが無し)という違いがあるのですが、ロングなのでここまでの確認はできません。5両目はモハ72000台奇数車のノーシルノーヘッダーの全金車です。1975年8月9日の時点で残っていた車は72021,079の2両です。72021は、「吹田工場」の改造車なので、前位の2連窓が扉の方に寄っていることで区別ができます。また、72079は1-3位側の前から3番目の扉が黒Hゴム支持でした。
P18の写真のクハ79形は、1―3位側のドア窓が一番前と前から2番目だけが白であとは戸袋窓を含めて黒です。また、「鋼製雨樋」であることが確認できます。このため、79453か79463ではないか(両車ともHゴムの色の資料は無し)と考えられます。

 片町線はP78~79の見開きの淀川電車区でのクモハ60163を先頭とした5両編成の写真(1976年12月18日撮影)、P79上の放出駅でのクハ79100台を先頭にした写真(1975年7月7日撮影)、P80上の四条畷駅でのクモハ73108を先頭にした写真、P81上のクハ79055を先頭にする写真(1975年7月19日撮影)の4枚です。
 クモハ60163の写真では、「シルバーシートマーク」が付いていることが注目されます。片町線でのシルバーシート設定は確か1976年10月1日だったので、それ以降の写真であることが確定します。2両目はモハ72920台で、1976年12月18日の時点で残っていたのは72954,956,961,963の4両で、このうち72954が、1―3位側の前から3番目と一番後ろのドア窓が黒Hゴム支持で、写真の車と同じ形態で有力候補です。3両目はサハ78形の、扉が1方向に開く300番台です。前位に向けて扉が開くので、残り1両になっていた、「サハ78375」と同形態です。また、左側の円形にクモハ73型が写っており、助士席窓の底辺が異様に高い形態がわかるのですが、この車は助士席窓がHゴム支持になっていた「クモハ73081」です。写真があまりに遠景で、Hゴムがわからず、木枠で底辺が高い、飯田線のクハ68400のような形態だと思ったのですが、昭和51年12月と最末期だったので、「クモハ73081」に同定しました。
 P79の写真のクハ79形は、当時の79100台の所属自体が79242だけになっていたので、「クハ79242」に自動決定します。
 P80の写真のクモハ73108の次の車は、サハ78形で、戸袋窓がHゴム支持なので「サハ78516,517」であることがわかります。
 P81の写真のクハ79055に続く車はモハ72500台の、戸袋窓に保護棒が残っている車、3両目はモハ72920台です。

 阪和線は、P110の、クハ55を先頭とする1975年6月15日撮影の写真、P114-115見開きの1974年11月30日撮影のクハ76―クモハ50-モハ72920台―クモハ60ノーシルノーヘッダー車の4両編成、P116の1975年6月1日撮影の紀ノ川橋梁を走る70系4両編成、P117の1974年2月撮影の山中渓―紀伊間を走る70系4両編成の写真が掲載されています。
 P110の写真ではクハ55形は平妻の0番台です。阪和線には001と007の2両がいましたが、007の方は前面の運行表示窓、戸袋窓をHゴム化しており、1-3位側の中央扉が黒Hゴムでした(田中さんの1975年2月の写真)。P110の写真の車は、クハ55007の方に形態が一致するのですが、1―3位中央扉が白hゴムである点が違いです。このため、田中さんが撮影した1975年2月から、P110の写真の1975年6月15日の間に入場して窓ゴムを交換したと考えられます。
 P114-115見開きの写真では、同じページのEF15形牽引の貨物列車が注目でした。貨車が「3軸ボギータンク車」を連ねており、専用種別が「石油類(除くガソリン)専用)と読めるので、「タキ55000形」であることがわかります。貨物列車は、先頭からEF15―ヨ6000―ワム90000―タキ55000が5両―タキ1500or3000が2両―ワフ21000―補機のEF52形の編成です。また、タンク車は全て「丸善石油」の社紋が確認できます。丸善石油は、和歌山から少し南の「下津」に製油所を持っており、最寄りの下津駅、加茂郷駅常備のタンク車がありました。「トワイライトゾーンMANUAL10」掲載の昭和54年4月1日の私有貨車常備駅名一覧表によると、「タキ55000形」が下津駅に55007~55011,55013~55015,55019~55025の15両が常備されていたので、その一員だとわかります。なお、丸善石油下津製油所は1982年1月に閉鎖されています。
 ちなみに、「丸善石油」の社紋は、2枚の円板の並びで、左側は赤い縁取りに「Z」の文字、右側は同じく赤い縁取りに「ツバメのマーク」でした。以前貨車関係の情報を調べていた時、「幼少の頃、「黒いタンク体に赤い鳥のマーク」の車が怖かった」との思い出を紹介していた方がいて、「その貨車は「丸善石油」か「キグナス石油」ではないか」とのコメントが有りました。「キグナス石油」の1987年までの社紋は「月に白鳥」の図案でしたが、キグナス石油(および全身の日本漁網船具)のタンク車は数が少なかったので、「編成単位で赤い鳥のマーク連なっている」のは上記の阪和線の貨物列車のように、丸善石油の方が有力と考えられます。

シルバーシートについて
 クモハ60163に「シルバーシート」のマークがついていたことを紹介しましたが、線区によっては旧型国電が残っている間にシルバーシートの設定が間に合ったところがあることが、末期の旧型国電では注目されます。片町線が1976年10月設定だったほか、横浜線と南武線が1977年10月1日で、旧型国電末期の1年くらいシルバーシートマークが付いていました。

 「シルバーシート」が最近話題のNHKの番組「チコちゃんに叱られる」で取りあげられたことがあります。

Q:なぜ高齢者のことを「シルバー」と呼ぶのか

に対して、

A:たまたま銀色の布地が残っていたから

という答えで、間に何もないと飛躍していますが、この間に「シルバーシート」が入ります。すなわち、昭和48年に「老人優先席」を設定した時、色分けをする座席のモケットが、新幹線用のシルバーグレーの布地だけが余っていたため、優先席用に転用したというもので、これに合わせて「シルバーシート」の名前が設定されました。座席の方はその後[優先席]の名前が一般化して、「シルバーシート」の言葉は使われなくなっていきましたが、ここから高齢者を「シルバー世代」と呼びことが派生し、こちらの用法は今に至っていることになります。

また、「チコちゃんに叱られる」で取り上げられた鉄道関係のものに「新幹線の色」があります。

Q:なぜ東海道新幹線の色は青と白

A:色を決める会議の席にあった煙草の箱が青と白だったから

というもので、会議の場に「ハイライト」の箱があり、その色に由来するとのことです。
煙草の箱に由来するものとしては「湘南色」も、会議の場で「オレンジと緑色」のパッケージの煙草の箱があり、この色に決まったとのことで、「ミカンと葉の色」の理由は後付であるとの話を見たことがあります。他に、地下鉄丸ノ内線の赤も煙草のパッケージに由来するとの話を聞いたことがあります。
 たばこのパッケージの色は、特徴的なものが多く、私が昔からよく見ているカーレースでは、たばこメーカーがメインスポンサーになった色の車が1990年代までよく見られました。「F1世界選手権」の「マクラーレン」の「マールボロ」の赤と白のカラーリングが有名ですが、「ロータス」の「JPS」の黒と金色のカラーリング、同じくロータスの「キャメル」の黄色1色も知られています。
 

三鷹事件事故車のゆくえ

 投稿者:すぎたま  投稿日:2018年12月12日(水)17時36分39秒
返信・引用
  73おやぢさんこんにちは。

再審が決定するのかどうか、まだわからないので、あまり踏み込んだことは書けないところもあるかと思うのですが、とりあえず再審関係の資料を入手しました。
それには、動力を有しているのは4輌という記載がありました。
よって
モハ63は4輌で、残りはサハ39とクロハ65ではないかと思われ、おそらく73おやぢさんがご呈示の、NHK出版「三鷹事件」に掲載されている編成表が正確なのではないかと思えます。
この資料には、後部のクロハorクハの前照灯が点灯していた話とか、運転台の切り替えスイッチが、1号車が切、7号車が後になっていないと回路が形成されない等の矛盾を指摘しています。
全体的には最低3人いないと、この事件は発生させることは困難で、竹内さん一人で出来ることでは無いのは、鉄道ファンの目から見ればもう明らかかと思いますね。これらが裁判官たちに、どう理解してもらえるか(例えば現代の人だから、7両は全てホロで貫通していると誤解するとか)が、再審になるかどうかの鍵の一つと思えます。

ということで、やはり「モハ63形下巻」のモハ63830は630の誤記で、それをさらに重複して記載してしまったのでは無いかと思えます。

別件。
モハ63ジュラルミン車について、その製造中を示す写真が掲載されている書籍(「科学朝日」)を入手しました。窓枠もジュラルミン製という記述があり、写真で見る限り、砂型から窓枠を取り出しているようにも見えるので、窓はどうなっていたのか…。
また窓の金具も、別途鋳物で作られている様子が見えるので、ジュラルミン車には独特な装備があったようにも思えます。無電装のモハ63400(のち900)が赤帯2本で試運転している写真もあります。
昭和22年発売の雑誌2ページなので、業務著作とすれば、著作権は消滅しているはずですが、転載可能でしょうかね。

失礼いたします。

http://princesscomet.net/

 

モハ63形下巻と三鷹事件

 投稿者:73おやぢ  投稿日:2018年11月27日(火)17時53分26秒
返信・引用
  みなさん、こんばんは。
すぎたまさん

三連休に「モハ63形下巻」を入手したので、まずは三鷹事件の項を見ました。
破損車が具体的な復旧年月とともに記載されているので、最初は「もしかしたら、本当かも」と思いましたが、よく見ると不自然でした。問題の車両の復旧日は、
63630…昭和24年12月、63830…昭和25年11月26日
となっています。一方、同書42ページに、大破した63630はモデル更新車として昭和25年11月26日に完成した旨の記載があります。同じ本で異なる記述は困ったものですが、63630のモデル更新は明らかな史実ですから、そうすると、ここでも63830マボロシ説も含めて、63630…63830に関する、何らかの錯誤がありそうな気がします。

編成の後部2両が早い段階で切り離されたのは、全く不思議です。当該編成は交検終了後に留置線へ転線し、翌朝の仕業に備えたのですから、鉄道関係者の目線なら転線時の先頭車こそ、まず調べるべき対象ではないでしょうか。留置線据え付け時の停止手配や転動防止手配がどうなっていたのかが、重要なはずです。暴走編成の先頭車(63019)こそ最有力証拠満載の“犯人”であるとするのは、いかにも警察・検察目線といえそうです。

 

まず3両目がサハ39ですね

 投稿者:すぎたま  投稿日:2018年11月23日(金)13時55分41秒
返信・引用
  73おやぢさん、原口さん、みなさんこんにちは。

まず、73おやぢさんが書かれたの編成記録ですが、少なくとも3輌目はサハ39であることが確認出来ました。wikipediaの現場写真の2枚目に、横向きのサハ39が写っておりました。失礼いたしました。
そのため、編成としては
モハ63019+モハ63057+サハ39…となりますね。その先はモハ63630とモハ63842+クハ65AFSまたはCではないかと思いますが、どこかにもう1輌何かが入らないと、7輌編成になりませんね。
一方、サモハやクモハは無かったのかについては、古い資料で多少信頼性に欠けるところもありますが、鉄道ファン19号にサモハとクモハ車の番号が載っているので、それと照合すると、モハ63019、63057とも最初から電装されていたことになっていて、500番台の無電装車はないですから、結局ここに出てくるモハ63は全車正規のモハと考えてよさそうです。
そうすると、やはり63830は63630の誤記を再記載してしまったのではないか、という疑問が湧きますね。
それらから、73おやぢさんご提示のNHK出版「三鷹事件」に掲載されている編成表が正しいのでは無いかと思われます。
無傷な2輌を早期に切り離して留置してしまったのは、AFSまたはCがあったことも大きいのではないかと思うと同時に、最初から証拠を隠滅しやすい車がある編成を狙ったとも考えられると思います(だいたい、一番本線寄りの編成を狙うこと自体、他人に見つかりやすいはず…)。
整理すると、編成の構成と向きは、おそらく、
←東京方
Mc+McTM'c+TM'c+Tsc (便宜上M'cは偶数向きMc、TscはAFCまたはS、+は物理的に通れないはずのカ所)
ということでしょうか。一番上り方のMc63019は、7連化の増結車かもしれませんね。

MT比については、戦後の関西急電も一時2M3Tでしたし、一方俗称垂井線のMcMc編成や、日光線も2M編成だったりもしましたよね。なので、多少の線区別の事情はあると思えますが、この時代は、また健全な電動車が不足気味だったと想像出来るため、5M以上は無さそうかと思います(変電所容量も不足していたのでは?)。そうすると3M4Tか、4M3Tかということではないかと思いますが、「鉄道ファン19号」の記述を見ると、AFCにはモハ63もクモハ63もあり(もちろん従前のクハ65も)、これをどの編成に入れ、モハ車の配置をどう適正化するかには、区の人々も頭を悩ませていたであろうことは推察出来ますね。
また、この時代はホロでつなぐということは考える必要は無い(桜木町事件までは少なくとも)ので、同じ向きのMcが連続したりということには、あまり気を配っていない様子も見て取れます。ただ、犯罪として見た時には、後部2輌を走る人影の目撃証言がある(「新訂版 三鷹事件」小松良郎著 同時代社2011年 9ページ)こと、また3、4輌目から人が飛び降りたという証言(同9-10ページ)があることから、それらの人々は、貫通路が無いモハ63の正面をどのようにして移動したのか(特に最後部車から2輌目を走る男が、M'cに乗り移ったはずのくだりなど)、そもそもこの時点で、モハ63に方転車はなかったのか、あるいはサハの位置や、車番は本当に正確か、等、「記録の疑問点」が残りますね。

どういうわけか、三鷹事件(松川事件も?)については、鉄道ファン諸氏の考察というのがあまりなく、ジャーナリストたちも、肝心なところの専門知識が欠如したまま、動機の考察をしてしまっているのが謎です。
MC1Aマスコンにしても、紙紐かつ片手で固定出来るか、しかも戸締め灯配線にそれを結びつけて、ハンドルを3ノッチに固定出来るのか、実証実験もなされていない様子なのが、何でなんだろう?と…。

失礼いたします。

http://princesscomet.net/

 

富山港線73系半鋼製車の新たな写真の発見

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年11月23日(金)09時53分20秒
返信・引用 編集済
  皆さんおはようございます

富山港線の、昭和40年代後半まで主力だった73系半鋼製車の新たな写真を発見したので報告したいと思います。

 最近「アルファベータブックス」より1960年代から80年代の鉄道関係の写真を収録した本が色々と出版されています。この中で「北陸本線 1960年代~80年代の思い出アルバム」が9月に発売されています。「北陸本線」が中心で、米原から直江津へ向かって区間を区切って、写真が紹介されているのですが、支線区の写真も少しあり、その中で富山港線のの写真(P140)が、1973年9月1日に岩瀬浜駅で撮影された写真で、半鋼製のクハ79形が写っています。富山港線にいた半鋼製のクハ79形は、79220, 240, 244の3両で、前面にどこかしら違いがあるため、前面だけの写真でも個々の写真の同定が可能で、特徴を上の図に示しました。写真の車は、前面手すりが運転席側テールライト上の手すりだけが無いので、「クハ79244」に決定します。また、写真が「1973年9月1日撮影」であることから、さらに情報が追加されました。下の図は、クハ79244の富山港線に来てからの前面の変遷を示したものですが、1973年9月1日の時点で「箱サボ枠が残っていた」ことが確認されたので、箱サボの撤去された時期が、従来の絞り込みでは1972年8月から1974年10月までの間だったのが、「1973年9月以降」と、期間が後ろの半分に絞り込めました。また、これまでに発表されている1970年代の富山港線の訪問記録で、1972年と1974年の訪問記録はあったのですが、1973年の訪問記録は発表されていなかったので、「間を埋める」記録が発表されたことになります。

旧型国電の「MT比」について
 7両編成の「MT比」は、「3M4T」もありではないかと思います。戦前の関東の省電の編成は、MT比が低い印象があり、5両編成ではMTTTMの2M3Tのほうが一般的(横須賀線のモハ32―サハ48-サロハ46(66)―サハ48-モハ32の編成など)で、横須賀線では付属編成もモハ32-サロ45-クハ47の編成だったので、8両編成では3M5Tになります。一方で、MT比が高い編成も、阪和線で一般的で、「20世紀なつかしの旧型国電」に掲載されているクモハ73-モハ70―モハ70―クモハ60の4M編成や、「北陸本線」と同時に購入した「1970年代~80年代 続・関西の国鉄アルバム」P114~115に掲載されているクハ76―クモハ60奇数車―モハ72000台偶数向き者車―クモハ60偶数車のようは3M1Tの編成の例が有るので、逆に7両編成が5M2Tでも不思議ではなく、「7両編成」は「7両」である縛りがあるだけで、MT比は雑多だったのかもしれないと思いました。

室蘭を拠点とした「ベンゾール専用」タンク車について
 以前「製鉄所所有のタンク車」について報告をしたことがありましたが、この件に関する追加情報を入手したので報告したいと思います。
 RM Libraryの最新刊はNo.232「黄帯を巻いた貨車」で、43-10改正後に65km/h制限された貨車「マルロ車」を特集したものです。タンク車については、かなり昔のRM140号の「私有貨車セミナー」で紹介されたことがあり、これをさらに補足するものになりました。室蘭を拠点としたベンゾール専用タンク車「タム3250形」をマルロ指定した「タム23250形」の記事がP28にあり、「木材防腐用のクレオソート輸送が盛んだったことから、ヨンサントウでは5社15両がマルロ車に指定された」との記述があります。先日は「ベンゾール」が石炭化学工業の主力製品だったことを紹介しましたが、「クレオソート」も石炭化学工業の主力製品で、「木材防腐用」であるため、木材が鉄道関係でも一般的だったころはなじみだったものです。かなり昔のこの場で、木製の床を管理するために使われていた「床油」が話題になったことがあり、「床油」が何だったのだろう、という考察が行われて、その過程で防腐剤としての「クレオソート」が話題になりました。「クレオソート」は、専用タンク車もある(タキ2750形や、マルロ車では、タム20080形)のですが、「タム23250形」については、クレオソート輸送が主だったように書かれています。また、75km/h対応になった「タム3250形」や、大型の「タキ1800形」などの車も室蘭で運用されており、これらの車もクレオソート輸送に使われていたと考えられます。
 

続・三鷹事件の編成

 投稿者:73おやぢ  投稿日:2018年11月22日(木)19時06分33秒
返信・引用
  みなさん、こんばんは。
すぎたまさん

当該編成の後部2両が早い段階で現場から失われていたので、「モハ63形下巻では5両しか判明せず」を、「東京方から5両目までしか判明せず」と解釈していましたが、63形5両分の車号を番号順に並べているということでしたか。現場のメモは片端(それも暴走車の先頭であった63019)から順にメモするはずですから、少なくとも、これは一次史料ではないですね。

まず、先に私が示した7両編成の車号はとりあえず横へ置くとして、ほかにNHK出版「三鷹事件」からわかる事柄を申します。

編成中にサハ39形は入っています。同書は新聞社が撮影した写真を多用しており、明らかにサハ39形とわかる(車号は読めない)カットが3枚あります。いずれも隣の車両とは「く」の字状に曲がって脱線していることから、同一車のようです。
もう1枚、検事調書の添付写真がキャプションごと複写されており、「ホーム側より第三車輛側面埋没台車」とあります。車体の角度が微妙で窓が二段か三段かわかりませんが、外帯(シル)が戦前規格で太く、外帯と車体裾にリベットらしきものが見えるので、サハ39形と思われます。
そうすると、少なくとも東京方から、
63019・63057・39(車号不明)…であることは確実です。

ここでMT比を考えてみます。昭和22年ごろのロマンスカーに三鷹電車区の記述があり、「現在は3M3Tの6両だが、近く7両になる」旨の記述があります。そうすると4M3Tの7両が順当であり、63形が5両示されていることから5M2T…は、ちょっと不自然ではないでしょうか。

次に63830の行方ですが、昭和25年1月の配置表によれば下十条所属です。また同車は旧型国電車両台帳によれば、昭和24年6月30日使用開始とあります。「63形下巻」をもとにすると、
63830は使用開始2週間目にして事件に遭遇し、その直後に下十条へ転属、となります。時系列からして完全否定はできず、ありえない話ではないのですが、これまた不自然ではないでしょうか。

以上が正式なお答えであり、以下は想像です。
ここで、先の4M3Tに戻れば、下巻に提示された63形5両は、「1両多いのではないか?」との疑問ないしは仮説が生じます。

63630…63830、ワープロやパソコンが普及するまで、記録はほとんどすべて手書きであり、このようなミスにはよく遭遇しました。もちろん、確たる証拠はありませんが。

桜木町事故の78形の件ですが、誤りの車号が載っていたとされる資料は、おそらく和文タイプではないでしょうか。国鉄に限らず一般の会社ではワープロが普及するまで、印刷会社に外注するほどでないレベルの公式文書は、専門タイピストによる和文タイプでした。そのため、車両の取扱説明書も含めて、けっこう打ち間違いがあります。和文タイプの具体的なキー配置は知りませんが、78144…78188、う~む、というところですが、これも想像です。
実際のところ、運転局や工作局の担当者が直接ガリ切りをした文書や手書きの青焼きのほうが、一般に信用できます。



 

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