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ボールドウィン台車、ペンシルバニア台車、半流車の裾リベットについて

 投稿者:原口 悟  投稿日:2020年 5月 5日(火)10時10分3秒
返信・引用 編集済
  すぎたまさん、皆さんおはようございます

省でのDT11台車の系譜について
 DT11台車に代表される鉄道省でのボールドウィン台車はイコライザー台車とペンシルバニア台車の間の中継ぎ的存在で、何となく影の薄い存在だと思います。電動台車のTR22(DT11)はモハ30形の昭和3年度製の車(後のクモハ11150台)から、モハ31形、モハ32形と使われ、それなりの勢力になりましたが、付随台車のTR21は、昭和3年度の製造はサロ35005~008の4両だけ、昭和4年度にサロ37001~009の9両だけで、昭和5年度からはTR23に変わったため、13両だけの存在です。客車の方でもオハ31系のTR11からスハ32系のTR23に直接変わっています。
 後にDT11台車に換装した例として、宮城社形の記述がありました。宮城社形モハ800形(クモハ2320形)のうち、仙石線に残った車は、後年にDT10台車とMT15モー^たーに換装されましたが、RP00-4号「釣掛電車の響き」によると、DT11台車への交換を挟んで、DT10台車になった車がいて、モハ801, 802, 812, 813が該当するそうです。交換時期は、モハ801は不明ですが、802, 812, 813は昭和27年のこととされています。DT11時代のモハ801の写真が「旧形国電車両台帳」P195に掲載されています(S27.1.2撮影)。その後、モハ801は昭和32年にDT10に交換、モハ802はDT11のまま昭和32年廃車、モハ812は昭和32年に制御車化でTR11に交換、モハ813はDT11のまま昭和39年廃車となっています。

私鉄でのペンシルバニア台車の使用について
 実は、ペンシルバニア台車(省TR23形等)についても疑問点があったので今回の話題を機に紹介したいと思います。
 ペンシルバニア台車に関する記述としてよく見られるのが「軸ばねの管理のために専用の工具が必要で、これが、省でペンシルバニア台車が大々的に採用された一方で、私鉄では全く採用されず、代ってボールドウィン台車の採用が続いた」とのものです。いわば、省ではペンシルバニア台車整備用の工具一式をそろえることができたため、ペンシルバニア台車への全面的な移行が出来たことになります。ここで、私鉄に入った数少ないペンシルバニア台車の整備環境が気になりました。私鉄向けペンシルバニア台車は、日本鉄道自動車が名鉄に納入したNSC-31があり、他、常総筑波鉄道オハ551(後に気動車化され、キハ40086)があります。汽車東京製の相模鉄道オハ11(後の国鉄ナハ2384からナエ2702)もペンシルバニア台車でした。ペンシルバニア台車が省に限られ、私鉄ではボールドウィン台車で一貫していた中で、何故ペンシルバニア台車を採用したのか、ペンシルバニア台車を導入した私鉄で、台車の整備体制(具体的にはペンシルバニア台車を整備するための専用の工具)が整っていたのだろうか、という疑問が出てきました。
 また、モハ63形が割り当てられた私鉄は、ペンシルバニア台車に代表される、当時の私鉄とは一線を画した機器が大量に流れ込んだことになり、ペンシルバニア台車に限っても、早期にモハ63形を手放した名鉄が日本鉄道自動車由来のペンシルバニア台車を使っていたくらいです。このため、モハ63形と同時に、モハ63形を整備する体制も導入する必要が出たはずで、現在のインドネシアのジャボタベックでの車両整備体制の教育のような、大規模な教育体制が構築されたことが考えられます。

台車の側受について
 今回の話で、以前のこの場で台車の「側受」が話題になったことを思い出しました。
 旧形国電用台車では、付随台車はTR11から48まで一貫して中心間隔は1570mm程度なのに対し、電動台車はDT16までは1220mmだったのがDT17から1750mmに変化しました。この変化について、当時の書き込みを見ると、揺れ枕吊りの位置の変更が関係しており、上揺れ枕が側枠の上をまたぐ格好になって、ヨーの抑制および安定化のため、側受け間隔を広げたのではないか、との記述がありました。
 写真は、上が昨年秋に訪問したせんげん台のDT13台車(東武7300形のもの)、下が1990年台に訪問した野辺山SLランドのTR34台車(おそらく野辺山SLホテルに使われていたオハ80形(元オハ35戦後型)のもの)です。これまで並べて掲載したことはなかったので、心皿付近を撮影した、似た視点の写真をピックアップして並べてみました。側受間隔の違いがわかるでしょうか。
 側受に関連して、以前から気になっていることが、「DT台車とTR台車の間で側受の位置に互換性が無い」ことで、旧形国電の場合、電動台車と付随台車を交換すると台車と車体のどちらかの側受の移設が必須なのに対してどう対処したか、という記述が残っていないことです。代表的なものとしては、クハ79465が事故復旧で台車をTR48からDT13への交換で、どちらかの側受けが移設されているはずです。

省電半流車の裾のリベットの「列」について
 省電の裾のリベットですが、平妻時代は、日車本店だけが1列で他は2列でしたが、半流車については記述を見なかったので調べてみました。半流車については、1列の車の方が多く、2列の車が少ないのが気になってはいたのですが、2列は日車支店と新潟で、川車は昭和10年度までは2列で昭和11年度から1列、日車本店と汽車支店、田中車両は1列が確認できました。これ以外電車製造メーカーとしては、梅鉢鉄工(後の帝国車両)がありますが、昭和10年から13年の間の製造がありませんでした。日車本店が、半流車以降の製造量が多く、川崎車両も、1列に変わってからの製造量が多いことが、裾リベットが1列の車が多い印象に繋がったようです。
 
 

小田急に入った国鉄形台車について1

 投稿者:すぎたま  投稿日:2020年 5月 4日(月)04時20分35秒
返信・引用
  みなさんこんばんは。

小田急電鉄に入った旧形国電用台車としては、今のところモハ51形→デハ1100形のTR14(DT10)、クハ1650形、サハ1950形のTR11、デハ1600形が一時装着したDT12、1800系のTR25AとTR25C、サハ1750形のTR23が知られていましたが、このうちデハ1100形は東急時代の形式で、その後東横線・目蒲線を経て相鉄モハ2000形になって転出しています。
しかし今回、サハ1960に一時期TR22(DT11)が使われていたことが判明しました。また1800系のTR25C台車の謎についても、おおむね解明されたような感じですので、また続報いたしますが、昔はかなりな台車たらい回しがあったようで、少ない資材をあっちこっちして大事に使っていた様子がうかがえます。
今資料読み込み中かつ、その資料(本)にも間違いが結構あるので、混乱しています。詳しくは続報いたします。

http://princesscomet.net/

 

大垣電車区のクモニ83800台の製作

 投稿者:原口 悟  投稿日:2020年 4月29日(水)14時40分37秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんにちは

大垣電車区のクモニ83800台を製作しました
 大垣電車区の荷物電車は、先日最末期のクモニ143、クモユニ147形の製作を前に紹介しましたが、今回クモニ83800台を製作したので報告したいと思います
 大垣電車区には000台と800台の両方がいましたが、KATOの800番台初期型(張り上げ屋根)と後期型(窓のRを省略)があるので、83813と83820を製作しました(写真上)
 クモニ83813は、雨樋は通常の位置なので、屋根板を接着して整形し、0.14mmプラペーパーで雨樋を付け直しました。また、後位パンタグラフを撤去していたので、ランボードを残してパンタ台と配管を削り落としました。車体の方では、乗務員控室の窓に水切りが付いていたので、ランナー引き伸ばし線を接着して表現しました。
 クモニ83820は、ほぼ製品の塗り替えのままです。床板は、購入した製品は、クモニ83800台動力車と、クモニ83817ばら売りだったのですが、クモニ83813への加工で屋根裏への錘を入れなかったので、こちらをトレーラーにして、クモニ83820の方を動力車にしました。また、クモニ83800台動力車は、製造時期の関係でカプラーが引っ掛け式のKATOカプラーA、クモニ83817は飯田線旧型国電と同じKATOカプラー密連型で、写真下に示した、連結を構想している車両が、連結器が引っ掛け式の80系旧製品を使った、中央西線の80系と、連結器が密着式の東海道線の111系なので、連結器を片方交換して、両方に連結できるようにしました。また、クモニ83813の方はスノープローが無かったので、スノープローを外しました。他、抵抗器の耐雪カバーは、古くはTAVASA、最近ではBONA FIDE等の製品がありますが、大垣電車区の車は付けていなかったので、製品のままです。
 写真下はクモニ83を使った編成で、上は東海道線でよく見られた2両連結の荷電、中央は111系との連結、下は80系との連結です。中央西線の荷電運用は、昭和53年時点では交付までの運用があり、中央西線の80系とともに、松本運転所の115系との連結もありました。その後、運用が縮小されて、57-11改正時点では中津川までになっています。なお、車両の方向は、東海道線上でのクモニ83形は、逆向きで前位が下り側を向いていましたが、クモニ143、クモユニ147形は正方向で、前位が上り側を向いていました。このため、東海道線の普通列車に連結された時は、下り側への連結で、クモニ83形の時は前位運転台が先頭に立っていましたが、クモニ143、クモユニ147形では後位運転台が先頭に立ち、パンタグラフ側が先頭なことは変わらないのですが、検査標記が見えること等違いが見られました。
 

飯田線のサハ87001の「幌」の写真発見・最末期の上越線集約荷電

 投稿者:原口 悟  投稿日:2020年 4月26日(日)12時59分44秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんにちは

80系湘南電車が他系列と連結する時に使われる「幌」は、貫通路の幅の違いのために」特殊な形態のものが使われたことがこの場でしばしば話題になりましたが、その中でも、飯田線の流電と連結された「サハ87001」がどのような幌を付けていたのかは、写真や、文献記述が見つからず、かつての議論でも結論が出ませんでしたが、この「幌」の部分の写真が見つかったので報告したいと思います。
 この場でも報告した、モデル8の「飯田線 旧形国電等(上)二扉車・合造車他」のP50にサハ87001の写真があり、このうち1978年5月6日撮影の写真に幌の部分が写っており、この場での用語の「縮小型テーパー幌」であることが確認できました。

最末期の上越荷電荷2043M、荷2044Mの製作
 かなり前のことですが、TOMYTEC鉄道コレクション第20弾は、国鉄の新性能1M単行電車でした。これを使って、飯田線と東海道線の末期の荷物電車を製作したことを前に報告しましたが、今回、地元の高崎線から上越線を走っていた荷物電車を製作したので報告したいと思います。
 高崎線の集約荷物電車列車は荷2043M、荷2044Mで、荷2043Mの方は午後4時ごろに籠原駅を通過するので、学校帰りによく籠原駅の下りよりにある陸橋から見ていました。この列車は、57-11改正の設定時は上越線側5連、信越線側2連の7連でしたが、59-2改正で上越線のクモニ83形が1両減車になり、60-3改正でクモニ83形置き換えのために長野からクモニ143形、沼津ウからクモユニ143形が転入し、上越線側3連、信越線側1両の4連になりました。この後郵便廃止、荷物列車廃止と経過し、クモユニ143形は幕張に転出しました。
 製作したのは、最末期の上越線内の3両編成です。第20弾購入時にちょうどシークレットのクモユ143を引き当て、これとクモユニ143、クモニ143を組み合わせて60-3改正以降の組み合わせにしました。
 写真上は製作した3両で、上からクモニ143、クモユニ143、クモユ143です。製作に合わせ、全て湘南色を再塗装しました。このため、クモユニ143形の湘南色に梨い替えが進んだ、まさに最末期の状態になります。なお、クモユニ143-1だけは湘南色塗り替えが間に合わず、身延色のまま幕張に転属し、直接横須賀色に塗り替えられています。
 共通の加工としては、TMカプラーを取り付けています。スカートをカプラーに合わせるため、裏側を横に並ぶ3連のジャンパ栓を残すようにギリギリまで削り込みました。他、前面手すりの別パーツ化、屋根の加工を行っています。パンタグラフはクモユ143はPS16だったので、KATO製品から、寒地型のPS16を付け、クモユニ143、クモニ143はKATOのPS23を付けています。前回の東海道線のクモユニ147、クモニ143では、パンタの下面の枠上昇のための突起をぎりぎりまで削り込みましたが、今回は逆に屋根板側を、突起がはまるように彫りこみました。床下機器配置は、今回はパーツが間に合わず、元の製品のままです。なお、クモユ143-1は、トイレの汚物処理装置のハッチがずれていたので、再塗装に合わせて位置を修正しました。
 写真中央は、上越線内の荷2043M、2044Mを表現した3連で、143系荷物電車の3形式が結集したものです。写真下は荷物車連結で残った普通列車を表現したもので、郵便車が連結されていた上越線721M、726Mを表現してみました。115系は、20年以上前に工作した、KATOの115系で、ヘッドライトは手すり、ワイパー別パーツ化の他、ヘッドライトはTAVASA製品で大きさを修正、屋根はTOMIXのパーツでベンチレーターとヒューズボックスを別パーツ化、パンタグラフは当時の新製品のPS16Bタイプに交換、TOMIXのクーラー塞ぎ板を使って冷房準備車にしました。また、当時の製品は雪切室は印刷表現だったので、TAVASAのパーツで雪切室を表現しました。これに合わせて、湘南色の黄かん色だけを再塗装しました。編成は、59-2改正でサハ115を抜かれた5両編成にして、59-2改正以降の721M、726Mにしてみました。
 

南武鉄道サハ301製造の背景の考察

 投稿者:原口 悟  投稿日:2020年 4月25日(土)11時29分46秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんにちは

南武鉄道サハ215, 216, 301について
 この3両の車についてはこれまでもしばしば触れてきましたが、南武鉄道時代に五日市線の客車に転用されたという経緯などから、「電車」と「客車」のカテゴリーのどちらに入れるか微妙な存在ですが、改めて出版されている情報を見てみました。
 これら3両の車についてまとまって記述されているのは、RP誌の最近の南武線の特集号(RP14-4号)で、その前の特集号(RP92-12号)の方は、「3両いた」程度の簡潔な記述にとどまっています。また、301号車については、「鋼製」の事業用客車に区分されたことから、RM Library 97「鋼製雑形客車のすべて」でも紹介されています。
 実は、今回、RP14-4号P54に掲載のサハ215の写真に変なところがあるのに気付きました。それは、車体に記入されている「番号」で、どう見ても「213」という番号が記入されています。これまで「サハ215」として記述されていたのが誤りだったという可能性も考えたのですが、別にクハ211~214の「213」が先行して存在していることが確実なため、サハ215の車体に「213」と記入されている方が誤りだと認定しました。
 また、この記事(「南武鉄道の車両史」P49~61)に掲載されている他の「南武鉄道時代」の南武鉄道車両の写真を見ると、「南武鉄道時代の車両番号の記入フォーマット」が、「両側ドアの「内側(戸袋部分)の腰板にデザイン文字で番号を記入」であることが確認できます。この文字は、昭和14年製のクハ211~214と昭和17年製のモハ150形までは、色合いから、真鍮製の切り抜き文字かもしれません。これに対して、昭和17年製でもメーカーが違うクハ250形は、ペンキ書き込みのようで、サハ215の「213」と書き込まれている文字もペンキか聞き込みのようです。
 実はここでもサハ301に違いがあることに気づきました。南武鉄道時代のサハ301の写真は、RM Library 97「鋼製雑形客車のすべて」P33に掲載されているのですが、番号の記入フォーマットが「南武鉄道フォーマット」ではなく、車体中央の腰板に「サハ301」と2段に書かれています。このため、サハ301の製作は、「南武鉄道の主導」ではなく、「旧五日市鉄道の主導」だったのではないか、と考えています。
 サハ301の車歴については、文献によってずれがあり、鉄道院の雑形客車のホハ2424に由来することは共通なのですが、RP14-4号では「省のホハ2424」を釧路工場で改造してサハ301にしたように記述されていますが、RM Libraryでは、ホハ2424が五日市鉄道に払い下げられて「301」となり、南武鉄道合併後に南武鉄道の「ハ301」となって、この時に釧路工場で改造されたことになっています。RP92-12号に記述されている車両数の統計(P17~23「青梅電気鉄道・南武鉄道時代の車両」)によると、五日市鉄道の客車は合併直前の昭和14年度にが「6両」で、全て4輪単車です。南武鉄道で昭和15年度から、五日市鉄道の分が増加するのですが、客車数は単純に五日市鉄道の6両が横滑りしているので、もし五日市鉄道時代にホハ2424が払い下げられていたとしても、統計には表れていないことになります。統計で変化が起こるのは、昭和16年度で、8両付随車が増加しており、5両はクハ251~255、3両はサハ215, 216, 301に相当し、統計上はサハ301が南武鉄道に入ったのは「南武鉄道になってから」ということになります。
 一方で、サハ301が「五日市鉄道の主導」で作られたのではないか、と考えた状況証拠は、1つは、「車両番号の記入フォーマット」で、RP92-12号P23に掲載されている五日市鉄道ガソ105の写真では、「車体中央の腰板」に「ガソ105」と2段で書き込まれており、サハ301と同じ記入フォーマットです。また、同時期改造のサハ215,216は、クハ211~214の続番で番号が記述されており、車体も、台枠を延長して、自社の所有する電車に形態を似せようとする意図が見られるのに対して、サハ301には、自社の電車に似せようとする意図が全く感じられないことから、サハ301の製作には、「南武鉄道の電車部門」の関与は無く、「旧五日市鉄道の車両部門」が製造を主導した、と考えました。さらに考えると、形式及び番号が「サハ」301となったのは、単純にモーターと制御器が無い車を「サハ」という共通のカテゴリーにまとめただけで、「サハ」から「ハ」に変更されたのも、買収に向けた準備(1944年2月20日付)にすぎず、車両は現在の南武線では使われず、一貫して現在の五日市線の方にいたのではないか、と考えました。その意味では、RM Libraryの方の車歴の記述も実態を反映していることになりそうです。

 また、RP14-4号の南武社形の記事では、クハ250形にも気になる記述がありました。それは、電源に関するもので、


この編成(MTMの3両編成)において、電灯やドアエンジンなどのサービス電源は川崎側、制御電源は立川側のモハからそれぞれ供給されるように回路設計がなされることとなり、モハ150形ともども製作中の1941(昭和16)年に配線変更認可を得ている。(P52)


とあります。この記述が正しいと、クハ250形は、連結するモハが片側だけ(MTc編成)だと機能を完全に発揮しないことになり、必ず前後をモハで挟まないとならないことになります。このことは、クハ250形は積極的に運転台を使って営業運転することを考慮していなかったことを示しており、以前にこの場で議論された、戦前の制御車は「付随」的な使い方にとどまる」ことを反映しているものと思われます。おそらく、ラッシュ時は3両編成で使い、換算時に、川崎側のモハだけを切り離して単行で運用することが考えられた(立川側の2両は、一応クハに制御電源が引き通っているので、入換運転には使える)と思われます。
 

クモユニ74形の「下駄ランボード」の写真の発見

 投稿者:原口 悟  投稿日:2020年 4月20日(月)01時46分37秒
返信・引用
  皆さんこんばんは

旧形国電ではクモユニ74形、クモハ73形全金更新車、新性能車では101系に見られた「下駄ランボード」が、以前のこの場でしばしば話題になりましたが、クモユニ74形の「下駄ランボード」の写真を発見したので報告したいと思います。

 RM MODELS ARCHIVE 鉄道車両ガイドvol.23「クモニ83と仲間たち」のP16に東京駅で、大垣夜行に連結され、荷物扱いをするクモユニ74形の写真(1980年8月29日撮影)の写真が掲載されていますが、この車のランボードが「下駄ランボード」です。「下駄ランボード」は、芝生さんの写真ではクモユニ74006(1981年6月20日撮影)で確認できますが、この車のランボードは足が等間隔の4本なのに対し「クモニ83と仲間たち」の写真の車は、足が6本(厚みのある足が等間隔で4本と、その前後の端に薄い板で2本)のレイアウトで、この形態はクモハ73031(芝生さんの写真では1978年11月27日以降の写真)と同じです。芝生さんの写真では該当の車が見つからなかったのですが、ヘッドライトが「厚みのある形態」なので、008~011が該当します。調べたところ、田中さんが74010を撮影(昭和56年2月)しており、「クモニ83と仲間たち」掲載の写真と同じ形態の「下駄ランボード」を付けていることが確認できます。クモユニ74009はHP「回送・試運転・配給・・・ 事業臨の世界」中「回送・試運転(東海道系)」に1980年9月22日の写真、および「クモニ83と仲間たち」P61に1982年3月27日の写真があり、標準のランボードが確認できます。他、「クモニ83と仲間たち」には74011の写真(P62, 1979年3月14日および同年11月16日撮影)があり、普通のランボードが確認できます。また、同車は全検標記が「53-4大井工」が確認でき、下駄ランボードの車は「54-12大船工」が確認できるので、検査の周期から74011ではありえないと思われます。残るクモユニ74008は、HP「新さんの鉄道写真」に1979年5月6日撮影の写真があり、「下駄ランボード」で、クモユニ74006と同じ形態の4本足が確認できます。このため、「クモニ83と仲間たち」P16の車は「クモユニ74010」としてよいと思います。
 

昭和46年頃のクモハ53007の製作、モハ60形の使用開始年月日など

 投稿者:原口 悟  投稿日:2020年 4月13日(月)00時58分0秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんばんは

昭和46年頃の、横須賀色になってから間もない頃のクモハ53007を製作したので紹介したいと思います。

 KATOの飯田線旧型国電シリーズは、最初に発売されたクモハ53007が少し前にリニュアールされ、編成相手もクハ68400が新規に製品化されて発売されましたが、これを用いて昭和46年頃の、横須賀色になって間もないころのクモハ53007に加工しました。当時の決定的ともいえる特徴は、まだ雨樋縦管が外付けになっていなかったことで、雨樋縦管を削り、また、運転席窓が木枠だったので0.5mmプラ板をはめ込んで窓を開けなおしました。このため、クハ68400と併せて全面的に塗装をし直しました(写真上)。この「雨樋を原型に復元する」加工は色々なところで取り上げられており、TMSやRM Modelsでも紹介されていたと思いますが、私の方でもこれを実行しました。なお、雨樋縦管が外付けになったのは昭和48年から49年頃のようで、横須賀色で雨樋縦管が無かった期間はきわめて短いようです。また、避雷器をLA12パイプ型(元々はEF58青大将色用)に交換しました。クモハ53007自体の当時の避雷器は確認できなかったのですが、同時期のクモハ53008でLA12パイプ型が付いていたので、「昭和40年代」を強調することを兼ねて避雷器を変更しました。
 写真中央は、クモハ53007とクハ68400で、クハ68400の方は末期とあまり変化はないのですが、当時はワイパーがシングルアームでした。また、助士席側の運行表示が、高さが低くて厚い窓枠に埋もれるようになっているのですが、これは逆に製品のままです(以前製作のクハ68400では、かさ上げする加工を行いました。
 写真下はクモハ53007とクハ68400を編成に組んだものです、クハ68400は、末期は台車がコロ軸受のTR43になっていましたが、当時は原型のTR23だったので、台車を交換しました。クモハ53007とクハ68400は昭和40年代後半でも編成を組んでいることが多かったようです。

車籍編入よりも前に使用開始した車両の例
 すぎたまさんよりお話のあった、「車籍編入よりも前に実車の使用が始まっていた例」に近いものがモハ60形にあったことが「旧形国電50年(1)」にあったのに気付きました。
 モハ60001~005は、使用開始時に電動車に必要な機器がそろわず、サハ代用で使用が始まったことが記述(P90~91)されていますが、昭和14年11月4日に池袋区でモハ60001, 002、11月10日に60003, 004が蒲田区で、11月12日に005が三鷹区でサハ代用として使用開始し、翌昭和15年6月27日に60001,002は電動車化されて蒲田区に転属して使用開始、同日60003,004も蒲田区で電動車化、60005は翌6月28日に電動車化されて蒲田区に転属したことになっています。これに対して「旧形国電車両台帳」に記載されている鉄道広報による使用開始年月日は「昭和15年3月30日」となっており、11月から3月までの間の使用が無かったことになっています。また、「昭和15年3月30日」からの使用は、モハ60015までの車がまとめて処理されており、60006以降もこの日以前に実質的に使用が始まっている車がいそうです。

 また、モーターが間に合わず、付随車代用で使用された車は、60001~005以外にも、60112,113,115,116,118~125が該当し、このうち119,123は、電動車化が戦後になったように記述されています。

電動車にならなかった車について
 電動車として予定されていながら、結局電動車にならなかった車は、サモハ63形が有名ですが、戦前形省電では、上記のモハ60形は、付随車代用で使用開始した車はいましたが、最終的には全て電動車になっており、電動車にならずに終わった車はモハユニ61002,003の2両だけになっています。買収国電ではいくつか例があって、阪和社形モタ3005~3007(後のクハ25113~115)、鶴見臨港社形のサモハ211~213(後のクハ5500~02)、サモハ221,222(後のクハ5510,11)があり、豊川社形クハ101,102(後のクハ5610,11から、高松琴平電鉄810,820)も、当初は電動車の予定だったとあります。クハ101,102は、運転台機器無しで納入され、両運の電動車から片方の運転台機器を外して移植し、この電動車とMT編成を組んで運用された、という話があります。他、宮城社形800形も、確か最初は全車が制御車代用で、後からモーターが装備されています。
 私鉄ではどうだったのかと思ったのですが、東急では、後のデハ3450形のグループになった車をまとまった数増備する計画を立て、先行してモーター等を調達していたら、車体の方が認可されなかった、という事態になり、モーターは戦後の混乱期を乗り切るための予備品になった、という話があります。
 

モハユニ61形の計画から落成まで等

 投稿者:原口 悟  投稿日:2020年 4月11日(土)14時41分33秒
返信・引用
  すぎたまさん、皆さんこんにちは

 モハユニ61形ですが、昭和18年度の落成よりもだいぶ前に計画されていたことは把握してはいたのですが、改めて「旧形国電50年(1)」を見たところ、昭和14年度の計画との記述がありました。計画をして設計図を作ったものの、予算化が大幅に遅れて昭和18年度になり、元設計から簡易化する方に大幅にモディファイされて製造されたことになります。
 また、「旧形国電車両台帳」では、戦前の車両は車両落成と電装施工が別だったため、「使用開始日」で記述するとの注記(P203)があり、クモハ60形(126まで)のところでは確かに使用開始日が取られているらしい(先の書き込みで「翌年中頃までずれ込んだ」としたものは、車体が納入されたものの、電装品の手当てがなかなかつかなかったことを反映か?)のですが、モハユニ61形のところでは記述に混乱が起こっているようです。「使用開始日」として記述されている、先日の書き込みの年月日は、「旧形国電50年」の記述では、汽車会社での竣工年月日で、「使用開始日」ではないことになります。モハ60、クハ55形も当時の事情で遅い方は有りかと思いますが、55093~096が2年早いのは、既に番号は確定していた(昭和16年度の製造が無く、昭和15年度に55092まで製造されていた)ため、むしろ「旧形国電50年」の「昭和17年度」の方が誤りの可能性もあります。ただ、「旧型国電車両台帳」の方では「達番号」が記載されていますが、何故か55093~096の4両は空白になっています。また、昭和15年度は、55093~096を製造している川崎車両は、55075~082を製造しており、昭和15年12月に使用開始しています。このため、これらの車から連番ではないので、55093~096は少なくとも昭和15年度予算ではないと思われ、やはり年の標記に何らかのずれがあると思われます。

モハユニ61形と身延線計画車「モハ61形」との関係
 モハユニ61形の計画が昭和14年に始まったとの記述を見て、身延線用に計画されていた「モハ61形」との関係が気になりました。
 「モハ61形」は、JTBキャンブックス「幻の国鉄車両」P162に記述がありますが、こちらも「昭和14年の計画」との記述があります。このため、モハユニ61形と「モハ61形」のどちらが先に計画されたのかが気になりました。「モハ61形」の方が先ならば、計画されてからかなり早い段階で中止され、空白となった「形式61」に横須賀線用モハユニ61が入ったことになります。逆ならば、横須賀線の郵便荷物合造車の増備計画が早い段階で中止になり、数年の間をおいて改めて計画が立ち上がり、以前設計された「モハユニ61形」が再利用された、ということになります。
 昭和14年に計画された「横須賀線用荷物合造車」と「身延線用車」は、どちらも当時は保留され、そしておそらく偶然にどちらも昭和18年に実行に移され、モハユニ61形と、身延線の方は新設計の「モハ62形」として実現したことになります。
 なお、モハ61形は車両寸法が私鉄限界のまま(幅が約2600mm)なのに対して、モハ62形は2800mmに広げられているので、正式に省線になった昭和16年以降に車両限界を広げる工事が行われ、省電の直接の入線が可能になったようです。

電車牽引客車列車について
 阪和電気鉄道の「黒潮」号は、阪和電鉄線内では省の客車を電車が牽引しており、「電車牽引客車列車」は、阪和電鉄の専売特許かと思っていたのですが、他にも例があることがわかりました。
 1つは富士山麓電気鉄道で、RMアーカイブスセレクション33「私鉄車両めぐり 関東(2)」に写真と記述(P22)があります。それによると、1938年から省の客車が直通する形での乗り入れが始まり、社線内は電車が牽引したとのことで、戦後もしばらく継続したそうです。写真は戦後の1954年7月のもので、モハ509-ロハ901-モハ502の3両編成が省の客車2両(おそらくスハ32系2両)を牽引しています。モハ500形は、鋼体化によって誕生した当時最新鋭の車で、阪和電鉄の車よりはアンダーパワーのはずですが、阪和線の雄ノ山峠を越える40パーミルの勾配を客車を牽引して上っていたことになります。
 もう1つは名鉄のかつての特急「北アルプス」の前身ともいえる犬山線(当時は名岐鉄道)から高山本線への直通列車で、こちらは最初はモ800形電車の方が高山本線へ乗り入れ、客車列車の後ろにぶら下がって下呂まで直通しており、その後、省の客車の方が犬山線へ乗り入れてモ800形に牽引されるように変わった、との記述がありました。
 

モハユニ61は

 投稿者:すぎたま  投稿日:2020年 4月11日(土)02時19分55秒
返信・引用
  原口さんこんばんは。

モハユニ61は、計画上の落成予定から、実際の落成まで2年以上ズレてませんでしたっけ。それで結局61形として落成できたのは1輌で、残り2輌は制御車代用。そして戦後正式にクハユニ56の10番台へ。
したがって同時期のモハ60に、計画通りに製造できず、1年程度のズレが生じているのは、あまり不思議とも思えないのですが…。
あるいは、車籍編入(落成)しないうちに実際に使用開始していたという可能性も、無くは無いと思います。70系客車や私鉄で、実例がありますね。

http://princesscomet.net/

 

最後の戦前型省電

 投稿者:原口 悟  投稿日:2020年 4月11日(土)02時06分29秒
返信・引用
  皆さんこんばんは

戦前形省電の最後の車
 先日のモハ60形の昭和18年の製造状況の調査から、モハ30形以来の「戦前形省電」の最後の車は何なのかさらに追求してみました。
 予算では、昭和18年度のモハユニ61形が最後で、この年はもはや他の省電は予算化されてなく、昭和19年度になると予算の上ではモハ63形に移行します。このため、製造予算的にはモハユニ61形3両が「最後の戦前形省電」になります。落成は61001,002が昭和18年11月29日、61003が11月30日になります。但し、使用開始は61001が電動車化されて昭和19年2月、002と003はTc代用で昭和19年7月と8月までずれ込んでいます。
 また、モハ50系列の鋼体化は、昭和17年度の予算化はクハ65形だけで、モハ50形は前年度で工事が終わっていました。そして昭和18年度に身延線用のモハ62、クハ77形が予算化されて戦前の流れは終わっています。昭和19年度はもはやクハ79形の鋼体化車に移行しています。モハ62、クハ77形は、落成が年度末近くにずれ込み、62001~003がそれぞれ昭和19年3月9日、2月24日、3月31日、77001~003が3両とも昭和19年3月31日です。これらの車がここまで落成がずれ込んだのは、前年度のクハ65形の鋼体化が年度を越えても継続していたためで、一番落成が遅いのは65216の昭和18年12月27日で、モハ62、クハ77形を製作した大井工場では12月まで毎月数両ずつクハ65形の工事が継続していました。おそらく前年度からの仕掛品の工事に目途がついてから工作を始めたため、年度末ぎりぎりになったと思われ、多分「3月31日」は書類上の処理で、実際の工事終了はこれよりもだいぶ後なのではないかと思われます。
 これらの工作の経過から、「最後の戦前型省電」は、新製車では昭和18年11月30日のモハユニ61003、鋼体化車ではモハ62003、クハ77001~003の昭和19年3月31日になると思われます。

 一方で、「戦前形でない最初の車」は、クハ79002が昭和19年5月31日に落成したのが最初で、モハ63形は昭和19年8月31日に63001~003が落成したものの、使用開始が最も早いのは63005の昭和19年12月24日、サハ78形の方が落成が早くて、昭和19年5月31日に78005が落成したのが最初で、使用開始も同年9月とモハ63形より早いです。
 

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