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北総電化の頃の73系の動向など

 投稿者:原口 悟  投稿日:2020年 6月30日(火)00時17分49秒
返信・引用 編集済
  すぎたまさん、クモハ73503さん、皆さんこんばんは

 1974年の北総電化と、1975年頃のクモニ83、クモユニ82形、アコモ改造車の改造には、もしかしたら、1974年7月7日の久里浜駅構内の冠水事故が影を落としたのではないか、と考えています。この時は、クモハ73形のアコモA更新車の73126, 401が両方被災したことや、アコモA更新済みの車が多く被災したため、後の1982年8月の関西本線王寺駅構内の冠水事故で101系が被災した時のような、大規模な使用可能車の抽出と転配が行われたのではないかと考えられます。久里浜駅の冠水事故がちょうど北総電化の直前だったため、房総ローカルが、最も影響を大きく受けたのでは、と思いました。

 アコモ改造については、RP74-3号P49,50の、後にモハ62、クハ66形として実現したアコモ改造車の記事がありますが、ここで著者の高林氏が、房総特急に投入された183系の調査をした時にローカル電車も見ていて、「何か心苦しいものが感じられた」と触れていることと、「仙石線・房総線・身延線での乗客の要望にこたえ、48年度にはモハ72などの旧形電車を115系近郷形電車のような車体に改造することになった」と記述しており、結局アコモ改造車は仙石線(執筆時は103系タイプの車体にする構想はまだなかったか?)と身延線だけで房総ローカルには入らなかったことから、房総ローカルの分が、久里浜駅冠水の影響で改造予定車両の手当てがつかなくなったか、113系投入(横須賀線へのA-A基準車投入による差し替え転用)の加速によって代替したか、という可能性もあると思います。

クモハ31形の定員について
 「国鉄電車ガイドブック」や、「最盛期の国鉄車両」のクモハ31形の要目のところでは、窓配置の4-4-4と3-4-3の区別なく「136(50)」と記載されています。座席配置と比較すると、3-4-3形の方の座席定員の方に合わせられているようです。なお、「(50)」は半室運転台の時の座席定員(運転台後ろの座席が助士席側だけ)なので、全室運転台改造後はこの部分が減少したはずです。
 また、元クハ58形のクハ79形のほうは、3-4-3と4-4-4で分かれていて、4-4-4は「136(54)」、3-4-3は「136(50)」です。いずれも半室運転台時代で、全室運転台では助士席側後ろの2人掛けロングシートが無くなるので、座席定員が2名減ります。そして、元クロハ59形の056と元クハ47形の060, 066は「136(54)」です。こちらは共に全室運転台での定員です。
 
 

房総線72系は

 投稿者:すぎたま  投稿日:2020年 6月29日(月)20時50分8秒
返信・引用
  みなさんこんばんは。

アコモ改造車の投入検討とのからみはなかったんですかね。つまり、62系を増備する場合、タネ車として適当な車(台枠はしっかりしているが、車体は古びている、というような)を残していて、しかし結局改造計画が消えたので、そのまま使い潰したというようなことはなかったのか…。

別件ですが、全焼して私鉄電車として復旧された唯一のモハ42である、モハ42004改造の小田急デハ1821号ですが、竣工図を見ていて妙な点に気付きました。
同車は後にデハ1811になるわけですが、連結面間距離が20200ミリと、わずかながら20メートルを超えています。モハ42の「無理矢理4ドア化改造」なので、前から1-2ドア間、2-3ドア間が寸法が異なります。座席定員は、竣工図では46名となっていますが、
運転室後ろに2名(両側。以下全て同じ)、1-2ドア間が6名、2-3ドア間が8名、3-4ドア間が6名、車端部4人掛けになっているように思えます(記載の寸法から、一人分の幅をおおよそ440ミリ前後として計算)。そうすると定員は52名になりそうですが、これは改造の要領がほぼ同じであったクモハ31形やクモハ32形ではどうだったのでしょうね。
デハ1821では、上り方の運転台は撤去され、竣工図では運転台ドア部が600ミリ窓、その前のドアより窓が500ミリ窓で作図されていますが(ちなみに反対側はドア部600ミリ窓、その前ドア寄りは700ミリ窓で作図)、実際は両側とも、元運転台ドア部が500ミリ窓?、その前ドア寄りが600ミリ窓で製作されているように見えます。
なんと言っても本車が珍しいのは、貫通路が1100ミリ幅の広幅貫通路になっていることでしょうね。私鉄に入線した車体流用の戦災国電(事故も含む)での広幅貫通路は他に例がありますかね。

失礼いたします。

http://princesscomet.net/

 

鶴見線

 投稿者:クモハ73503  投稿日:2020年 6月28日(日)22時19分36秒
返信・引用
  皆さんこんばんは。

続けての投稿失礼致します。

鶴見線は72系投入当初もモハ72は500番台が主体でしたが3段窓のままの姿でしたが車内は淡緑色に塗り潰しされていたようですね。

3段窓の72686と72688が廃車になり中原からその間の72687がアコモA工事車として転入してきてこの辺りが3段窓車とアコモA車の扱いの違いなんだなと納得したのでしたが

津田沼からの79388、79406、79450そしてそれよりひと足早く79392が3段窓で転入してきて何でもあれの世界だったのだな、と感じております。

特に79392はニス塗りのままでしたから日除けの鎧戸との組み合わせが良いアクセントになっていたと思っております。

やはりひと足先に横浜線から転入してきた79356、79358、その後の中原からの79486、最後には書類上は貸し出しになっていたのか横浜線から79488とアコモA工事車が転入してきて

津田沼だけが1人蚊帳の外的な扱いをされていて哀れに思いました。

時期を少々さかのぼれば三鷹の山ゲタもニス塗り3段窓でしたから

アコモA対象線区と外れた線区の明暗があからさまに表れたと言っても過言ではないような気もします。

山ゲタからはクハ79が4両青梅線へ流れてきて異彩を放っていたのもこの頃でしたね。

趣味的に見ればニス塗り3段窓で鎧戸の日除けの方が楽しいですが

毎日の利用客にとってはどっちが良い?って問題にもなってきますから難しいところだな、と感じてます。

それにしても戦前製の車両は既に巻き上げ式のカーテンを採用していたのに戦後になって再び古臭い鎧戸を採用したのでしょうね(笑)
 

ありがとうございます

 投稿者:クモハ73503  投稿日:2020年 6月28日(日)03時11分33秒
返信・引用
  皆さんこんばんは。

白い陽さん、原口さん詳細な経緯をありがとうございます。

鶴見線や横浜線から72系が引退した際に大量の全金属車やアコモA工事車が存在していたのに

まだその時から5年程使用していた広島の可部線への転属は一切行われなかったのも不思議な気がしてなりませんでした。

広島局の方であまり72系に対してこだわりが無かったのかもと感じられます。

クモハ73064やクモハ73289と同様に御殿場線、総武線絡みで常総線からクモハ73902が津田沼へ転属して来て置き換え末期の中央総武緩行線で使われた事がありましたが

てっきり房総電化に向けての津田沼配置かと思っていたらすぐに京阪神緩行へ行ってしまい

さらに短期間で御殿場線へと関東へUターンしてきているなどかなり落ち着かない経歴を持っていましたね。

試作車故の使い勝手の悪さからくる現場での敬遠みたいな事があるのでしょうね。

分割民営化してステンレス車両ばかりになった昨今は旧型国電ほど複雑怪奇な異動も少なくなりましたね。
 

房総ローカルの73系など

 投稿者:原口 悟  投稿日:2020年 6月27日(土)18時52分36秒
返信・引用
  白い陽さん、皆さんこんばんは

クモハ73289についての情報をありがとうございます。津田沼電車区で総武緩行線と房総ローカルの両方を受け持っていた期間は昭和44年から45年頃までの短い期間で、73形の装備は早い時期に房総ローカルに特化したと思っていました。TMS20-6号にもクモハ73289の房総ローカル時代の写真が掲載されており、改めて確認すると、P14(1977.6.4撮影)、P92(1974.12撮影)の両方ともATS-B受電器の装備が確認できました。

箱サボの方も、1969年の内房線全線電化の頃はまだ使っていましたが、1972年の外房線電化の頃までには房総ローカル独特の、助士席窓内側にぶら下げる形の行き先表示に移行したと思っていて、箱サボの使用が停止されており、この頃の転入車からは箱サボ設置が停止したと考えていました。このため、1974年の北総電化に際して転入した車は箱サボの設置は行われていないと思っていて、昭和49年転属のクモハ73064に箱サボ追加工事が行われたとは思ってもみなかったものでした。

鶴見線の73系は、1972年の20m化当時の転入車が、昭和53年頃までにほぼ全交換され、昭和47年からずっと所属していた車はクモハ73029とモハ72538だけになっていましたが、この時の置き換え車は、津田沼電車区からの転入車が多かった印象があります。クモハ73形は、中原からの転入で賄われ、不足分が津田沼から転入(クモハ73289)していますが、モハ72形とクハ79形は中原と津田沼がほぼ同数で、津田沼からの転入はモハ72形は920台だけだったのに対して、クハ79形は300番台もまとまった数が津田沼から転入しており、このため、最後に3段窓車が残った形になりました。1980年1月19日の鶴見線旧型国電さよなら運転の編成は「クモハ73029―モハ72957―クハ79392」でしたが、前述のようにクモハ73029は鶴見線プロパーだったのに対して、モハ72957、クハ79392は津田沼電車からの転入で、クハ79392は3段窓でした。
 

繰り返す?

 投稿者:白い陽  投稿日:2020年 6月27日(土)11時50分46秒
返信・引用
  皆さん、こんにちは。

クモハ73503さん、お久しぶりです。

現状、しっかり把握している訳ではないのですが、103系でも和田岬や奈良線に残っている車両は製造時期も新しくもなく、延命工事も最上グレードでもない車ばかりですね。一方で播但線は最新に近いグループを最上グレードで更新した車ばかり…見方によっては、73形が最後に富山港線は全金車ばかり、可部線は最初期車や三段窓車が残っていた両極の様相と似ているようにも思います。


さて、原口悟さんから既にご返答がありましたが、いくつか補足をさせていただきます。
73150と73289、やはり疑問に思いますよね。もっと言えば御殿場線のモハ72も全部500番台以降もしくは920番台で置き換えることも、鶴見線のアコモ未改造三段窓のクハ79もアコモ車と振替も可能だったはずなのに…とも。
検査期限や入場計画、転用にあたり整備費用が掛かる場合もあるでしょうし、思っているほど簡単ではないのかもしれませんね。
私も以前、富山港線の40形置き換えのために御殿場線からの転用を図ったことについて、このHPの創始者である故・芝生さんに質問したことがあります。その時「中部支社管内で処理したのだろう」と回答をいただき、なるほど、と思ったものです。

73289ですが、この車は昭和43年の房総電化の際、総武緩行線にまだ73形が残っていたこともあり、津田沼区所内の転用と共通予備車により使用車両を調達しました。このため、房総地区に使用する車に対しては元々取り付けてあったATS-B型にS型を追加設置したものです。そのうちの1両であるため、鶴見線転用に際してB型を取り付けたものではありません。
予備車を共用ということもあって、当時津田沼区にいてATS-S型を取り付けしていなかった鋼体強化車のクモハ73125が編成の中間に組み込まれて房総地区で使用されている写真を先日見ました。このタイプは房総には入ってないとばかり思っていたので、驚いた次第です。


ではまた
 

原口さんありがとうございます

 投稿者:クモハ73503  投稿日:2020年 6月27日(土)01時51分50秒
返信・引用
  皆さんこんばんは。

原口さん、詳しい経緯を説明して頂きありがとうございます。

車両の転属劇の裏側にはその現場の要望や車両の状態などかなり細かい点まで考慮されているのですね。

クモハ73150は最初は確か前面の行先方向幕が無い状態で落成して後に方向幕を取り付けた経緯の持ち主でしたね。

この全金更新の時期の新製車両は101系後期車から103系初期車の時期となりますが

決して全金属車が丈夫で木製の部分を使用した半鋼製車が劣るという訳でもなかったのでしょうか。

私的な見解では72920、79920番台の方がアコモA工事をした72500、79300番台よりくたびれた感が漂っていた印象があります。

大船工場改造車ではクモハ73068は最後まで御殿場線に在籍していたほか、クモハ73095が横浜線で最後まで活躍していたのを覚えてます。(行先方向幕の字体が手書きっぽい習字体と呼ぶのでしたか?)

クモハ73の500番台を含む全金更新車には青梅、南武線から大放出が始まる前の横浜線では大井工場が存在せず、浜松や果ては幡生など大井、郡山、鷹取とが集まっていた青梅、南武線とは多少毛色の違う車両が揃ってたと感じています。

DTー14絡みの件ではおかげでDTー14を履いたクモハ73の実物を拝めず仕舞いになってしまいました。

鶴見線のクモハ73289の件は同時期に青梅線の103系投入第2段目の時期と重なるのでクモハ73017やクモハ73079が廃車になっているのに何でかな?と思ってみたりニス塗り3段窓の原型車をファンサービスで入れたのかな?と思い巡っていました。

このような複雑な経緯があると国鉄最後の時期の京浜東北線のクモハ、モハ、クハ500番台と阪和線の中間車の交換も一筋縄では行かない行程があったのかと想像してしまいます。

阪和線に投入された関西初の103系のモハユニットや元京阪神緩行の第1段、ユニットサッシの第2段、最初の冷房車、旧型車の最終置き換え等それぞれの投入時に入ったサハの上京など乗っていても見ていても楽しかったです。

長文失礼致しました。
 

クモハ73064の沼津転属にまつわる情報など

 投稿者:原口 悟  投稿日:2020年 6月27日(土)00時16分59秒
返信・引用
  クモハ73503さん、皆さんこんばんは

 実は、「クモハ73150の謎」も、クモハ73064とともに前身の掲示板の時に話題になりました。
まず、クモハ73150の早期廃車については、「車体の劣化が早かった為ではないか」との説が出ました。クモハ73、モハ72形の全金更新は、日本各地の工場で手分けして行われましたが、電車の構造に慣れていない所もあったようで、工事の出来にばらつきがあり、工場によっては劣化が早かったことが指摘されています。浜松工場では、モハ72形の全金工事が多く、多くの車が津田沼電車区に集結していましたが、状態が良くなかったとの話を伺いました。クモハ73150も、御殿場線のクモハ73形の大多数の、吹田工場の工事ではなかった(大船工場1963.5.17)ので、劣化が早かったとの説が出ました。
 クモハ73064の沼津転属については、実は、もう1両、関係している車がいます。それは、呉線のクモハ73094で、サハ78111, 113, 119, 120と同時期に沼津機関区に転入している事が趣味誌の「車両の動き」に記述されていたのですが、現車が目撃されていないことが話題になりました。クモハ73094は、サハ78111, 113, 119, 120と同じく2段窓改造車なのですが、「台車がDT14だった」という、致命的とも言える特徴がありました。なお、「何故DT14台車装備車が呉線から転属したのか」というと、「呉線の偶数向きのクモハ73形はDT14台車装備車ばかりだった」という事情がありました。他に2段窓化された広島運転所のクモハ73形偶数車は、73090, 128, 148がいましたが、全てDT14装備です。この為、当初は、クモハ73150の代車として、クモハ73094が転入したものの、DT14台車が嫌われ、さらに代車が求められた結果、当時津田沼電車区にいたクモハ73064が起用されたのではないか、というのが提案された説です。なお、クモハ73094は、結局クモハ73150と同日の1977年1月25日に廃車になっています。
 また、「ATS-S装備」も大きいようで、後に富山港線のクモハ40076の台車として、御殿場線からクモハ73043とクハ79939が転出しますが、これもATS-S装備が有力視されています。同時期は、鶴見線にクハ79920台偶数車がいましたが、御殿場線からクハ79939をわざわざ方転させて転入させています。なお、当初は、「方転の工事の手間を省く為」クモハ73902を転属させる、という話があったらしいことを伺いました。
 なお、同時期に全金更新車が多数派の中に転入した半鋼製車として、鶴見線のクモハ73289が知られています。この車も津田沼電車区からの転入ですが、この車については、わざわざATS-Bを追加しているのですが、「手ブレーキハンドルを交換していた」ことが理由として指摘されています。旧型国電の手ブレーキは「舟漕ぎ型」が一般的ですが、傷害事故が多かったとのことで、円形のハンドルに交換された車がいました。企画室コン「首都圏の72系」に手ブレーキハンドル交換車の一覧があるのですが、クモハ73289がリストに入っています(1965.9.7付)。

 代車を遠隔地から探すことは結構あったようで、例えば、60系鋼体化客車のスハユニ62形は、オハユニ61形の北海道向け車両ですが、昭和40代以降も残った2両のうち、スハユニ62 10は、北海道から遠く離れた南九州の都城客貨車区にいました(もう1両は釧路客貨車区のスハユニ62 1)。これについては、荷物車(マニ60形)への改造で客郵荷合造車が必要最低数まで減少していた中で、南九州で運用の増加が発生し、日本全国へ客郵荷合造車を照会した結果、釧路客貨車区に余裕があることがわかり、スハユニ62 10が転属したのではないか、との説があります。
 

73150廃車と73064転入の疑問

 投稿者:クモハ73503  投稿日:2020年 6月25日(木)23時57分37秒
返信・引用
  皆さんご無沙汰しております。

このところクモハ73064が話題に上がっておりますが、御殿場線にこの73064転入により廃車になったのが電化当初から在籍していた大船工場近代化改造車のクモハ73150ですね。

全金属車である73150が廃車になりニス塗り3段窓の73064が転入となると常識的に考えると?となるところですが

73150に何か致命的な不具合かまたは事故でも起こしたのでしょうか。

73064の転入自体はATS-Sを使用している御殿場線に同じSを使用している房総ローカルからの転入は自然な流れだと思いますが

昭和51年から52年初頭当時の出来事に不勉強な為に何故全金属車が早々と廃車になったのだろうと疑問を抱いてしまいました。

73064が御殿場線で現役時代に乗車した際にはてっきり電化当初に松戸からやって来た連中の中の1両だと思っていました(笑)
 

クモハ73064続報

 投稿者:原口 悟  投稿日:2020年 6月25日(木)00時39分46秒
返信・引用
  白い陽さん、皆さんこんばんは

クモハ73064の高槻―津田沼転属年月日等の情報をありがとうございます。4月2日となると、そこから半年近くの間「千ツヌ」の所属標記が書き込まれないままだったという別のミステリーが出てきました。
 また、「中央窓の汚れ」は気づかなかった観点で、確かに1973年と思われるHP「HAYASHI-NO-KO」のクモハ73064の写真も中間に封入されているところでした。京阪神緩行線の旧形は、47-3改正でラッシュ時だけの運行になり、実質的に7両固定編成化されたと思われ、この状況だと偶数向きのクモハ73が先頭に立つ確率がさらに下がったと考えられるので、京阪神緩行線時代末期のクモハ73064のが先頭に立つ写真の発見の確率が下がりそうです。
 なお、TMSのクモハ73064の写真で新たに気づいたこととして、パンタグラフが黒色でした。大井工場の特徴といえる灰色塗装ではないので、転入時の整備で前面中央窓の整備、避雷器交換はしていても、パンタグラフまでは手を加えなかったようです。
 

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