teacup. [ 掲示板 ] [ 掲示板作成 ] [ 有料掲示板 ] [ ブログ ]

 投稿者
  題名
  内容 入力補助画像・ファイル<IMG> youtubeの<IFRAME>タグが利用可能です。(詳細)
    
 URL
[ ケータイで使う ] [ BBSティッカー ] [ 書込み通知 ]

スレッド一覧

  1. www(6)
  2. 全力全開(0)
  3. 全力全開(0)
スレッド一覧(全3)  他のスレッドを探す 

*掲示板をお持ちでない方へ、まずは掲示板を作成しましょう。無料掲示板作成


10156と10160

 投稿者:34036  投稿日:2018年 7月21日(土)21時51分38秒
返信・引用
  みなさんこんばんは

73おやぢさん、お返事ありがとうございました。

>写真で残されている10156(旧型国電車両台帳)と10160(電車のアルバム)がどちらも奇数方向なのは興味深いです。
>再度の変転のストーリーがあるなら、このグループも厄介者だったのでは?と思えてしまいます。
>もし10156が初期車のごとく付属への封じ込めだとしたら、忌避された原因はなんだったんでしょう(非貫通?)。


10156、10160ともにデハ改造時は偶数向きであったことは間違いないでしょうから、後に方転したのでしょうね。

デハユニ43850改デハ63100は7両あって、そのうち偶数向きは10156、10158、10160の3両ですが、
すくなくともそのうちの2両が方転している事実(おそらく増結専用として)は、確かに何かわけがありそうですね。

方転の理由として、初期狭扉型モハ10の荷郵電改造が進むにつれて、
後釜に充てる車輛が必要になった(より奇数車の需要が増えた)、はすぐ思いつくところですが、
選定される理由となるとよくわかりません。

モハ30、31は非貫通式で作られたけれども、34形以降60形に至る迄全て貫通式であることを考えると、
基本編成の先頭車としては、前面貫通が好まれる理由があったのかもしれません。
一方で、増結編成側も基本編成との連結側は貫通式が好ましい、とかですね。
増結需要で大量に改造されたクハ17も、向きは両方作り分けていると思いますが、貫通式ですね。

ただ、非貫通が嫌われる理由があるのなら、優先的に鋼体化の種車にもなりそうです。
ただしこの2両とも鋼体化の対象からははずれ、戦後までそのまま生き残り、
鋼製モニ13への改造対象にもならずに廃車となっているので、
原口さんが6月22日のご投稿でも示唆されていますが、なにか訳ありなのかもしれません。


結局のところ明確な理由は提示できませんが、これを機会に関連しそうなことをいくつか調べてみましたので以下記してみたいと思います。


◆「早期に上り向きに転向」とあるが、「早期に」とはいつ頃のことなのか。

「電車のアルバム」p. 36の モハ10160の下にある写真ですが、
残念ながら車号は判読できず、奇数番号なのか偶数番号なのかも分かりませんが、モハ10改番後であることはわかります。
初期型モハ10で、場所はモハ10002と同じ東京駅中線、つまり増結用です。

しかし形式、自重表記が妻面でなく、側面であり、これから撮影時期はほぼ限定されます。
なので「早期に」とは、昭和3年の改番直後ぐらいであり、このころから増結専用(偶数車は方転)だった。
(ただし、改番は正式には10月だが、5月以降書き換えられている可能性あり)


◆増結編成用の奇数向きデハの必要数は?

「国鉄電車発達史」p.94-95 Ⅲ隆盛時代 4・3中央線の運行 の項、最後の方

「<前略>さらに3年度末に至り100キロワット電車の増備による定期運用の増強、分割併合の全面的実施による不定期運用の削減が行われた。
①  3-19  9本 東京ー国分寺間 基本3連 増結3連
② 21-33  7本 東京ー吉祥寺間 基本3連 増結3連
③ 41-61 11本 東京ー国分寺間 基本3連 増結3連
④ 71-85  8本 東京ー高円寺間   6連(不定期)
⑤  C3-C7  3本 東京ー国分寺間 荷電

70キロワット電車は東京ー国分寺間11本のみとなったが、引続き国立・立川・浅川へと電化区間延長により
長距離電車はすべて100キロワット車となり、中型小馬力電車の運用は荻窪以東-東京間の短距離専用に縮小された。」
<引用ここまで>

とあります。(①-⑤の見出し数字は引用の都合で書き加えました)

国分寺以西浅川までの電車運転開始は昭和4年3月~5年12月にかけてで、これらによって運用数は増えているかもしれませんが、上記の①~③の運用の合計数は27本で、これから類推するに、増結編成(100キロワット車)用の奇数向きデハの必要数は、27両+α。
初期型狭扉モハ10 28両でほぼ賄える感じですが、不足分もあったかもしれない、といったところでしょうか。


狭扉モハ10の荷郵電改造は 昭和7年度から11年度にかけて。
中央線の急行運転開始は昭和8年9月からで、このころになると運用形態もかなり変わってきているかもしれませんが
改造が進むにつれて、後釜に充てる車輛も必要になったのではないでしょうか。


◆10156と10160の写真の撮影時期

10156(すぎたまさんご紹介の写真 拡大してみると末尾の数字が6ではないようにも見えて、その点が気がかりですが)は
東京駅で、連結器が自連

10160(「電車のアルバム」)の方は、場所は中野庫でしょうか?、密連化後。

自連⇒密連の時期は、電車のアルバムp.41の説明によれば

「昭和9年から13年にかけて、大鉄関係、スカ線、京浜東北線、山手線、中央総武線の順序で毎年逐次実施された」
とあります。


まあ、あれやこれや考えてみましたが、結局のところはよくわかりません。


 
 

車両の方向の管理について

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 7月20日(金)00時14分13秒
返信・引用 編集済
  73おやぢさん、みなさんこんばんは
34036さん、お久しぶりです

 モハ10002とモハ10156の方向の件、および、「のの字運転」についての情報をありがとうございます。「のの字運転」時代の車両の方向については、考えを思いついたよりどころは34036さんのお話の通りなのですが、実は、「のの字運転」が始まる前の、中央線が万世橋起点だった頃に思い至ってなく、「のの字運転開始時にも方転が必要そうなことを、ご指摘で初めて気づきました。
 方転を考えたことは、のの字運転に入った車が新宿駅で反対方向を向くことが、現在の電車のように「車庫での電車の検修時に重大な障害になるのではないか」と考えたことによるもので、新宿駅で中央線と山手線を完全に分離し、大井工場へのルートは山手線だけにすることで、違う方向の車が混ざる可能性を完全に排除したのではないか、と考えたものです。ただ、戦前の東鉄の「モハ」は、床下機器が奇数配置統一で、連結面のつなぎをひっくり返して偶数向きの車に仕立てていたので、逆向きの方向の車が混じっていても、(新宿駅基準で)北向きの車、南向きの車ならば、どちらの方向でも電気側、空気側の床下機器がある一定方向にに面しているので、「研修にあまり不便は感じないかもしれない」と感じました。

 デハ63100形初期車が「扉の幅が狭い」ために早期に運用を外れたことは、「旧型国電車両台帳」のモハ10001の写真の解説(P13)で知ってはいたのですが、「戸扉幅が原因で早めに改造消滅」としか記述が無く、関連する動きについては初めて情報に接しました。
 「旧型国電車両台帳」のモハ10001の写真は、昭和8年に東京駅での撮影で、これも中央線の増結編成が2番線と3番線の間の中線に留置されているところです。すぎたまさん紹介の写真と比べると、架線柱の形態が違い、また、後ろに建物が見えるので、どの辺り(北寄り?建物は3,4番ホームの駅員詰所?)でしょうか。73おやぢさんご指摘の「1位側のジャンパの小箱」は、モハ10001ではジャンパケーブルとともに付いています。また、すぎたまさんが触れていた「白い急行表示」はこちらの写真では撤去されています。

 車両の方向については、私が挙げたような疑問と似たような疑問が九州の客車列車で取り上げられているのを見たことがあります。
 客車の情報を集めていたところ、旧型客車の掲示板で、「急行桜島、高千穂のグリーン車の向きはどう管理されていたのか」という質問と、議論を見つけました。東京から鹿児島へ向かう列車は、例えば寝台特急「はやぶさ」と、55-10改正まで西鹿児島発着だった寝台特急「富士」は、ともに品川客車区の運用で、東京を出た時は電源車が下り側を向いていますが、西鹿児島に到着した時は、鹿児島本線を走ってきた「はやぶさ」は電源車が東向き、日豊本線を走ってきた「富士」は西向きになっています。ここで、50-3改正まで東京―西鹿児島間を運転していた急行「桜島」「高千穂」(東海道、山陽本線は併結で、九州に入って分割され、「桜島」は鹿児島本線、「高千穂」は日豊本線経由で西鹿児島行)は、ともに鹿児島運転所の運用で、グリーン車(スロ54形、オロ11形)は片デッキなので、西鹿児島基準で同じ方向を向いていたとすると、東京ではグリーン車が反対方向を向くことになります。また、もし東京基準でグリーン車が同じ方向を向いていたとすると、西鹿児島では上記の「富士」「はやぶさ」のように反対方向を向くので、「桜島」用、「高千穂」用の方向のグリーン車を分けて限定運用をしていたのではないか、という可能性が提示されていました。ここで、方向が注目されていたのは、方向が統一されていないと「乗車案内ができない」、つまり、主要駅でよく見られた「特急はつかり 1号車 自由席」や、「特急とき 6号車 グリーン車」といった優等列車の乗車案内の札(「桜島」「高千穂」なら「急行桜島 2号車 グリーン車」「急行高千穂 9号車 グリーン車」)をぶら下げることができない、という事態が発生することになります。この問題に対して、急行「桜島」「高千穂」の写真は50-3改正直前の末期の写真が大部分なのですが、「どっちの方向もいた」ことがわかりました。同じ番号の車が明らかに別の方向を向いている写真も見つかっており、普通車の方向と併せて、編成を組む時に「あまり気にしていなかったらしい」という結論になっていました。一般型客車、気動車は方向に関係なく連結することができるので、こちらを見慣れていると、連結時に方向を管理する必要のある電車の方が異端になります。
 西鹿児島駅関連では、普通列車だけになってからの475系電車が大分電車区と鹿児島運転所の車が逆向き(小倉駅基準で同方向)で、両電車区の電車が走っていた日豊本線南部では、反対方向を向いていました。
 また、気動車では、「循環急行」の方向が話題になったことがあります。「循環急行」は末期では、胆振線を走った急行「いぶり」が有名でしたが、経路によって、始発駅に同じ方向で帰ってくる列車と反対方向になって帰ってくる列車がいました。反対方向で帰ってきた列車が、逆回り経路で戻して、方向を元に戻すことを行っていたのか、という話題があったのですが、車両としては、上記の「いぶり」の場合はキハ22の単行、中部地方で見られた循環急行は大抵キハ58―キハ58の編成だったので、逆向きで戻ってきても変化はないといえます。

最近の鉄道の話題について
 中央東線の特急「あずさ」へのE353系の投入が進んで、7月1日からE353系の運用列車が拡大されましたが、これに伴ってE257系の疎開が始まっています。先日尾久客車区に、E257系が3本疎開しているのを目撃しました。
 金沢文庫の総合車両製作所横浜工場では、E353系が継続して新製されています。また、東急池上線、多摩川線用の7000系の新製が進んでいるようで、構内に7000系と思われる高チアが待機しています。
 京急では、今年の新製車両は「42両」との発表がありました。このうち、6両編成2本12両が既に落成しています。「42両」はおそらく6両編成7本と思われ、現在残っている800系の本数と同じくらいなので、今年度で800系の交替を完成させるのではないかと思われます。
 

お知らせ、ありがとうございます

 投稿者:73おやぢ  投稿日:2018年 7月19日(木)19時27分1秒
返信・引用
  みなさん、こんばんは。
34036さん

Ⅲにありましたか。不勉強でした。とはいえ、初期車を方転させて付属に封じ込めとの図式は、非常に明解です。混雑の度合いが低いであろう編成の端部に置き、昼間時は運用から外して稼働を制限、あげくの果ては早期に荷電改造…初期車の嫌われようがよくわかります。そのほか、1位の小箱が撤去されてこの部分のカップラーが常備でないことも小さな疑問でした。10002のさらに前方(上り側)へ他の車両を日常的に増解結することができないためですが、付属であれば自身が最前頭ですから問題ないですね。

デハユニの3両がデハ化時に偶数へ方転とのことですが、写真で残されている10156(旧型国電車両台帳)と10160(電車のアルバム)がどちらも奇数方向なのは興味深いです。再度の変転のストーリーがあるなら、このグループも厄介者だったのでは?と思えてしまいます。もし10156が初期車のごとく付属への封じ込めだとしたら、忌避された原因はなんだったんでしょう(非貫通?)。
 

最近の話題から

 投稿者:34036  投稿日:2018年 7月17日(火)22時35分27秒
返信・引用
  皆さんこんばんは 大変ご無沙汰していました。

73おやぢさん、原口さん、すぎたまさん


●モハ10002が奇数向きにの件ついて

「国鉄電車発達史」p.115 Ⅲ 隆盛時代 6 荷物電車の改廃 昭和7年度改造車 の項

モハ10026-10028 ⇒ モニ13001-13002
「原型モハ10は大正12年度型で扉幅狭く客扱い不便のため早期に全車28両とも上り向きに転向の上、中央線増結専用に充てられていた。...」
の記載があります。


●デハユニ43850改デハ63100の向きについて

同じく「国鉄電車発達史」p.69-70 Ⅱ 再建時代 6・2 座席改造 の項

「<前略> デハユニの改造は、荷物郵便専用車の落成を待って昭和2年5月~8月に施工されたが、これらは全車一定方向車(上り向き)なので、デハにする際7両中末尾3両を偶数車(下り向き)に変更して偶数番号を付したため、末尾の15年製新型車1両は繰り上がって63260号となり13年製旧型車の1両が63261となって製作年次順序が入れ違いになった。...」
の記載があります。

ただし、この説明に従えば、番号対象は下記のようになるはずです。
43850 ⇒ 63255
43851 ⇒ 63257
43852 ⇒ 63259
43853 ⇒ 63261
43854 ⇒ 63256
43855 ⇒ 63258
43856 ⇒ 63260

ところが、「旧型国電車両台帳 院電編」によれば
43850 ⇒ 63257
43851 ⇒ 63255
43852 ⇒ 63256
43853 ⇒ 63261
43854 ⇒ 63258
43855 ⇒ 63259
43856 ⇒ 63260

で、43852、43854、43856 の3両を偶数向きに方転したことなっています。
これは公報記載の達示を正しいとしての記述だと思います。どちらが正しいのでしょうかね。

あと、デハユニ43850改デハ63100は、側面の窓扉配置の外、もとの形態を反映して、前面非貫通のまま、というのが特徴の一つですね。


●原口さんの、「のの字運転」時、「中央線と山手線の向きが違っていたのではないか?」について

モハ10002の写真が奇数向きであるを以て、「のの字運転」の名残の可能性とする説は、上の通り否定されます。

当初は甲武鉄道引き継ぎの車庫が新宿にあり、中央・山手両線の電車を担当していました。
品川、池袋の車庫は新宿庫の派出から出発しています。
歴史的には、中央線の電車と山手線の電車は、新宿で向きが同方向だったわけです。

中央線の万世橋から東京延長は大正8年3月で、その際山手線の電車の東京駅から中央線乗り入れが開始されたわけですね。
ところがこのように山手線の電車が中央線に乗り入れると中央線の電車と逆向きになる。
それだと不都合だから中央線の電車は方向転向していたのでは、というのが原口さんの説ということでしょうか?

MGを装備して100Vを発電し、これを制御回路電圧としたのは、デハ63100形の途中からで、それまでは制御回路は600Vを使用していたんですね。
この時代のつなぎがどうであったのか、解説をみたことがありません。
「国鉄電車発達史」にもその辺りのことには触れられていません。
当時の電車の写真をみると、両端にジャンパ栓がついてはいるのですが、
もしかすると向きに関係なくつなげる構造だった可能性もあるのではないかと考えています。
架線電圧の編成内引き通しは必ずしも必要でなく、制御回路のみ引き通せばOK、というようにも考えられなくはないのではと。

果たしてどうだったのでしょうかね。



 

東京駅の中央線

 投稿者:73おやぢ  投稿日:2018年 7月17日(火)17時45分38秒
返信・引用
  みなさん、こんにちは。
原口さん

10002の件、ご主張に水を差すようで恐縮ですが、運用の都合というより車両自身の問題であると考えています。さすがにオリジナルの写真は鮮明ですから、2位にカップラーを収容する箱(現代で言うところの開放栓受)が確認でき、1位に7芯カップラー1本を収容していた小箱の撤去痕が明らかです。すなわち10002の実態は奇数車と考えられます。

先に話題となったデハユニ由来の10156も奇数向きなので同様の問題を抱えていますが、デハユニを奇偶作り分けることはあり得ませんから、おそらく本来のデハユニは奇数設計で、この末裔たるモハ10形は車号の奇偶にかかわらず奇数向きとなったのでしょう。では10002の場合は? 鋼製化モハ50形の最初期車や中央線へ投入されたモハ51形のように、一定のロットが車号の奇偶にかかわらず同方向であったのか、需給関係の影響で事後に方転させられたのか、木製車に不勉強のせいもありますが、情報が決定的に不足していることもあり、そのあたりのカラクリが不明なのです。
 

7心ジャンパ栓と東京駅での中央線電車の方向について

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 7月15日(日)19時58分30秒
返信・引用
  73おやぢさん、皆さんこんばんは

「7心ジャンパ栓」について
 モハ70形の「7心ジャンパ栓」について、情報をありがとうございます。併せて、関東の「7心×3」と関西の「12心×2」の「12心×2」への統一の時期は63形の大挙投入が機会で、昭和22~23年に行われたとのことで、これらの情報を合わせて、こちらでもまとめてみたいと思います。

 すぎたまさん紹介の写真で、東京駅の中央線の電車が偶数車が南を向いている理由ですが、「のの字運転時代の名残」の可能性が有ります。以前に別のところで中央線の車両の方向が話題になったことがあり、その時に作った図を添付します。「のの字運転」の時代は東京駅から山手線へ直通していたので、東京駅で中央線電車と山手線電車は同じ方向を向き、新宿駅では逆を向いていたはず(右の図)ですが、現在は新宿駅で中央線電車と山手線電車は同じ方向を向いているので、東京駅では中央線電車と山手線電車は逆を向いていることになります。このため、上野―東京間開通によって、「のの字運転」から中央線が切り離された後、どこかの段階で中央線電車の「方向転換」が行われたはずなのですが、「いつ行われたか」という記録が発表されていません。下限は、中央線に投入されたモハ51形(001~026)は「偶数向き」で「浅川(高尾)方」なので、現在と同じ方向になっています。先方で話題になった時は、総武線の「両国―御茶ノ水間開通と電車運転の開始が機会になったのではないか、との説が出ました。
 

ジャンパおよびモハ10形

 投稿者:73おやぢ  投稿日:2018年 7月15日(日)18時05分27秒
返信・引用 編集済
  みなさん、こんにちは。

原口さん

私の説明不足のためか、話がやや混乱しているようで、申し訳ありません。ここで要点を整理させていただきます。

●12芯統一は戦後すぐです
戦前の関東省電は7芯×3、関西省電は12芯×2でしたが、戦後すぐに統一されました。具体的には12芯×2の63形が大量投入されたのを機に、既存車もこれに統一しました。
このことに触れた記事はいくつかあるようですが、ひとつはジェーアールアール刊「東京の国電」の山手線の項に「昭和22年7月25日を期して12芯化を実施…」との記述があり、出典は忘れましたが、他の記事でもやはりこのころに蒲田区で12芯に統一との記載を見た記憶があります。
面白いのはないねん出版「終戦直後東京の電車」27ページにある昭和22年7月撮影のモハ63形で、車体の開放栓受が12芯×2なのに床下は7芯×3となっており、統一直前の暫定配線であることがわかります。

●70系の7芯とは
以上から、少なくとも昭和22~23年に関東関西とも12芯×2に統一(内部の線番号はともかく、見た目はの意)されています。したがって、それ以降の63形、70系、72系は必ず12芯×2を基本として新製されています。そのため、私の投稿にある7芯とは戦前の関東省電由来のものではありません。

ここで「80系・70系電車」の主張を整理しますと、70系初期車の新製時形態は、
クハ76形…12芯×2+7芯×1
大鉄モハ70形…12芯×2+7芯×1
東鉄モハ70形…12芯×2(71001の形態を根拠とした推定)
サロ46形…言及なし

となっています。したがって、私の発言にある「7芯の有無」とは東鉄と大鉄とを区別する基準となった第三のジャンパ(一般に放送用といわれている)のことです。煩雑で恐縮ですが、前回発言の7芯の文言の直前に、(第三のジャンパとしての)という修飾を入れるとすっきりします。つまり、私なりの捜索結果によれば(第三のジャンパとしての)7芯の存在をほぼ確認できたので、これの有無により東鉄と大鉄を区別することはできないのではないか、というのが話のキモなのです。モハ70形の妻出し写真はいいのがなかったので、同形態のサハ45形を貼ります。内側にある小さなジャンパが(第三のジャンパとしての)7芯です。

●12芯と15芯の混結
たしかに、80系にサロ(ハ)75形を組み込んだ写真がどこかにありましたね。こちらはごく一時的なものとすれば、お化けの可能性はあります。理屈では15芯の3本が余りますが、実際は接触子の1~2本は予備だったので、だいたいの線は接続可能のはずです。
回送や試運転なら、間違いなくお化け使用ですね。その場合、制御関係が収容されている内側のジャンパ(1)だけ接続の可能性もあります。暖房制御などは関係ありませんから。

すぎたまさん

貼っていただいた初期型モハ10形ですが、同じ写真が国鉄電車発達史Ⅱに掲載されているので、お知らせします。件の紳士も同じ位置に立っています。キャプションにモハ10002とあるので旧番号はデハ63100、トップナンバーですね。
撮影場所の記載はありませんが、東京駅に間違いありません。旧中央線の2番線から中線を挟んで3番線方向を見たもので、背後は京浜線の北行です。中央線電車は東京駅で見かけ上、逆向きになるので先頭は奇数車のはずですが、10002になっているカラクリはよくわかりません。

 

関東と関西のジャンパ栓レイアウトについて

 投稿者:原口 悟  投稿日:2018年 7月14日(土)11時55分11秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんにちは

戦前の関東省電の「7心×3」と関西省電の「12心×2」について
 戦前の関東、関西のジャンパ栓のレイアウトについて、以前に話題になったことがあり、その時に描いた図を参考資料として紹介したいと思います。
 元々は、2010年頃だったか、「昭和7年の城東線、西成線電化時の車両の方向」と「その後の淀川電車区所属車両の方向転換」が話題になった時に、73おやぢさんが参考資料として書いて下さった絵で、数年後にふたたび話題になった時に、私の方でAdobe Illustratorを使ってグラフィックに起こしたものです。この時に73おやぢさんが情報として見つけて下さったのが、「自動連結器時は低圧ジャンパ栓(7心×3,12心×2と表現されているもの)が左右に振り分けられていた(左)のが、密着連結器への交換に前後して、低圧ジャンパ栓を片方に揃えた(右)」ことで、このため、特に関西では、自動連結器時に高圧ジャンパ栓と低圧ジャンパ栓1本が並んでおり、一見して「低圧ジャンパ栓2本」と見分けがつかないことがあるので写真観察時は要注意である」ことでした。
 70系の投入が始まった昭和25年は、また右の関東、関西独自のレイアウトがまだ残っていた頃で、80系が「新規電車運転区間に導入する電車」で「他の電車と連結することを考慮する必要が無い」ため、ジャンパ栓のレイアウトを最適化することができたのに対して、70系は「既存の電車との連結(関東はモハ32系、関西は京阪神のモハ51系等)」から始まったため、「既存の電車と連結することを考慮する必要」があり、ジャンパ栓は関東、関西それぞれの電車に合わせられたためにジャンパ栓の違いを根拠とする番台区分が行われたと解釈できます。
 関西と関東の違いについては、「その後関西タイプの方へ統一が行われた」という記述は色々なところで見るのですが、「いつ工事が発令され、いつまでに完了したか」の記事は発表されているのを見たことがありません。状況証拠としては、「旧型国電50年」P176の「昭和29年以降は東鉄・大鉄が同一になった」との記載、73おやぢさんの写真で「1954年撮影の70046に7心が確認できる」との話から、昭和28年から30年頃が「過渡期」だったことが考えられます。モハ71001が「7心でない」ことですが、当時の三鷹電車区の他の国電は「関東」の車なので元々は「7心×3」だったはずなのですが、これらの車に連結するはずのモハ71001が「7心×3」でないということは、当時の三鷹電車区配属の車が「7心×3」でないことを間接的に示します。これは、ジャンパ栓変更の過渡期に1つの電車区内に「長期間7心×3と12心×2の車が共存する」ことは車両の連結を管理する(RP00-5号の下十条電車区の記事のように、検査車両を頻繁に差し替えていた環境)上では極めて厄介であるため、「ジャンパ栓の交換は電車区ごとに区切って短期間で実行する」方法を取っていたのではないかと考えました。これに基づくと、「昭和27年の三鷹電車区」は「ジャンパ栓の交換を既に実行するか、実行が予定されていた」ため、モハ71001は「12心×2」で落成した、「昭和29年の田町電車区」は「ジャンパ栓の交換がまだ実行されていなかった」という、「ジャンパ栓交換の過渡期」の情況が写真に反映されているのではないか、と考えられます。

 なお、RP18-7号増刊「80系・70系電車」では、モハ70047の押し込みベンチレーター交換が抜け落ちていることを指摘しましたが、P130のクハ76の「茶坊主」の記述にも脱落が有ります。ここには京阪神緩行線のクハ76が「昭和38年度までに姿を消した」と記述されているのですが、昭和42年度に一旦復活していることが記述されていません。クハ76032,305が転入しており、茶色に塗り替えられています。クハ76305の方は当時のRP誌に写真が紹介されており、クハ76032の方も元関西旧国利用者さんが「茶色に塗り替えられていた」との報告を寄せています。

 80系と70系の混結については、横須賀線のサロ85形の逆バージョンとして、「静岡運転所に配属されていたサロ75形」が話題になったことがあります。当時は「幌はどうしていたのか」が話題になったのですが、幌と同時にジャンパ栓も連結できるように何かしていたはずです。また、静岡運転所では大船電車区への回送列車として「クモハユニ64000+80系」や、「クモハユニ64000+80系+111系」といった編成が仕立てられており、少なくともブレーキと制御装置を駆動できるようにジャンパの対策が行われた可能性はありますが、徳に飯田線にいたことがあるクモハユニ64000については、「ジャンパの工事をした」ならば、必ず当時の趣味誌や、後年の飯田線旧型国電特集誌に記事が記載されるはずなので、「最低限の制御装置とブレーキの駆動」には「特別な改造は必要が無い」とも解釈できます。

 飯田線で流電に連結されていたサハ87001ですが、最近購入した鉄道模型趣味1984年8月号にクモハ54007―サハ87001―サハ75103―クモハ53004の製作記事がありました。当時はまだGREENMAXのクモハ52のキットは出ていなかったので、クモハ51キットが出ていて、それを流用したクモハ54007以外はプラ板からのスクラッチです。この中に「特定ナンバー車なので細部を再現したこと」、この中にサハ87001の幌が「他系列と編成を組むため、特殊な幌を持つ」との記述があり、80系の幅広の幌枠から一般の旧国の標準の幅の幌へ連結する「縮小型テーパー幌」が再現されていました。飯田線旧型国電について、「実物を見に行って調査する」ことができた時代の産物と言えます。
 

モハ10形の狭いドア車

 投稿者:すぎたま  投稿日:2018年 7月13日(金)03時31分2秒
返信・引用
  みなさんこんばんは。

入手写真の中から、モハ10形木造車の「ドア幅狭いタイプ」車の画像を貼ります。
番号がわからないのですが、モハ10**2のようにも見えます。形式の記号が縦書きなのが目を引きます。
背景の架線柱の形状から、東京駅ではないかと思いますが、中央線の急行(現在の快速)らしく、正面も側面も「白い急行表示」が引き出してあるように見えます。
ドアは運転室側から、後ろ・前・前に向けて開くようで、これは後年の鋼製化改造でも、モハ50形のドア方向などに影響しているのかもしれませんね。
左側隅にちらりと写る男性、明らかに戦前、それも昭和初期と思われるのに、見た感じ今時のスーツ姿と特に変わりが見られないのが驚きの気もします。

この写真も、古書店筋から入手したものです。意外と埋もれている記録というのは、あるのでしょうね。

失礼いたします。

http://princesscomet.net/

 

Re: スカ線転用のサロ85形と7芯ジャンパ 補遺

 投稿者:スカセン  投稿日:2018年 7月 7日(土)21時09分18秒
返信・引用 編集済
  > No.2503[元記事へ]

73おやぢさんへのお返事です。

釈迦に説法で恐縮すが、70さんのサイトに「サロ85形横須賀形改造」の記載があります。
私は70系と80系はどちらも三本ジャンパのため、ジャンパ栓の繋ぎは同一だと思い込んでいました。
やっぱり旧形国電は奥が深いです。
 

レンタル掲示板
/245