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木造省電の台枠の鋼製

 投稿者:原口 悟  投稿日:2019年11月23日(土)14時30分14秒
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  皆さんこんにちは

また話が横に行ってしまいますが、大正年間の木造省電の台枠の鋼製について記述のあった資料を入手したので報告したいと思います。

 先日1990年代の「とれいん」誌を何冊か入手したのですが、その中の1997年10月号(通巻274号)のP50~61が、寺田貞夫氏により「Modelers File 国電ボギー電車の始祖たち」のタイトルで、ホデ1形から、大正3年改番で「デハ62xx」等の4ケタの番号になった車が紹介されています。この中に、「木製電車の幅員と台枠」のタイトルで、木造省(院)電の台枠に攻勢について紹介されています。木造省電など、大正年間の木造車の台枠について、昨年末から今年の初めにかけて、モハ50系鋼体化省電の台枠の鋼製と関連して、議論されたので、補足情報として、紹介したいと思います。

 今年初めの秩父鉄道のクハニ20形の台枠の鋼製に関連しますが、木造電車の台枠は、鋼製車とはかなり異なり、側梁は車体幅よりもかなり内側を通っており、車体は側梁外側に受け金が付けられて、その上に支持されていました。院電の車体の幅は、最初のホデ1形が8フィート6インチ (2590mm)だった以外は、8フィート (2440mm, 明治42年)、8フィート6インチ (2590mm、大正3年)、2700mm(大正12年)と大型化していったのですが、この間、「側梁の幅」については変化は無く、7フィート (2134mm)に統一されていました。すなわち、この間は受け金の長さを伸ばすことで車体断面を大型化していったことになります。これについて、寺田氏は「床下取り付けの面から、台枠幅を一定にしておいた方が都合がよかったからであろう」と考察しています。
 一方、車体長は初期は15250mm、大正9年から16130mm、大正12年から16150mmになったとしています。ここで、「初期の電車の特徴」として、「側梁の溝部が外側を向いていること」「中央梁が1本しかない事」を紹介しています。この特徴は明治45年までで、大正に入ると中梁が2本になり、側梁の溝形鋼は底が外側を向きます。この構造の変化は、「トラス棒」の付き方にも及んでおり、2本ずつの側梁と中央梁それぞれにトラス棒が付くのが「トラス棒の付き方」としては一般的だと思いますが、初期の車には中梁にトラス棒が付けられず、外の2本の側梁だけにトラス棒が付けられていた、と記述されています。また、トラス棒が側梁に取り付けられるところは「溝形鋼の底」であることから、側梁の向きでトラス棒の付き方が変わること等、トラス棒の取り付け方についての記述もありました。
 以前に秩父鉄道デハ100系の鋼体化の順番についてこの場で報告しましたが、その中で「秩父鉄道標準型」と言える、秩父鉄道プロパーの車から鋼体化され、戦後に入線した、院電由来の車の工事が後に回ったことが確認されました。特に、「最初の院電」でもある、サハ25029もいて、木造電車末期の「標準構成の台枠」と比べると、異なる点が多かったのが、工事が最後に回り、恐らく台枠流用はされていないことになった所以だと思われます。
 
 
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