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クハ68420(昭和55年頃)の製作・クモハユニ64000の細部形態の変遷

 投稿者:原口 悟  投稿日:2020年 4月 5日(日)15時17分5秒
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  皆さんこんにちは

クハ68420の製作
 以前、クモハユニ64000の飯田線茶色時代の製作を報告しましたが、先日も少し紹介した編成相手のクハ68420を完成させたので報告したいと思います。
 KATOのクモハユニ64000は、まず横須賀色になった最末期の形態が、クハ68412とのセットで発売されましたが、その後、茶色時代としてクハ8420とのセットで発売されました。クモハユニ64000の方を先行して加工をしたのですが、クハ68420の方が後回しになったのは、貫通扉の箱サボの別パーツ化が長く手を付けられなかったのが原因です。先日この部分の工作を行い、ようやく完成させました(写真上)。

グレーいろいろ
 写真中央は、上から見たところで、左がクハ68412、右がクモハユニ64000です。今回の工作では、屋根のグレーを変更し、これまで、旧形国電ではタミヤの「佐世保海軍工廠グレー」を使っていたのに対して、タミヤの「ジャーマングレー」を使いました。結果的に、この色はKATO製品の屋根のグレーに最も近い色になりました。
 屋根のグレーは、本来はどの車両でも暗灰色(GMカラーの「ダークグレー」)なのですが、下地の違いか、ユん用された環境の影響か、車両ごとに違う印象があるので、多分に気分的な色あいがありますが、複数のグレーを使い分けています。電車では、屋根布を貼っている、全金車以前の旧形国電にはやや暗い印象があるので、タミヤの「佐世保海軍工廠グレー」を、イボ付ビニルシートを貼っている全金車、または101系以降はやや明るいタミヤの「呉海軍工廠グレー」を、昭和50年代後半からの塗り屋根はクレオスの「アメリカ海軍グレー」を使っています。この色は、ねずみ色1号に似てはいるのですが、何となく黄色っぽい感じです。客車では、スハ43系以前の車では、中り黒っぽい印象があるので、クレオスの「ジャーマングレー」を、オハ35系以降の一部の車及び名は10系以降の鋼板屋根はクレオスの「アメリカ海軍グレー」を使っています。日本海軍グレーは、工廠ごとに個性が有り、GMのダークグレーを基準にすると、横須賀工廠色は赤っぽく、呉工廠色は青っぽく、佐世保工廠色は黒っぽく、舞鶴工廠色は明るい、という印象があります。また、「メーカーごとの解釈の違いで、同じ色の名前でもメーカーごとに色の感じが違うことがあり、「ジャーマングレー」は、クレオスは黒っぽく、タミヤは普通のダークグレーです。客車の黒っぽい屋根に付けるガーランドベンチレーターは、黒く塗装しているのですが、これにはクレオスの「NATOブラック」を使っています。普通の黒に比べて緑っぽい感じです。屋上小物の塗装は、クレオスの水性ホビーカラーの「ニュートラルグレーを使っています。この色は、ねずみ色1号に比べると青っぽい感じです。

クモハユニ64の細部変化
 写真下はこれまでに作ったクモハユニ64000で、左が静岡運転所の事業用車時代(昭和52年)、中央が飯田線の茶色時代(昭和55年)、右が飯田線の横須賀色時代(昭和58年)です、これ以外に鉄道コレクションからの加工で、岡山ローカル時代(昭和50年)を作っています。模型の方は、割と短い期間を刻んで、その時の形態を再現したのですが、この短い期間の間にどこかしら形態の変化が起こっています。これについては、以前のこの場で話題になったことがあるのですが、後位運転台後ろの戸袋窓が五月雨式に変化しています。静岡運転所時代は、3位側の戸袋窓だけHゴム支持化された形態を表現(模型工作的には、4位側戸袋窓を原型に復元)しています。岡山時代は両側原型で製作しており、静岡に移ってから、3位側戸袋窓がHゴム支持に変化、飯田線に移る直前(方向転換と同時期?)に4位側戸袋窓もHゴム支持に変化しています。
 屋上配管は、静岡時代は、母線と空気管の配置はそのままで、その間の避雷器配管とパンタ鉤外しのリンクが左右逆になっています。この配置は、転入当初はそのままだったのですが、恐らく飯田線に来てからの最初の入場で修正されています。KATOの茶色の製品はこの形態が再現されています。前面窓はこの時はまだ運転席窓は木枠でしたが、最後の入場で横須賀色になった時にHゴム支持に変わっています。昭和53年以降、他にも窓のHゴム支持化が行われた車がいて、昭和53年と58年とで形態が違う車が何両かいます。
 
 

鉄道模型における旧型国電の「角のRの表現」

 投稿者:原口 悟  投稿日:2020年 3月29日(日)15時03分24秒
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  皆さんこんにちは

Nゲージの旧形国電模型における「60mmR」の表現
 だいぶ前のことになるのですが、戦前型国電の車体の角の「半径60mmのR」の表現について、タヴァサホビーハウス店主の町田さんと話をしたことがあります。きっかけは、ガレージキットがしている「真鍮キット」関連で、側板を交換する形、または、屋根と床板を既製品から流用して、側板、前面を交換するキットについて、「TOMIXの73系を利用したガレージキットが展開したように、最近KATOが展開している飯田線旧型国電シリーズを利用するガレージキット」の製品化が展開することはあるのだろうか」と伺ったことにあります。これに対しての町田さんの話が、「ガレージキットを展開するための条件」として、「ガレージキットの元となる製品が安定供給されていること」、もう1つは、側板交換タイプのキットでは「角のRの表現が難しいこと」から、難しいものがあるとのことでした。「元の製品の安定供給」については、キットがあってもキットの存在を前提とする元の製品が手に入れられないと製作ができない、ということで、TOMIXの73系を基としていたBONA FIDE PRODUCTSの73系も、最近は、屋根板と床板も製品に入れて、BONA FIDE PRODUCTだけで完結するように、方針が変化しています。
 「角のR」については、旧型国電の本質とも関係するもので、この部分の表現については完成品、きっとそれぞれでいろいろなアプローチがあります。写真上は、左が現在加工を行っているKATOのクハ68420、クモハ53007、クハ68400、右がキングスホビーの真鍮キットの大糸線セットのクモハ41の側板と前面です。角のRを正確に表現する、という点で絶対的に有利なのは、一体成型製品で、キットでは角のRの処理が問題になります。キングスホビーのキットの場合は、側板から妻板までが1枚板で、角の所を自前で曲げて、妻板を中央で結合する、という方式になっています。また、前面パーツのように、曲げ済みの妻のパートを同封する、という方法もあります。キットで一般的な、「側板と妻板を角で突き合わせる」という方法では、戦後型旧国のように角のRが15mmで「角張っている」場合は、「軽くヤスリで削る」だけで処理できるのですが、60mmの場合は、かなり削り込まないと60mmのRが表現できないことと、戦前型では「角の所にリベットが並んでいることが多い」ため、「リベットを残して角を削る」ことが非常に難しいことが、側板交換型の戦前型のガレージキットを作りにくいとの話を伺いました。この問題への対処の1つがキングスホビーのキットのような、「側板と妻板を一体化して、曲げて角を表現する」手法です。この「曲げる」のも難しく、1990年代前半にシバサキ模型が発売していたクモハ40形半流車や、キハ07形気動車は、「前面のRを自前で曲げる」方針で、うまく曲げるにはかなりの技術が必要です。
 写真下は、左はリトルジャパンモデルズのクモハ42型キットを使って製作した、片町線のクモハ32001、右はGREENMAXの伝統的な旧型国電キットの、クモハユニ44の側板、妻板です。60mmRの表現は、プラキットでも問題で、大抵雨樋縦管のところを分割線にしているのですが、側板側に入る60mmRの角の所が接着ののりしろになり、この部分が薄いと接着部分の強度が低下してしまうのですが、60mmRそのままだと、1/150では0.4mmになり、強度不十分になってしまうため、この部分を厚くモディファイしています。このため、妻板の雨樋縦管が少し内側に入るのですが、これが問題になったことがあります。TMSに旧型国電をいろいろ発表している藤井良成さんが片町線の旧形国電を発表したことがあるのですが、ここでリトルジャパンキットで、「雨樋縦管が内側に寄っている」ために前面の感じがかなり変わっていることを指摘しました。また、私の方でも写真のクモハ32001を製作しているときに、前面窓をHゴム支持に加工しているときに、前面がイメージ通りにならず、「雨樋縦管が内側に寄っている」ことに気づきました。
 旧型国電の模型については、ちょうど現在発売中のTMSで宮下さんが記述していますが、「旧型国電の感じ」を出すためにけっこういろいろな「注意点」があり、何かが少しずれるだけで感じが劇的に変わることを指摘しています。かなり前のこの場でも、HOスケールでの「ウィンドシル」の表現で、「1.7mm帯板と1.8mm帯板の使い分け」が話題になったことがあります。ノーシルノーヘッダーの期間(昭和14,15年)の前のシルと後のシルでは、後の方が幅が狭く、この違いが「1.8mmと1.7mmの違い」になるそうで、使い分けると違いがよくわかるとのことでした。
 

阪和社形クタ7000形の製造申請、認可と実際の落成、熊谷駅―深谷駅間直通バスの終焉

 投稿者:原口 悟  投稿日:2020年 3月28日(土)15時36分53秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんにちは

阪和社形クタ7000形の製造申請、認可、落成について
先日宮城社型800形について、「実際は24両製造の予定だった」との記述があったことをこの場に紹介しましたが、車両の「申請・認可・製造」について、阪和社形クタ7000形に詳しい記述があったことを思い出しました。
 RP87-12号の阪和線特集で、阪和社型の車両の記述(P45~52)があり、その中のクタ7000形の記述に


続いて、第2陣は昭和14年6月13日付でクタ7000形7003~7022の20両の設計認可申請を行ったが、この認可は20両を7003~7017の15両に削減されたものの、昭和15年8月12日付で得られた。(中略)これらの車両は、7014~7017の4両が未竣工となった以外は順次竣工している


とあります。すなわち、20両申請に対して15両認可され、実際は11両竣工したことになります。竣工は昭和17年になってからで、5月に7003が帝国車両、8月に7004~7007が帝国車両、7008~7013が翌年3月に日立製作所で竣工しています。申請してから竣工するまでだいぶタイムラグがあり、新製は昭和14年、認可が下りたのは昭和15年、落成したのは昭和17年度となります。モタ3000、クタ7000形の1次車とは屋根の設計変更(鋼板屋根から布張り屋根)があり、同時期に省電のモハ60形もノーシルノーヘッダーの張り上げ屋根から、シル、ヘッダー付きの布張り屋根に変化しており、設計変更の時間が挟まって落成が昭和17年度にずれ込んだことが考えられます。また、阪和電鉄と南海鉄道の合併は昭和15年12月のことで、合併に伴ういろいろで実際の発注が昭和16年度後半まで伸びたことも考えられます。
 ここで気になったのが「未竣工となったクタ7014~7017の4両はどのメーカーに発注されたのか」です。落成した車は帝国車両が5両、日立製作所が6両で、モタ300系列、モヨ100系列を製作した日本車両(モタ328~330以外のモタ300系列全て)、汽車会社(モタ328~330のみ)、川崎車両(モヨ100系列のみ)とは別のメーカーに発注されたのに対して別メーカーになっています。3メーカーでモタ3000系列を製作したのは日本車両だけ(モタ3000形全て、クタ7001, 7002)です。モタ3003~3007を併せて製造メーカーから5両程度ずつ落成しているので、別のメーカーに4両発注されたのが未着手に終わったか、モタ300形以来のつながりがある日本車両にクタ7000形4両も発注されたか、といったことが考えられます。クタ600形との関連も考えられるのですが、元々南海本線向けに認可された割り当てを急遽転用したものなので、クタ7000形の認可とは無関係(15両落成することを見込んでさらに不足を予想したのではないか)と考えます。
 他の私鉄の「申請」と「落成」の関係ですが、情報を見たのは、上記の宮城800形の他、南武モハ150、クハ250形があります。実際にはモハ150形10両、クハ250形5両が落成しましたが、倍の「モハ150形20両、クハ250形10両」が新製された、との情報を見たことがあります。両数比がモハとクハで2:1なのは、MTM編成を組むためだそうで、ここでも、以前この場で紹介した「戦前の制御車の位置づけ」があくまで「付随的なもの」で、多客時増結用の色彩が強かったことが伺えます。メーカーはモハは全て帝国車両、クハは全て汽車支店です。

熊谷駅―深谷駅間路線バスの終焉
 今日の夜、テレビ東京系列で「ローカル路線バスの旅Z」が放映されました。この番組で、地元の熊谷駅と深谷駅の間を走る路線バス(国際十王交通)が出てきました。この路線は、前の「ローカル路線バスの旅」第13弾でも出てきたのですが、この路線は今月末で廃線になります。元々は、東武バスの路線で、1980年代は全て熊谷駅と深谷駅の間を直通しており、だいたい30分間隔で走っていたのですが、国際十王交通へ分社化された後、熊谷駅―籠原駅間の本数が増加した一方で、籠原駅―深谷駅間の本数が減少し、現在は籠原駅から熊谷駅方面に行くバスは区間運転を含めてだいたい20分間隔になっているのに対して、深谷駅へ行くのは1日7本(すべて熊谷駅―深谷駅間直通)になっていました。
写真上は、3月20日朝に撮影した籠原駅前を出発した深谷駅行バス、中央は3月21日午前に撮影した、「東方五丁目」バス停に停車する深谷駅行バス、写真下は折り返しの、深谷市役所前バス停を通過する熊谷駅行バスです。
 

石炭列車の終焉・松尾鉱業鉄道について

 投稿者:原口 悟  投稿日:2020年 3月22日(日)10時17分45秒
返信・引用 編集済
  皆さんおはようございます

石炭列車の終焉
 地元の太平洋セメント熊谷工場は、セメント焼成燃料として石炭を使っており、知瑠実線の扇町駅との間に石炭輸送列車が運転されていたのですが、3月末を持って運転を終了することが発表されました。太平洋石炭販売輸送の石炭列車が昨年末に運転を終了しており、この列車の運転が終了することで、長い歴史を持つ国内の石炭輸送の歴史が終わりを迎えることになります。熊谷工場では3月と9月に焼成炉メンテナンスのために運転を休止しており、このため、現在は石炭列車は運転してなく、恐らくこのまま運転を終了すると思われます。このため、1月中頃の石炭運転終了発表から2月中頃まで秩父鉄道三ヶ尻線沿線には石炭列車撮影のために人が集まっていました。写真上は2月8日に埼玉県立熊谷西高校近くの踏切で撮影した1本目の石炭列車、中央は熊谷貨物ターミナル駅を出発する2本目の石炭列車です。

 なお、現在の石炭輸送の動向ですが、学術雑誌ですが、「地質学雑誌」2019年8号に「秋吉台石灰石鉱山(住友セメント秋芳鉱山)と宇部沖の山Coal Centerの見学」として掲載されています。宇部。小野田線の記事でしばしば出てくる宇部炭田の沖の山炭鉱の後身として、輸入石炭の貯蔵基地が建設されており、石炭が陸揚げされた上で貯蔵され、出荷されています。この報告では、同時に美祢地区の石灰石鉱山からの石灰石輸送も記述されています。美祢地区の石灰石輸送は昔は美祢線の石灰石列車、現在は宇部興産専用道路による輸送が有名ですが、このほかにベルトコンベヤによる輸送が日本海側の長門市の港へ行われており、石灰石が出荷されています。港に隣接する石炭ヤードは、2018年秋の北海道訪問の時に、北海道内炭鉱から石炭輸送があった頃の室蘭と小樽の石炭ヤードの歴史について、この場で報告しましたが、「石炭を品質別に貯蔵し、出荷する」ことは現在の石炭ヤードでも変わっていないことが地質学雑誌の記事で確認できます。また、国内石炭時代の石炭ヤードのいくつかは、現在でも輸入石炭に変わって健在なところが宇部の他にいくつかあります(室蘭、苫小牧)。上記の秩父セメントへの石炭列車の出発駅は鶴見線の扇町駅ですが、ここには石炭ヤードは無く、首都圏では千葉県の市原の方に「出光バルクターミナル」があります。この地は、古くは出光興産の製油所があったところでもあります。

松尾鉱業鉄道について
 写真下は秩父鉄道デキ107です。同車は2018年末に除籍されたのですが、解体はされず、2019年春の広瀬川原工場イベントで、工場内に納まっているのを目撃しました。デキ107は、まだ現役のデキ108とともに、「松尾鉱業鉄道」から移籍してきました。先日の書き込みで触れたRF87-3増刊「特集 東北地方のローカル私鉄」でも紹介されており、阪和社形が走った線としても知られていたので記事を紹介したいと思います。
 RP87-3増刊号の松尾鉱業鉄道の記事は、「鉱山鉄道全般」の記事(P26~32)の他、昭和26年7月29日の訪問の記録(P55~57)が紹介されています。昭和26年7月の時点ではまだ電化されてなく、列車は全て蒸気機関車牽引でした。この訪問の直後に電化され、列車が全て電気機関車牽引に置き換えられたことになります。秩父鉄道デキ107,108は、この時に当時の秩父鉄道デキ8(後のデキ101)をベースに「ED50 1, 2」として製造されました。松尾鉱業鉄道の報告は、この後のRF97-4増刊「東北地方のローカル私鉄」およびRM誌の「消えた轍」でも紹介されていますが、いずれも昭和40年代に入ってからの阪和社形が入線してからの報告です。ここで気になったのが、昭和40年代の松尾鉱業鉄道の報告では、いずれも「盛業中で、景気がよく、華やかな印象を受けた」とのことで、松尾鉱山廃止に伴う昭和43年の旅客営業休止、昭和47年の路線全廃が「予想できなかった」と記述されていることです。鉱業関係の鉄道、列車の廃止が急なことは、当時の趣味誌でも触れられており、確か昭和45年頃のRP誌の貨物鉄道特集で、中川浩一先生がこれを「ポックリ病」に例えています。同時期には、他に雄別鉄道、羽幌炭鉱鉄道など、北海道の炭鉱関係の鉄道が廃止になっています。但し、松尾鉱業鉄道については、実は閉山のかなり前から経営が揺らいでいた、という資料が以前の職場の資料室にあったので紹介したいと思います。
 松尾鉱山は、硫化鉱の鉱山で、主要な産物は「硫黄」だったのですが、日本国内の硫黄鉱山稼働に当たっては、戦後にいくつかのエポックがありました。有名なのは昭和43年の大気汚染対策のための「硫黄の回収の義務付け」に伴う「回収硫黄」の流通で、松尾鉱山を含む硫黄鉱山の閉山に直結したことが知られていますが、この前、昭和35年ごろに、「アメリカの硫黄輸出の解禁」がありました。これは、「戦略物資」として硫黄の国外輸出を禁止してたアメリカが、方針を転換して硫黄の輸出を解禁したもので、硫黄の抽出方法が、日本の鉱山の鉱石採掘ではなく、地下に高温の蒸気を吹き込んで硫黄を分離して回収する「フラッシュ法」のためにコストが低く、「低価格の硫黄の流通が始まった」ことが日本の硫黄鉱山の打撃になりました。このため、松尾鉱業の資料も、昭和30年代中頃から経営基盤の不安定化と、鉱山内各部門の合理化の記述が相次いでいました。この資料を読んでみると、昭和41年の松尾鉱業鉄道への阪和社型の入線は、「鉄道部門のコスト削減」としての方向性が見えます。このため、昭和40年代初頭の一見華やかに見えた「松尾鉱山」は、内実はかなり不安定な状況になっていたことになります。なお、Wikipediaで「群衆事故」を見ると、昭和36年の「松尾鉱山小学校の事故」がありますが、この事故についても記述がありました。昭和36年1月1日のことですが、「鉱山の前途に不安がある中での事故」の見方での記述がありました。
 松尾鉱山の「鉱山町」は、現在でも廃墟が残っていますが、木造の建築物は、確か昭和47年に「延焼実験」として焼却され、コンクリート造りの建物だけが残っています。この、閉山当初の木造建築物も原型で残っていたころの情況が、当時のTVドラマの「ザ・ガードマン」で出てきました。「ザ・ガードマン」は、昭和40年から47年まで放送されたシリーズですが、松尾鉱山町が出てきたのは最末期の昭和47年の344話(11月12日放送)で、たまたま「ファミリー劇場」で放送したところを見ました。設定は、「八幡平鉱山」の鉱山町跡が「ヒッピーのたまり場」になっており、調査に行く、というものでした。時期的には延焼実験で木造建築が焼き払われる直前の辺りになります。
 

クモユニ147写真の訂正・宮城電気鉄道の記述など

 投稿者:原口 悟  投稿日:2020年 3月22日(日)01時13分36秒
返信・引用
  皆さんこんばんは

クモユニ147の写真訂正
 クモユニ147ですが、東海道線時代の写真で、連結に誤認があったので修正した写真を改めて撮影したので紹介したいと思います。

 写真上は鉄道コレクションのクモユニ147とクモニ143の連結で、60-3改正で大垣電車区に転属して、クモニ83形を置き換えた、クモユニ147とクモニ143の連結です。クモニ143は、60-3改正で1~3が大垣に、4,5が長岡に転属して、それぞれクモニ83を置き換えています(長岡へは沼津からクモユニ143が転属)。鉄道コレクション第20弾は、床下機器がある程度共通化されており、クモヤ145に一番近い配置になっていると以前伺っており、クモユニ147の方は、この共通の床下機器に対して抵抗器だけを取り替えた形態(101系のモハ101の抵抗器が付けられている)になっています。クモニ143はだいぶ異なっているので、GREENMAXのバルクパーツ(主に103系のもの)からいろいろ寄せ集めて床下機器を配置し直しました。

写真中央と下は111系と1両あるいは2両連結したもので、静岡、名古屋地区の荷電を表現したものです。こちらはKATO製品です。連結位置は111系に対して「米原側」だったことがわかり、後位(パンタ側)が先頭になっていました。写真では、111系の他、111系置き換えのために房総地区から転入した横須賀色の113系の編成と連結しているものも見つかり、「横須賀色+飯田線色」という非常に珍しい組み合わせが短い間ですが見られたことになります。

仙石線の「宮城電気鉄道」時代の記述
 先日1980年代のRP誌を何冊か入手したのですが、その中のRP87-3増刊号「特集 東北地方のローカル私鉄」があります。この10年後のRP97-4増刊号も東北地方のローカリ私鉄特集で、前のローカル私鉄特集増刊の一員です。「ローカル私鉄」の特集のはずなのですが、この中に「宮城電気鉄道」の記事(P49~53)がありました。宮城電気鉄道は「買収私鉄」のカテゴリーで、ローカル私鉄特集で取り上げられる範囲からは外れ、違和感のあるものでした。この記事は、「宮城電気鉄道時代」に特化しており、建設時から開業時の情況に重点が置かれています。「施設」は、後の仙石線になってからも、「仙石線」の個性になったものがあり、「車両限界」が、地下線(仙台駅)やトンネルがそれなりにあったにもかかわらず、地方私鉄限界から縮小せずに、地方私鉄限界そのままで建設されたことが記述されています。これが、買収後に17m省電、さらには20m級省電から103系がそのまま入線できたことに繋がっており、限界を縮小したために、省電が入るときに大規模な工事が必要になった南武鉄道―南武線等とは異なっており、他にも将来の輸送力増加のための先行投資的な工事がいろいろ記述されていました。車両については、開業当時の車が、大正末年の時点で丸屋根になっており、これは仙台地下線が関係していて、「屋根の高さを上げずに室内空間を確保するため」とのことでした。また、801形(国鉄になってからの2320形)は、「当初は24両製作予定」だったとのことです。結局宮城電鉄時代に間に合ったのは7両で、買収後に4両入りました。「これらの車は仙石線で昭和40年頃まで省形と一緒に活躍した後、転属・私鉄譲渡・廃車された」とあったのですが、この辺は誤認があり、1両(モハ2326)が転出した以外は転出せずに廃車になっています。ただ、当初は越後交通(長岡線)が導入する構想があったとの記述をどこかで見たことがあります。越後交通は当時は確か600Vだったので降圧工事が必要になった(1500V昇圧は確か昭和50年近く)ことが見送りの原因になったことが考えられます。
 

模型におけるクモユニ143とクモユニ147について

 投稿者:原口 悟  投稿日:2020年 3月 9日(月)00時33分28秒
返信・引用
  前納さん、皆さんこんばんは

クモユニ143とクモユニ147の違いですが、もう1つ、ジャンパ栓もあったことに気づきました。
 タイフォンの形態は、多分一番目立つものゆえ、MICROACE製品でもクモユニ143のシャッター式とクモユニ147のスリット式の違いは表現されていました。但し、「違いはそれだけ」とも言え、ジャンパ栓はクモユニ143は「KE76 x 3・片ワタリ」なのに対し、クモユニ147は119系との連結のため、「KE96 x 1・片ワタリ」ですが、MICROACEのクモユニ147の模型の方は、「KE76 x 3・片ワタリ」でクモユニ143のままでした。このため、KATOの119系とクモユニ147の製作で発生したKE96ジャンパ栓のパーツを使ってジャンパ栓パーツを取り替えました。
 クモユニ147は「119系との連結を想定」して、ジャンパ栓がKE96になりましたが、60-3改正で東海道本線に転用されてからは、連結相手が113系に変わったので、113系と連結するために何らかの工事が行われたはずです。113系と連結していて、KR96のケーブルがぶら下がっている写真も見たのですが、ケーブルが無くなっている写真が多いことから、大垣への転出後、かなり早い段階でKE96のケーブルは撤去したようです。となると、クモニ143との2両連結や、113系との連結では、特製のジャンパケーブル7(通称「お化けジャンパ」)を使っていたのかもしれません。

 なお、鉄道コレクション第20弾のクモユニ143も、車体の方は「KE76 x 3・片ワタリ」が表現されていますが、「スカートのパーツ」は、同時製品化のクモニ143と同じ、両側に「KE76 x 3」が表現されているものが付いていました。

クモハ123-1の製作
 鉄道コレクション第20弾にはクモハ123-1(改造当初)もあり、クモユニ147に続いて加工を行いました(写真上)。加工はしたのですが、当時前面にぶら下がっていた「ミニエコ―」のヘッドサインは付属してなく、GMキット等のステッカーにも付属は無いので、どうするか考え中です。

飯田線の大物輸送
 2月初めの横浜の鉄道模型イベントでは、今年はTOMIXのイベント記念品は「EF81試験塗装」と「シキ1000JR貨物タイプ」でした。シキ1000は、天竜川の電源開発の関係で飯田線と縁が深く、購入しました。製品は、製品化当時の「日本通運」のマークを黒く塗りつぶしたような表現になっていますが、実車は、社紋板を撤去してボルト台座だけが残っている形態になっており、この部分が「タイプ」になっています。シキ1000の写真を探してみると、1993年には水力発電所のタービンブレード輸送のために3両連結で飯田線に入っている写真が見つかりました。この形態を表現したのが写真下で、ヨ8000形もこの写真と番号を合わせ、「ヨ8404」としました。なお、機関車は、側線への大物車押し込みを考慮したのか、DE10形が飯田線を走っていました。JRになってからなので、JR貨物の色1000形が入線していましたが、天竜川の電源開発の歴史の長さから、昔からいろいろな大物車が入線していたのではないかと思います。
 

クモユニ143とクモユニ147

 投稿者:前納浩一  投稿日:2020年 3月 1日(日)11時03分19秒
返信・引用
  原口さん、みなさん、こんにちは。

クモユニ143とクモユニ147は、運転席横の小窓の高さと、前面警笛の蓋の有無が違っています。(飯田線は雪が少ないので蓋無し。)
クモユニ143の色替製品だと、これらの点もクモユニ143仕様でしょうね。
 

クモユニ147形の比較

 投稿者:原口 悟  投稿日:2020年 3月 1日(日)01時26分58秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんばんは

先の書き込みで「すぐに出てこなかった」と書いた、MICROACEのクモユニ147が見つかりましたので、119系に続いて各メーカーの製品を比較したいと思います。

 写真上はKATO、TOMYTEC鉄道コレクション、MICORACE製品を並べたものです。
 まず目に付くのは「帯の色」の明るさの違いで、119系も同様の傾向がありました。本来の色は確か「灰色9号」ですが、目に付くのがMICROACEの帯の色がかなり明るいことと、鉄道コレクションの帯の色が暗いことです。GREENMAXの119系と併せて比較すると

明るい MICROACE > GREENMAX > KATO > TOMYTEC鉄道コレクション 暗い

といった感じになります。また、水色(青22号)の色合いも微妙で、

青っぽい MICROACE > GREENMAX > KATO > TOMYTEC鉄道コレクション 緑っぽい

のような傾向が見られます。

 細部形態を見ると、パンタ周りはクモユニ143形と同様に「20mmの低屋根」が行われています(RP17-6増刊「国鉄形車両の記録 鋼製郵便荷物電車」P49)が、「クモユニ147時代の屋根を撮影した写真」は確認できませんした。飯田線内を走る限りは低屋根化は必要ないはず(119系も低屋根化はされていない)なので、クモユニ143形の車体設計から、骨組みの変更をする設計を避けて流用したことが考えられます。飯田線時代は低屋根の必要性はなかったのですが、JRになって身延線の旅客用にクモハ123形に改造された時に低屋根が行かされた形になります。模型ではどうなっているかというと、MICROACEとKATOは低屋根が表現されていますが、鉄道コレクションは低屋根が省略されています。鉄道コレクションでは、同時発売(第20弾)のクモユニ143形の方も低屋根が省略されています。
 クモユニ147形は、119系と雨樋位置を合わせるためにクモユニ143形に対して雨樋が上げられていることが知られています(RP17-6増刊「国鉄形車両の記録 鋼製郵便荷物電車」P49)が、先行製品であるMICROACE製品は、純粋なクモユニ143形の色替えで、雨樋位置はクモユニ143形の模型(手持ちの横須賀色の房総荷電2両セット)と同じ、低い位置でした。TOMYTEC鉄道コレクションはクモユニ143形と雨樋位置の違いが再現されていました。その割にはクモユニ143形の方も低屋根が見逃されていることになります。KATO製品はさすがにクモユニ147形として製品化されたので、雨樋位置は高いものが再現されていました。

 写真中央は、MICROACE製品と鉄道コレクションで、「クモユニ147+119系」を表現したものです。
 写真下は、60-3改正で東海道線に転用された状況を再現したものです。大垣電車区の荷電運用は、単行もあったようなのですが、2両連結の運用が多かったようで、写真は2両連結のものが多く見つかりました。荷電単独もありましたが、113系との連結もあったようです。大垣電車区にはクモユニ147形5両の他、長野運転所からクモニ143形が3両転入し、合計8両で運用されていたのでですが、2両組を作るときに、クモユニ147形だけの2両(下のKATO製品)や、クモニ143形だけの2両がメインだったようで写真も多かったのですが、クモユニ147+クモニ143という写真も見つかりました(上の鉄道コレクション製品)。
 ここで気づいたのが、60-3改正以後なのですが、「列車無線アンテナ」を付けている写真が見つからなかったことで、クモユニ147形、クモニ143形ともに、少なくとも1985年いっぱいは列車無線アンテナが取り付けられなかったようです。このため、「房総に転用されたクモユニ143形以外で、荷電としての営業運転時代に列車無線アンテナ取り付けが間に合った車はいたのか」が気になりました。

荷電の制御方式
 先に話題の1M車のモーターが荷電ではどうなっているかというと、クモユ141、クモニ・クモユ・クモユニ・クモヤ143形は端子電圧750VのMT57を新規設計する、東武8000系8500形と同じアプローチ、クモヤ145形は101系の流用で、端子電圧375VのMT46を使う、西武2000系に似たアプローチでした。ともに登場時期が近いのが興味深い点です。

119系の模型情報追加
 119系の模型は、GREENMAXが最初で、MICROACE、鉄道コレクション、KATOと続いたのですが、「再生産が行われた」のは、今のところGREENMAXが唯一です。再生産の間、床板の構成が変わっており、最初はGREENMAXが作ったのは車体だけで、床下と走行ユニットはTOMIXからのOEM供給でしたが、再生産では床下と走行ユニットもGREENMAXオリジナルになりました。最初の生産品は2両セット、再生産品は3両セットを持っているのですが、良く再生産で変化することがある「色合い」は、119系の場合は両製品での違いは見られませんでした。
 

KATOクモユニ147形

 投稿者:原口 悟  投稿日:2020年 2月 2日(日)14時12分49秒
返信・引用
  KATOの119系発売時には、クモユニ147形も発売されました。

クモユニ147形も、結構製品があって、MICROACE、鉄道コレクションのほか、WINの車体もありました。MICROACEと鉄道コレクションを持っているのですが、MICROACEはすぐに出てこなく、鉄道コレクションはまだ加工していないので、KATO製品だけ写真で紹介します。
写真中央は、飯田線時代の荷電併結列車、写真下は、60-3改正以降の東海道線時代の荷電併結列車を表現したものです。60-3改正で、飯田線での荷物輸送が廃止になり、東海道線のクモニ83形置き換えのために転用されたのですが、飯田線色のままで、61-11改正の荷物輸送廃止まで使われています。連結している車両は、以前に製作した静岡運転所の111系ですが、111系も、JR以降直前までに淘汰されているので、クモユニ147形と111系との組み合わせが見られたのはかなり短い間です。
 

Nゲージ119系の比較

 投稿者:原口 悟  投稿日:2020年 2月 2日(日)14時02分35秒
返信・引用 編集済
  皆さんこんにちは

昨年、KATOより、飯田線シリーズの一環として119系が発売されましたが、最近になって加工したので報告したいと思います。

写真上は、KATO製品を加工したもので、手すりとワイパーの別パーツ化を行っています。カプラーは、最近の標準の車体マウントの密着連結器ですが、胴受けが表現されていないものをそのままにしています。旧型国電では、クモニ13形用の胴受けを組み込んでいるのですが、戦後の旧型国電以降一般的になった形態のものは、115系非冷房車用、115系冷房車用、165系用の、ジャンパ栓も付いているもので、Treasure Townより出ている胴受けのセットも、より新しい形態のものなので、今のところ組み込むのに適した形態の胴受けパーツがなく、未加工になっています。

写真中央としたは、KATO製品とともに、先行した、GREENMAX、MICROACE、TOMYTEC鉄道コレクションの製品を並べたものです。模型としての原型ではなく、手すり別パーツ化等のディテールアップ加工をしているので、個々のメーカーの「個性」がやや埋もれていますが、MICROACEが、特徴を強調する傾向で、モールドが強く、GREENMAXが特徴を抑える傾向で、表現があっさりしています。このため、MICROACE製品では、半自動扉取手、ワイパーは未加工で、GREENMAX製品は、通風グリルを、TAVASAの103系用側面グリルを上から貼り重ねています。KATOと鉄道コレクションは、表現はその中間ですが、「KATOとTOMIX」では、一般にKATOの方が表現が強い傾向になるのに対して、119系では、鉄道コレクションの方がKATOより表現が強めです。
 なお、元の製品でのワイパーの表現は、MIAROACEとKATOはダブルアーム、鉄道コレクションはシングルアームに簡略化されたモールド表現で、GREENAXは、モールドは無く、印刷でダブルアームのワイパーが表現されていました。

VVVF車と初期新性能車について
前納さん、すぎたまさん、VVVF制御と新性能車についての情報ありがとうございます。
 初期新性能車のモーターの出力については、確かRPの101系の特集号で、「100kw」の出力は、全電動車方式、MT混成方式のどちらから見ても中途半端だったのではないか、との記述がありました。
 901系(209系900番台)も、複数の技術を比較、保有することを目的として、3編成で違う技術が導入されたような記述を見たことを思い出しました。1C1Mも、最近の電車の動向の中では、同期電動機装備車の専売特許のように記述されることが多いので、VVVF車の初期から、技術としては存在していたのが意外な感じでした。
 

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