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城東線・片町線の向きについて

 投稿者:73おやぢ  投稿日:2016年 5月15日(日)20時51分22秒
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  皆さん、こんばんは。

この話題は2010年の議論の参加者として、懐かしく拝見しました。当時の文章はどこかへまぎれてしまったので、「そういえば、そんなことも書いたっけ」と、他人事のように思い出した次第です。

高尾山麓住人さん

はじめまして。どうぞよろしくお願いします。さて、高尾山麓住人さんの疑問ですが、書籍の掲載写真から経緯の追跡と検証が可能なので、以下に紹介します。

その前に、「方転」を語る際は内容を整理しないと無用の混乱を招きますので、私なりに用語を定義しました。杓子定規で恐縮ですが、そのつど注を入れる手間が省かれるので、ご容赦ください。
奇数(または偶数)設計=車号の奇偶にかかわりなく、生まれながらに備わっている車両の向き。例…モハ41形は奇数設計であり、全て奇数向き(東海道線上における上り、すなわち東京向き)である。
方転=鉄道模型をつまみ上げて180度回転させ、再びレールへ戻したイメージ。床下にはいっさい手を加えない。単に車両の向きが変わっただけ。
方転改造=上記(方転)により、車体と床下機器の関係は基本的にそのままで向きを逆転させるが、他の車両と連結する必要上、引き通し関係は他車に揃えて変更した。

●40形は全車が偶数設計です
交通新聞社「国電車両写真集」90ページ中段に更新前の40039があります。撮影位置は蒲田区の交検庫を背景とした控車の常駐場所(後年はクモヤ90形の定位置)で、画面の左が電車区の終端、右が本線と合流していますので、写真は40039の海側であり、パンタの向きから偶数設計です。
同下段のやはり更新前40071は赤レンガ駅舎を背景とした東京駅2番線です。東京駅は中央線だけ見かけ上の向きが山手・京浜や湘南電車とは逆転しており、画面左(大阪方)が奇数です。この写真は引き通しも確認でき、手前の低圧回路は偶数設計の条件に矛盾せず、パンタの位置ともども偶数設計とわかります。

すなわち、東鉄の40形に関していえば、車号の奇偶にかかわらず偶数設計であったものが更新時に全車が方転改造されてパンタが奇数向きとなっています。この有力な理由としては、常用運転台の位置が考えられます。東鉄は原則として基本編成の奇数方に付属編成を連結するので、偶数設計の40形は常に第二運転台を使うしかなく、先の更新前40071の写真がそうです。乗務員にしてみれば、機器が完備した第一運転台(うろ覚えですが、たしか手ブレーキハンドルは第一にしかなかったような…)を常用したほうが何かと便利なはずです。この点、晩年の青梅線増結の40形(更新後)が第一運転台を常用していたのは、理にかなっています。

昭和39年ごろに発行された鉄道友の会機関誌「RAILFAN」に国電の方向に関する連載記事があり、40形の更新にふれた回がありますので、参考図を掲げます。商業誌のコピペはご法度ですが、機関誌なら許されるかなと。図は国鉄式に上方から透過したもので、CSは主制御器、CMは空気圧縮機です。40形の方転改造のからくりとともに、41082~が車号の奇偶にかかわらず全車が偶数向きなのは、片運化の時点における40形が偶数設計だったことに由来している点も、お分かりいただけるのではないでしょうか。

●片町線の”第一次方転”は存在した
まず、自連時代の写真を検証します。
「関西の国電」3ページ上のクハ55012(昭和7年10月撮影)は淀川区の交検庫を背景としているので画面左が電車区終端、右が本線ですから、運転台は城東線上で大阪向きです。
その下のモハ41003(昭和8年4月撮影)は庁舎側から撮影しているので、41003の運転台は本線側を向いており、城東線上では天王寺方です。後位に連結されたクハ55との関係も矛盾しません。

プレスアイゼンバーン「大阪の省電2」6ページ下、淀川区構内の55+40(昭和7年11月撮影)で、モハ40の第一運転台(およびパンタ)がクハ55と同じ向きであることから偶数設計とわかります。第二運転台が本線側であり、天王寺方です。
同書8ページに地平時代の大阪駅に停車中のモハ40×2の写真(撮影は昭8ごろと記載)があり、パンタは手前にあります。画面奥に見える鉄道の乗り越し橋は阪急の旧梅田駅なので、この40形は画面の奥(天王寺方)へ進出してゆくことになり、パンタは大阪方、やはり偶数設計の特徴を備えています。
以上から、電車運転開始時は城東線上で示せば、
←大阪 クハ55+モハ41 天王寺→ または
←大阪 クハ55+(第一運転台)モハ40(第二運転台) 天王寺→
でした。大井工場で電装後に順方向(東京→吹田操→巽信→淀川)で回送すれば自然とこうなります。すなわち「関西の国電」の記述は昭和9~18年の状態を昭和7~18年と解釈している点が誤りです。

これが本線の電車運転開始と吹田工場の電車修繕開始により、淀川車は全車が方転しました(いわゆる”第一次方転”)。方転後の状況は、密連時代の写真でわかります。
「電車のアルバム」59ページのモハ41とクハ55は昭和13~14年ごろに淀川区で撮影されており、分岐の開きや背後の庁舎を勘案すると、モハ41は電車区の終端、クハ55は本線を向いており、
←大阪 モハ41+クハ55 天王寺→
となります。
「関西の国電」2ページ下の密連40001は背後の庁舎から第一運転台が本線側(天王寺方)であり、これも自連時代とは向きが逆になっています。

これらが昭和18年に再度方転、
←大阪 クハ55+モハ41 天王寺→
となって、この形態は旧型最終まで続きました。

この一連の変化できわめて重要な点は、全て単なる「方転」であって、引き通しに変更がない(自連→密連取り替えに伴う低圧回路の移設は車両の向きと無関係)ことです。それゆえ比較的短期間に二度も引っくり返すことができた、ともいえます。

●吹田工場における向きはどうなっていたか
そうすると、「東海道線上で大阪方が偶数」のような今日的視点で考えると、修繕開始時点における吹田工場内では、車両の向きは隣接して並行する東海道線上とは全て逆だったのではないか、との疑問ないしは仮説が生じます。これも写真である程度の検証が可能です。
「関西の国電」9ページ下のモハ10184、この車両を建屋の背後に並行している東海道線へそのまま移動して載せたとすると母線が山側になり、本来の「東海道線上で云々」とは逆向きであることがわかります。
同書76ページ上のモハ42003、電気側に太陽光があたっており、なおかつ低圧回路が手前にあります。後方の63形は1位に開放栓受がないので奇数車です。つまりこの2両も、背後の東海道線との関係を考えると、やはり向きが逆転しています。

およそ電車の修繕において、制御器や空気溜がどちら側にあるかは、さしたる問題ではありません。現に、戦後に東鉄から大鉄へ転じた51形(偶数設計)は更新後も海側に電気機器が存置されています。しかし、引き通しは大問題です。吹田工場にしてみれば、入場してくる宮原車と淀川車で高圧や低圧の引き通しが全く逆であると、作業能率が低下するばかりか、錯誤が生じる危険もあります。そもそも引き通しの異なる車両同士は尋常な方法では連結できず、落成試験もままなりません。引き通しとは無縁の蒸気機関車でも、例えば大宮工場では高崎方を前位として製缶職場へ入場させ、カマの所属がどこであろうが、ボイラーの向きは常に揃っていました。

以上のように吹田工場内の在姿状態は東海道線上と逆だったので、これまた今日的視点によれば「大阪鉄道局はルール違反だった」と言いたくなります。しかし、当時は東海道線のほとんどが非電化で、大阪の電車は”離れ小島”だったので、宮原車と淀川車の向きさえ揃っていれば作業上は何らの支障もありません。もちろん現在は東海道線上と同じ向きになっており、おそらく東海道線の全線電化あたりに設備の転換が図られたのではないかと想像しますが、「吹田工場百年史」でも言及されておらず、確たる記述は見つけきれておりません。



 
 
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